中尊寺金色堂 小話⑦ ~東北調査紀行3~

今回は、中尊寺金色堂から始まった東北調査紀行の第3弾です。
※第1弾、第2弾はこちら⇒東北調査紀行1東北調査紀行2

前回、平泉の中尊寺を訪問した後、義経の最期の地とされる高館を訪問しました。(写真①
①高館義経堂から歩いて「柳之御所跡」へ向かう
そして、写真①の場所まで戻ると、そのまま南東方向へ歩き出し、奥州王国の政庁があった場所、「柳之御所(やなぎのごしょ)跡」に向かいました。

今回は、ここから話を続けます。

1.柳之御所跡

さて、今回見て廻った場所の見取り図です。(写真②
②高館から柳之御所へ
※歩いたコースは黄色い点線です
出典:柳之御所資料館模型
写真①の高館義経堂の入口を起点に黄色い点線に沿って2㎞程歩くと、柳之御所跡に着きます。

そもそも平泉は、写真③の解説にもありますように、奥六郡(看板地図中、紫に塗られた東北内陸部)の玄関口(中央政権の派出所である仙台 多賀城から見て)に、藤原清衡(きよひら)が造った中核都市なのです。(写真③
③奥六郡(奥州王国)と平泉
出典:柳之御所資料館
私が盛んにblogで「奥州王国」と言っているのは、この奥六郡のことです。

勿論、奥六郡も中央政権下に存在する一地方郡ではありますが、奥州藤原氏は、この郡からの税収だけでなく、奥羽で取れる金や名馬から上がる利潤を上手く活用し、仮想的な蝦夷(えみし)の半独立経済圏、いわばバーチャル王国を作り上げていたのです。

なので、その概念的な意味合いも含めて、私はあえて奥六郡のことを奥州王国と呼んだ訳です。

逆の視方(みかた)をすれば、古(いにしえ)の奈良時代に律令で決めた行政機能は、平安時代の藤原摂関政治の基、荘園制度等の発展により、グダグダに崩れ始め、このような京の都から遠い地方では、バーチャル王国の存続を許してしまうような、複雑な国に日本はなってしまったのです。

このような制度の限界を感じ、奥州王国を日本という国の中の大きな腫瘍のように感じ、これを潰さなければ真の統一社会は出来ないと考えた漢(おとこ)がいました。

源頼朝ですね。

彼は、高館にて義経を討ち、その首を差し出した奥州藤原氏4代目の泰衡(やすひら)を赦すどころか、28万もの大軍を持って、自ら平泉へ攻め入ります。これを奥州合戦と言います。

泰衡は、勝ち目なしと踏んだのか、平泉の柳之御所に自ら火を掛け、灰と化して、平泉を放棄し北方の厨川柵(くりやがわさく)へと逃げて行きます。

頼朝軍は、1189年の8月にその何もかも無くなった平泉に入城します。

多分季節も私が訪問した時期と同じ頃ですから、灰こそありませんが、景色としては写真④のような、だだっ広い政庁跡を見たのかも知れません。(写真④
④何もない(東側から見た)「柳之御所跡」
また歩いている途中、写真⑤のような池等も多く見られましたが、この辺り、池を持つ邸宅や高屋(たかや)と呼ばれる倉庫が立ち並ぶ通りだったようです。(写真⑤
⑤池を持つ邸宅跡
実は何もかも無くなったと思っていた、ここの倉庫に唯一残されていたものがあります。

」です。しかも大量に。

これを見つけた頼朝軍は大変驚きましたが、頼朝は全く動じません。
彼はこれがあるからバーチャル王国である奥州王国は潰すべきと、ずーっと構想していたのですから。

2.泰衡からの書状

さて、平泉に入城した頼朝の宿所に、書状が投げ込まれたと『吾妻鏡』にはあります。泰衡からの書状です。概要は以下の通り。(Wikipediaから)

「義経を討ち取ったのは、罪ではなく勲功ではないでしょうか?そもそも義経を平泉に招き入れ、保護したのは亡父・秀衡であって、私はなんらそれらに関与していません。罪無くして成敗されるのは不本意です。現在累代の在所(柳之御所のことか?)を去り、山中を彷徨い、大変難儀しています。出来れば私も頼朝殿の家来の一人として頂けませんか?せめて遠流として欲しいです。」

理が通った話のように感じます。しかし、頼朝は、100年前の後三年合戦源義家(よしいえ)が慈悲をかけた清衡(きよひら)が、結局は裏切り、奥州王国を打ち立ててしまうことを知っています。そう、奥州藤原氏はやはり根絶やしにしなければならないのです。

