あの日


なんとなく小保方さんの「あの日」を読んでしましました。

「STAP細胞は、あります!」

の言葉でも有名になった小保方さんは、この言葉も勿論そうですけど、およそ、論理的・客観的思考と文章を作成し続けるリケジョとは思えない程、感情的な言葉の表現が上手いと思います。

この本の中でも

「私の心は正しくなかったのか」

「これまでの生き方全部が間違っていたのか」

「ただただ涙がこぼれた」

「業火に焼かれ続ける無機質になった」

これらの言葉は、冷飯食いだと自認する人には多少なりとも染みる言葉です。

そして、読むほどに

「渡る世間は鬼ばかり」

と小保方さんが感じているのがひしひしと伝わり、いつの間にか、実名で語られる人々が本当に鬼に見えてきます。

そして、小保方さん、かわいそうと。

気が付くと、彼女が被害者であるかの如く読める訳です。

ただ、彼女は上記のような感情表現が豊かな分だけ、客観的事実についての論拠は、この本の中でも大変薄いと思います。
研究の進め方や内容については、素人にも分かりやすく、客観性も十分持たせた表現になっているのですが、反面、本の冒頭部分から、小保方さんが「未熟だった」と自ら反省するのは、具体的に何に対して反省しているのか、どこまでが自分の不始末で、どこからが実名の方の不始末だと考えているのか、その論拠は何なのかが、非常に曖昧だと感じますね。

真実がどこにあるのかは、この本を読んだだけでは、断じられないですね。。

小保方さんは、如何に精神的つらい取り調べだったか、反論の余地が無かったか、脅威だったかを滔々と述べています。
しかし、それ自体がイコール客観的な事実に基づく調査が行われなかったという証拠にはならないのに、なんとなく感情的には事実ではないことに基づく調査であるように錯覚しやすい書き方のように感じます。

ただ、一つだけ、研究の現場に 起きやすいこととして、研究成果の実績の大小が、組織の中における偉さに結びつく比重が、資質云々より高いように思われます。

素晴らしい実績を作った、それらの人は報われなければならない、そこで高い役職と報酬、資質は二の次、というか資質については良く分からないって言う感じ、これは脆いですよ。

素晴らしい実績を作った人に対して、報いを与えるのは必須です。

ただ、マネージメント的に高い立場に立たせるかどうかの判断は過去の実績に対しての比重より、あくまで資質に重きを置いた上で決定すべきなのでしょう。

なので、今回の件も、資質について、事件が起きてから、「研究者としての資質なし」なんて言うのは、このような実績重視主義のお粗末な結果ではないでしょうか。

ユニットリーダになる前に、どれくらい資質を観られたのでしょうか。

このような仕組みが、小保方さんの被害者意識の中にも入っているのだと思います。

小保方さんが「私の心は正しくなかったのか」と言っている言葉の裏には、以下の気持ちがあるのではないでしょうか。

「今まで、私の心は正しいと認めてきたのに、どうして今更『やっぱ、正しくない』って言うの?」
「どうして今更なの?、だったら事件発生前からそう言ってほしかった。」

この事件を契機に、日本の研究組織全体が「実績」より「資質」に重きを置いた組織体制に変化することを期待するばかりです。

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