また、泰衡は、自分たちに起きている事象を、単なる事象としてしか捉えておらず、その裏にある頼朝の深慮遠謀等、全く想像も出来ない人物であるということをこの書状で赤裸々にしてしまっています。

これでは頼朝は、泰衡は傑出した人物だから、殺すのは勿体無いとは思わないでしょう。
理不尽ですが、現代もこの時代も、その辺りの匙加減は同じですね。結局泰衡は、逃亡中に部下から殺害され、その首を頼朝軍に差し出されてしまいます。

◆ ◇ ◆ ◇

このシリーズの「~東北調査紀行1~」で、金色堂には奥州藤原3代のミイラがあるとお話しました。(ミイラの写真はここをクリック

4代目の泰衡の首もあるのです。しかし公式には3代のみということになっていました。(写真⑥右
⑥奥州藤原氏3代の棺(左)と
「忠衡公」と書かれた首桶(右)
何故でしょうか?

それは泰衡の御首が入れてある棺に書かれている名前です。(写真⑥左

忠衡(ただひら)公」と書かれています。

忠衡とは泰衡の弟で、最後まで亡父・秀衡(ひでひら)の遺言を遵守し、義経を守ろうとした人物です。

長い間、この首桶に書かれた文字を信じ、この首は弟の忠衡のものだと信じられてきました。

いや、信じる以前に忠衡のものか、泰衡のものかの客観的な判断が出来ない程、この首は損傷していたようです。16箇所の切創や刺創、さらには鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡があるという凄惨なものです。(写真⑦

なので、言い伝えのように忠衡としていたのですが、1950年代のX線調査等により、この首の頭蓋骨部分に18㎝以上の釘を貫通させた後が見つかったのです。(写真⑦のA、B,Cは削がれた部分)
⑦泰衡の首
「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」でも書きましたが、頼朝は奥州合戦で、平泉を無血開場した後、北へ逃げた泰衡を追いかけ、現在の盛岡市にある厨川柵まで駒を進めます。

この厨川柵、実に133年前の1056年、前九年の役の帰結として、当時の陸奥国守の源頼義(よりよし)が安倍氏征伐を行い、当主安倍頼時(よりとき)の首を八寸釘で打ち抜いて柱に打ち付けたのです。
この故事に倣い、頼朝は泰衡の首を同じ八寸釘で同様に打ち付けたとの記録が吾妻鏡に残っているのです。

その記録と頭蓋骨の貫通跡が一致します。それ以来、この首はやはり奥州藤原氏4代目泰衡のものと鑑定されたのです。

ではどうして首桶に「忠衡公」と書かれているのでしょうか?

奥州王国が滅びても、中尊寺は残った訳であり、当然その中核である金色堂、さらにはそこに安置してある藤原氏のミイラ等は、鎌倉幕府から注目される訳です。

残された奥州王国の人々は、何とか4代目泰衡の首も、3代目までと同様に残してあげたい。しかし、奥州合戦における頼朝軍の敵のトップたる泰衡を、他の3代と同様に堂々と残すことは、鎌倉幕府が続く限りは出来ないのです。
⑧私のためだけに再度開館してくださった柳之御所資料館

そこで、奥州王国の人々は一計を練り、弟の「忠衡公」の首と称して、泰衡の首を3代と一緒に葬ることで、幕府からの訴追を逃れたという訳です。

◆ ◇ ◆ ◇

以上の話全て、「柳之御所資料館」(写真⑧)で知りました。しかし、この資料館に到着した時には、閉館時間である17時を10分程度過ぎており、館員の方々が車で帰宅されようとしていたところを、無理に頼んで、態々私だけのために、資料館をまた開けて下さるというご負担を強いました。この場を借りて感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。(写真⑧

3.無量光院(むりょうこういん)跡

さて、平泉も駆け足で見て廻り、中尊寺駐車場へ向かう私の視野に美しい池が飛び込んできました。(写真⑨
⑨無量光院跡
ここは、無量光院跡と呼ばれる場所で、3代目藤原秀衡が、宇治の平等院鳳凰堂を模して、建てた寺院の跡です。(写真②で地理的な位置もご参照ください

写真⑨の真ん中にある看板を読むと、なんと平泉市がVR(バーチャル・リアリティ)の取組みをしており、写真⑩のような院の建設当時の想像図が、特設ゴーグルを掛けることで、この場所で見えるとのことでした。(写真⑩

確かに平等院鳳凰堂によく似ていますね。

ちなみに、写真⑩の右側の写真にありますように、私が訪れた8月には、ちょうどこの平泉の金鶏山(きんけいさん)の山頂と本堂等の建造物の中軸線上に夕日が沈むのを見られるのだそうです。(残念ながらこの日は日没頃曇ってしまい見えませんでした。)
⑩無量光院のVR写真

4.おわりに


1代目清衡は中尊寺を、2代目基衡(もとひら)毛越寺(もうつうじ)、3代目秀衡無量光院と、ここ平泉を、奥州王国の京の都とすることに一生懸命だったようですが、多分その蝦夷(えみし)の国家形成が、バーチャル(仮想)なだけに「儚(はかな)い」ものであることを奥州藤原氏3代は予想していたのではないでしょうか?

⑪何も無い(南から見た)柳之御所跡にて
※左手の小山が高館義経堂
と考えたのは平泉は、この奥州王国の入口に位置することは先に述べました。(写真③参照

普通そのような都市であれば、王国への敵来襲に備えて、城砦を築く等、武力による防禦建造物で固めるべきですよね。

ところが、奥州藤原氏3代は、ここに寺院等、スピルチュアルなもののみで固めており、またその建造物には、末法思想が色濃く出ているのです。

私はバーチャル国家とは?という疑問に一つの答えを奥州藤原氏から貰っているように感じました。

皆さまはどう感じられますか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました。



義経と奥州藤原氏の滅亡 小話③ ~江の島訪問記 その2~

源頼朝が奥州藤原氏の調伏を祈願した江の島。(詳細はこちらをクリック

今回の「Tsure-Tsure」は、その訪問記の第2段です。(地図①

是非、この江の島訪問記は、メインblogである「マイナー・史跡巡り」の記事「義経と奥州藤原氏の滅亡② ~江の島~」と併せてお読み頂ければ幸いです。(こちらをクリック
①前回は「10.辺津宮」まで来ました
1.奉安殿

1180年、石橋山合戦で敗れた後、千葉県は房総半島に逃れて来た頼朝が、ぐるっと東京湾を廻って、鎌倉入りした後、一番恐れた敵は平家ではなく、奥州藤原氏であったと拙著blogで描きました。(詳細はこちらをクリック

それは、平家打倒を源範頼(のりより)義経に任せ、自分は鎌倉から動かなかったこと、その後の奥州合戦には頼朝自ら28万の軍を動かして盛岡まで遠征したことからも明白だと思います。

世間では良く、「頼朝は石橋山合戦で敗北する等、義経程の戦上手ではないから、最強敵である平家打倒は義経らに任せた」と言われますが、決して彼自身は、そんな認識は無いと思います。
やはり奥州王国がある限り動けなかったでしょう。その証拠が1182年に、この江の島の弁財天に奥州藤原氏の調伏を祈願したことにも顕れています。

現在、その調伏祈願の弁財天さん、奉安殿という六角堂のようなお堂の中にあります。(写真②
②奉安殿
このお堂の中の撮影は禁止なので、Webから弁財天さんの写真をお借りします。(写真③
③江の島の弁財天像
弁財天の像は2つあるのです。左の白い弁財天は、皆さん一番馴染みがあるものではないでしょうか?結構新しいように見えますが、これでも鎌倉中期の傑作です。

実は江戸時代、江戸から行楽で江の島の弁財天にお参りする方が多かったようですが、それがこの女性らしく、やさしい感じの弁財天の方がお目当てだったようです。

調伏祈願した像は、右側の像です。白い嫋やかな左の弁天様と比較して、黒くて何やら強そうですね。八臂弁財天と言います。(ちなみに左側は二臂弁財天、八臂や二臂は腕の数です。)

「マイナー・史跡巡り」でも書きましたが、腕の数が右側の弁財天様は8つあります。阿修羅は6本の手ですし、水の神だけにタコを意識したのですかね?

8つの手に8つの技を持つのだそうです。
ちなみに「口八丁手八丁」、この八臂弁財天から来ている言葉だそうです。

つまり、頼朝は「口八丁手八丁」で奥州藤原氏を調伏したのです。具体的に彼がどうやって調伏したのかは「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡」をご笑覧ください。

2.奥津宮

そして、この弁財天は中津宮を経て、奥津宮へと続きます。(写真
④中津宮

⑤奥津宮
この奥津宮の鳥居が頼朝が寄進したものとの記載が吾妻鏡にあります。(現在のこの鳥居は2004年に再建されたレプリカですが。)

その時の様子を吾妻鏡で描いている場面では、頼朝のそうそうたる家臣団がこの江の島の調伏祈願に一緒に来ていることに驚きました。

頼朝は本気だったのですね。バーチャル国家である奥州王国の殲滅は。

3.義経の首

さて、頼朝の奥州藤原氏を調伏し、奥州王国を滅ぼすことが成功した1189年。奥州王国が滅びるちょっと前に義経の首は、この江の島の対岸に当たる腰越の浜に打ち捨てられました。

そこから、本当に首が境川を遡ったのかどうか分かりませんが、写真⑥のように現在の藤沢の国道1号沿い辺りの首洗井戸で、洗われたとあります。(写真⑥
⑥義経首洗い井戸

また義経は、この首洗い井戸の近くの白旗神社に祀られました。(写真⑦
⑦義経を祀った白旗神社

これが史実なのですが、問題は江の島海岸から6㎞も境川を、首が遡ることが出来るかということです。この神社のHPにも、首が遡って来たと書かれています。
私も「マイナー・史跡巡り」では、「どんぶらこ、どんぶらこ」と遡ったと書きました。

しかし、幾ら満潮時でもこの急流な境川を6㎞も遡れるとはとうてい考えられません。

どうしてなのでしょうね?また判官贔屓のなせる技なのでしょうか?祀られている白旗神社が旧東海道沿いであることから、後世、江戸時代の江の島観光目当ての人々が、観光名所としてアクセスしやすい場所にするためではないかと勘繰りたくなってしまいます(笑)。

この件は、もうレジェンドの領域を出ることは難しそうです。

そこで、もう一つ私が感心したレジェンド、江の島のトンボロ形成と話を併せたのが、「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」のエンディングに描いた物語なのです。(詳細はこちら

4.江の島のトンボロ形成について

トンボロ(tombolo)とは、イタリア語で、元々海だった場所に波が運ぶ砂が溜まって、陸地になることを言います。フランスのモンサンミッシェルが有名ですね。

江の島もまさにその現象があります。(写真⑧
⑧江の島のトンボロ
干潮時、1時間程度は、このトンボロの上を歩くことが出来ます。私も昔、海水浴にこの海岸に来て居た時、干潮時に昼寝をしていたら、徐々に東西両側から波が押し寄せ、あっという間に水浸しになった経験があります(笑)。

江の島があれば、トンボロが出来たこと自体はなんらレジェンドではありません。出来る仕組みは図⑨のように、波と砂の力学的な仕組みも解明されていて、実験的にトンボロを発生させることも出来るようです。(図⑨
図⑨ トンボロの出来る仕組み
※江の島水族館ご提供資料より抜粋
レジェンドなのは、江の島でこれが出来たのが1216年と記録にあります。何でよりによって鎌倉幕府が出来たばかりの頃なのでしょうか?1189年に義経の首がこの辺りを漂っていてから27年後です。

江の島自体は2~8万年前には出来ていたようですので、1216年という八臂弁財天を勧請し調伏祈願してから34年後、奥州藤原氏滅亡から27年後にこのトンボロが出来、現在まで800年間そのトンボロは存在し続けているのです。

江の島が出来て、数万年スパンの中で、義経の首が江の島前を通過してから数十年後というタイミングで本土と繋がったという事実は、地質学的に偶然の一致という言葉だけで済ますことが出来ないように感じるのは私だけでしょうか?

なので、「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」のエンディングに描いた物語のように、義経を殺し、奥州王国の殲滅に導いた江の島弁財天と義経の首が和解した象徴として、このトンロボが出来たという新しい伝説が出来ても不思議ではないと思いませんか?(詳細はこちら

江の島から白旗神社に来た私と娘はそんな事を話しながら、この白旗神社から帰路についたのでした。(写真⑩
⑩白旗神社の義経公鎮霊碑前にて
最後までお読み頂き、ありがとうございました。

江島神社、義経首洗井戸、白旗神社の地図はこちら↓

中尊寺金色堂 小話⑥ ~東北調査紀行2~

拙著メインブログの「マイナー・史跡巡り」の進捗に合わせて、色々な紀行文が交じり合うので、混乱される方もいらっしゃるかもしれません。

今回は、中尊寺金色堂から始まった東北調査紀行の第2弾です。
※第1弾は、こちらをクリック下さい。

中尊寺を見た後は、そのまま歩いて、義経の最期の地である「高館(たかだち)」を目指します。(巻末のGoogleマップもご参照ください。)

まず、中尊寺を出て、目に入るのが、弁慶の墓です。(写真①
①中尊寺門前にある弁慶の墓碑と松
立派な松です。これは弁慶がずーっと義経に従い、「立ち往生」で殉死するまで変わらぬ忠義を尽くしたことを讃えるために、後世の中尊寺の僧・素鳥(そちょう)が以下の句を添えて植えたようです。

「色変えぬ松の主(あるじ)や武蔵坊」

弁慶の「立ち往生」については、既に「マイナー・史跡めぐり」にも描きました。
弁慶については、義経の部下で存在したことは史実らしいですが、ただ、彼の数々の奇行(?)は、後に判官贔屓と相まって、創作された話が多いようです。

私の家の直ぐ近くにも「弁慶鍋転がしの坂」等というのがあります。あまりの急な坂に落馬しそうになった弁慶、なんとか持ち直しましたが、鞍の後ろに釣るしてあった鍋の紐が切れ、鍋は断崖を落ち、谷底に消えて行ったという伝承です。

写真のように確かに急な坂ですが、史実としては、少々怪しいですよね(笑)。(写真②
②弁慶鍋転がしの坂
※遠方に見えるのは丹沢山系と富士山等
現代だったら、鍋を落しても住宅街の誰かが拾ってくれそうですけど(笑)。

富士山に丹沢は大山、箱根の二子山、遠方には天城山も見えるこの景観の良さから、何か地名をということで義経伝説にあやかり、付けたのでしょう。勿論、奥州と鎌倉の行き来にこの土地付近を通った事に関しては、かなり確度が高いようです。旧鎌倉街道が走っていますので。

ただ、そのような伝説が多い中でも、弁慶の最期・「立ち往生」だけは真実だと思いたいです。(絵③
③満福寺(腰越)の襖絵「弁慶の立ち往生」

さて、この弁慶のお墓から2km程度離れたところに、義経最期の地・高館はあります。

そこを目指して、トコトコ歩いていると、道端に写真④のような石碑を見つけました。(写真④
④卯の花 清水の碑
ここには、奥の細道で松尾芭蕉に同行した曽良(そら)の句がありました。

「卯の花に兼房みゆる白毛かな」

義経の部下と、藤原泰衡の軍勢がここで激しく交戦しました。
この句は、その中の1人、白髪を振り乱し勇猛果敢に戦った66歳の兼房(かねふさ)について詠んだものです。兼房は、義経らの最期を見届けた後、敵の大将と組討ち、火の中に消えて行ったと伝えられています。
⑤卯の花

卯の花は写真⑤のように、真っ白で、これがここに咲いていたのでしょうね。それを見た曽良は、兼房の白髪を思いだしたのでしょう。(写真⑤

「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」にも書きましたように、義経自身は、奥州藤原氏である泰衡への遠慮から、泰衡軍に対して、無抵抗のまま自刃しました。しかし、彼の部下たちは、主人である義経の不憫を想い、若干31歳だった義経に対し、66歳の白髪のご老人である兼房でさえ、見事な献身による最期を遂げています。

一部にはこれらは判官贔屓が生み出した伝説という見方もありますが、このような献身が出来る人物・義経を見出した兼房は、ある意味大変幸せな最期だったのかも知れないなと思いながら先を急ぎます。

◇ ◆ ◇ ◆

そこから、約10分くらいのところに、義経の高館はありました。(写真⑥
⑥高館の義経堂(左)と義経供養塔(右)
義経、最期はこんなに小さな持仏堂で奥さんと4歳の幼女を手に掛け、自刃をしたのですね。お堂の近くには義経の供養塔もありました。(写真左)

このお堂は、石段を登り切ったところに、ちょっと写っている写真が観光用に多用されているのを良く見かけます。(「マイナー・史跡巡り」の写真【ここをクリック】もそれです)

つまり、かなり高いところにあるため、北上川流域が綺麗に見える場所なのです。(写真⑦
⑦高館から北上川流域を臨む
この景色は、奥州王国と源家との争乱とは非常に対照的に、静かで美しく、目まぐるしく変わる人の業が馬鹿馬鹿しくさえ感じられるのは私だけでしょうか?

やはり私だけでは無いのですね。芭蕉のあの有名な句が、高館のこの景色が見える場所に建っています。(写真⑧

「夏草や、兵(つわもの)どもが夢の跡」

⑧芭蕉の名句の碑
この句は、何も義経の最期に対してのみを想定して、作られたものではないでしょう。ただ、具体的なイメージ無しではこのような名句は生み出せません。やはり句を生み出す景色が必要で、それはこの北上川流域の景色なのかなと思います。

更に、この高館を北上川方面に下ったところにある奥州藤原三代の御所があった「柳之御所」跡も、ここもまさに芭蕉の句を彷彿させる景色が広がっています。

柳之御所については、次回また訪問紀行文で取り上げますが、このように平泉には、芭蕉のこの名句を彷彿させる場所が数多くあることも、平泉が世界遺産へと登録された1つの要因ではないかと思いました。

最後に、この看板が気になったので掲載します。(写真⑨
⑨高館が義経北海道逃亡伝説の起点と明記のある看板
藤原泰衡が、この高館を襲った時に自刃したとされる義経は、実は影武者だったとあります。本物の義経は、弁慶らと一緒に、襲われる1年前に北を目指して旅に出たと言う伝説。この看板は、ここ高館が義経北行伝説の起点であるという訳です。

この後、東北地方の北から北海道に至るまで、各地に点々と残る弁慶と義経の伝説の数々や、最後義経はチンギス・ハーンとなり、中国大陸で「モンゴル帝国」を打ち建てた等、壮大な伝説まで残っています。

確かに、1年前にそっと脱出出来る可能性は大いにあるでしょうし、各地の伝説もそれを上塗りするだけの根拠になり得るでしょう。またモンゴル帝国の成立も1206年と、1189年にここ高館から義経が脱出してから17年後と時間的な整合性はあります。

ただ、私の家の周りにも数々ある義経・弁慶伝説や、それこそ腰越状、藤沢の白旗神社、須磨寺の「弁慶の鐘」に至るまで、全てに判官贔屓の介入が感じられることも確かです。

いずれにせよ、芭蕉の句は高舘を「夢の終焉の地」としています。それに対し、この「義経北行伝説」は同地を「夢のはじまりの地」としている訳です。

皆さんでしたら、どっちを選びますか?

勿論、写真⑦のような北上川は全てを知っていると思いますので、是非平泉は高館に行かれ、感じ取って頂ければと存じます。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

上記、平泉3か所を以下の地図の青いポイントで提示します。


プリプリが命を救う

今日の午後、会社で「安全」に関するイベント(大会?講習会?)がありました。

この手の講習会は皆さんも受けられる時感じられると思いますが、非常に大事な話ではありますが、何分(なにぶん)お話が堅く、途中で飽きが来やすいのも事実です。

そんな堅いイベントの終盤、女性保健師たち3人が、それまでの厳格な雰囲気から、いきなり「プリプリが命を救う」と題して、話を始めました。

大体、堅い話を吹き飛ばそうとする軽い話は、うちの会社にありがち(?)な、ちょっと恥ずかしくてそっぽを向きたくなる、言い換えると「オヤジギャグ」的な事をするのかと、斜めに構えて聞き始めたのですが、聞くにつれ、これはなかなか!(笑)という思いに変わったのです。

内容は心肺蘇生の手順についての話でした。

心肺停止した人が出た時に、余程訓練された人でない限り、頭が真っ白になり、どう対応して良いか分からなくなりやすいのだそうです。

確かに私も救命講習を横浜市で受け、修了証書を貰いましたが、講習の内容は殆ど忘れてしまっています。

そこで、このような人向けに、大学の医学関係者が、プリンセスプリンセスの「Diamond」を替え歌にして憶えて貰うことにより、人が倒れた現場で頭が真っ白になっても手順を思いだせるように工夫したのが、下の動画です。

この動画自体は、字幕で歌詞が流れるだけですが、この歌詞に合わせて保健師さんたちが3人で、人が急に倒れるところから、心臓マッサージ、AEDの操作等を寸劇でやってくれるのです。これに結構感動し、涙腺が緩んでしまいました(笑)。
その会場には4,50代の社員が数百人くらい居ましたが、やはり皆私と同じような一種の感動を持ったのでしょうか。保健師さんたちが、「次は、皆さんが歌いましょう!」と掛け声をかけると、数百人のおっさんたちが、素直に大きな声と手拍子で歌い始めたのです。

なんか、ちょこっと感動的な光景でした(笑)。

いつもは会社の恐ろしいおっさん連中も、実は人に優しい奴らなんだなと共感できる瞬間。

是非、皆さんも、このDiamondの歌詞を見て頂きたいと思います。
同じやさしい日本人の仲間の一員として。

お読みいただき、ありがとうございました。

義経と奥州藤原氏の滅亡 小話② ~江の島訪問記 その1~

今回は、「マイナー・史跡巡り:義経と奥州藤原氏の滅亡② ~江の島~」の舞台となった江の島の訪問メモについて、ゆるく描きたいと思います。

「江の島の弁財天で頼朝が奥州藤原氏の調伏(呪いをかけること)を祈願した」という話を聞き、直ぐ「よし、江の島の弁財天を見なければ!」と張り切って出かけることにしました。

免許取り立ての娘に運転練習と称し、無理やり同行させ家を出発し、途中怖い場面もありましたが、約1時間後に無事到着することができました。

行きの途中なのですが、江の島に注ぐ柏尾川(かしおがわ)沿い、東海道線の大船駅の近くに「長尾台」という土地があります。(写真①
①長尾台 ※柏尾川が写真左側を流れている
ちなみに、この土地の名前、長尾というのは、あの長尾景虎、つまり後に改名して上杉謙信となった長尾氏開祖の土地なのです。

以前、このBlogでも取り上げました「御霊神社」がここにもあり、長尾氏の先祖はこのBlogでも書いた鎌倉権五郎景正に通じているようです。(Blogはこちらをクリック

鎌倉時代に一度長尾氏は滅びているのですが、上杉家の家老格として長尾家は室町時代に復活、その末裔である長尾景虎が越後の地で返り咲いて上杉謙信になり、幕末まで米沢にて家が続くのですから、何気ない住宅街であるこの場所も、感慨深い土地なのですね。

長尾景虎もそうですが、鎌倉景正の「景」という文字が通字(とおりじ)として長尾家には引き継がれているようです。

さらに余談ですが、この近くの「大船」という地名も、この写真左側を流れる柏尾川の氾濫原で、当時は比較的大きな船がこの辺りまで入り込めたことに由来するようです。(地図②
②大船や長尾台は地図右上の
「柏尾川」と書かれている辺り
まさに鎌倉景正の頃、この氾濫原である低湿地帯を田園化することに成功し、始祖として長尾氏を設定したようです。

写真③は今年の台風の時期のこの辺りを撮った写真をWebからお借りしましたが、柏尾川もこんなに川幅が拡がるのですね。今のように治水が発達していない昔なら簡単に氾濫したのでしょう。(写真③
③氾濫しそうな柏尾川
かく言う私も、この川の上流にある柏尾小学校に通った低学年の頃、柏尾川の氾濫を経験しています(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇

脱線しまくりました。先を急ぎましょう。

この柏尾川に沿って海まで下り、川と波が作ったトンボロの上の橋を渡ると江の島に到着です。(写真④
④江の島へのトンボロとその上の橋
※江の島側から写しています
そして、島の玄関「青銅の鳥居」をくぐると、島の仲見世に出ます。(写真⑤
ここは私が物心ついた頃から変わっていませんね(笑)。(一番下のマップも参照
⑤江の島「青銅の鳥居」
ここでハマグリのラーメンなるものを食べました。塩ラーメンにハマグリって結構合うのですね。磯の味がして大変美味しかったです。(写真⑥
⑥ハマグリラーメン
食べた後、店を出て気が付いたのですが、この仲見世のあちこちに、写真のような北条氏の家紋ミツウロコらしき文様があります。(写真⑦
以前「マイナー・史跡巡り」でも、北条一族の「ミツウロコ」については、北条氏康の馬標ここをクリック)として紹介しました。(「三増峠の戦い③ ~信玄の山岳戦~」もご笑覧ください。ここをクリック
⑦仲見世のあちこちにミツウロコが・・・
そんなこんなしていると、「朱の鳥居」のところに来ました。(写真⑧マップ
⑧朱の鳥居
ちなみに、この「江島神社」の文字、東郷平八郎の揮毫だそうです。何故東郷元帥が揮毫したのでしょうか?やはり海軍だけに江島神社は水神だからですかね?

この鳥居の奥に見える建物が瑞心門(すいしんもん)をくぐり、階段を上り、上から再びこの門を見ました。(写真⑨マップ
⑨瑞心門
竜宮城の形なのだそうです。

さて、この階段を上り着ると、江の島の中核である辺津宮に到着します。(写真⑩マップ
⑩辺津宮
ここにも、写真⑩の水色の矢印の先に、北条氏のミツウロコがあります。

一体、どうして江の島にはミツウロコが多いのでしょうか?
それはこういう理由からだそうです。

1190年、平家を倒し、これから幕府を開く時に、頼朝の後見人であった北条時政が、江の島の岩屋に参詣しました。
海の平家と言われた平家を倒せたのは、一重に水神である弁財天のお蔭と感謝の意を顕すと同時に、この後の北条家の繁栄を祈願していると、例の弁財天が現れ、時政の願いを聞き入れたと伝えたそうなのです。(絵⑪
⑪北条時政の前に現れた弁財天
左:歌川国貞 右:月岡芳年
⑫江島神社社紋
これが北条家紋の原型
そう伝えると、弁財天は大蛇となり、海に還ったのですが、後に3枚の鱗(ウロコ)が残されたので、北条時政はこれを家紋にしたとの話です。

これが後々北条家の紋として有名となるミツウロコの発祥伝説です。鎌倉時代の執権北条氏もそうですが、戦国時代の幕開け期の北条早雲から始まる、後北条五代でもこのミツウロコが使われ続け、関東のあちこちの寺院等で多く見られるこの家紋は、江の島が発祥だったのです。(図⑫

長くなりましたので、弁天堂や頼朝の建てた鳥居、トンボロ等については、シリーズの次回にお話したいと思います。

お読み頂きありがとうございました。

←大船の北側・長尾台の地図

順に「2.青銅の鳥居」⇒「4.朱の鳥居」⇒
「5.瑞心門」⇒「10.辺津宮」まで来ました。

義経と奥州藤原氏の滅亡 小話① ~満福寺~

今回は、拙著blog「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡① ~腰越状~」に描いた「腰越状」の舞台となった満福寺訪問について書きたいと思います。(写真①
①腰越海岸から5分のところにある満福寺
※門前を江ノ電が走る
さて、先のマイナー・史跡巡り腰越状(こしごえじょう)のあらまわしは書きましたが、一応概要をもう一度お話します。

源義経が、兄・頼朝が何故平家を滅ぼす程の大成果を上げた自分を理解してくれないのだろう?きっと誤解があるからに違いないと考え、平家の総大将・平宗盛(むねもり)を京から護送しがてら、1185年5月、自ら弁慶と一緒に京から鎌倉へ頼朝に会いに向かいます。

ところが、鎌倉の直前、腰越という海岸で、鎌倉入府にストップが掛かります。(地図は巻末参照)

仕方なく、義経ら一行はこの海岸脇にある満福寺という寺に暫く留まり、頼朝からの鎌倉入府許可を待ちます。(写真②
②左:腰越海岸通りから満福寺へのアプローチ
右:江ノ電の線路から山門へ登る階段
ところがいつまで経っても入府許可が出ません。
そこで、義経はこの場所で、頼朝に手紙を書くのです。腰越状と言います。

写真②の急こう配な山門への階段を上り切ると、しかめっ面した義経と弁慶が、何やら書いているらしい石像に、不謹慎ですが思わず吹き出してしまいました。(写真③
③山門をくぐるとすぐ目に入る義経と弁慶の石像
いや、大変失礼しました。まあ、二人でその手紙である腰越状を作っているのは分かりますが、大体何で義経は鎧兜を着ているのですかね??

分かりやすいと言えば分かりやすいですが・・・。

他にも同じ境内に弁慶絡みの2つの大きな石もありますが、何となく、これも義経・弁慶に親しみやすい印象を持たせることを主眼に置いたものなのでしょう(笑)。(写真④
④弁慶は大きな石好き?
さて、腰越状ですが、お寺の中にあります。入場料を払って中に入りますが、なんともアットホームな造りの中に、その手紙はあります。(写真⑤
⑤腰越状
手紙の内容については、「マイナー・史跡巡り」の当該記事をご参照下さい。(ここをクリック

また、このお寺の中の襖等には、鎌倉彫等で作成された吉野の別れからの義経と静御前についての立派な襖絵が描かれていました。(写真⑥
⑥左上:吉野の山中で懇願する静御前に戻るよう厳しく言う義経
右上:一人寂しく戻る静御前 左下:変装して平泉を目指す義経と弁慶
右下:平泉の高館で炎に包まれ自害する義経とそれを守る弁慶の立ち往生姿
これ以外にも、子供の頃に聞かされた義経の話に沿った襖絵が沢山ありました。

以下2枚の襖絵に代表されるように、静御前も義経も、それぞれの職業服(?)を着ていても寂しそうな雰囲気が、この襖絵シリーズ全体を支配している雰囲気です。(写真⑦
⑦左:鶴岡八幡宮で今様を舞う静御前
右:たそがれる戦人(いくさびと)義経
やはり、この腰越より東側の鎌倉に入り、兄・頼朝との面会が果たせなかった義経は、どんなに強い武将でも、うら寂しい感情を多分に持ったでしょう。

また反対に、吉野の山から一人寂しく別れた静御前は、鎌倉の鶴岡八幡宮の絵⑧の舞台で、頼朝や政子の前で、今様(いまよう)を舞わされることとなり、写真⑥の吉野の山での別れを物悲しく舞うのです。(絵⑧
⑧静御前が今様を舞った舞台(鶴岡八幡宮)
これも、子供の頃、涙した有名場面ですね。

さて、このように義経が落ちぶれていくターニングポイントとなった満福寺ならではの演出を堪能した後は、この腰越海岸から江の島の名産である「しらす丼」を食べられるのもこのお寺の楽しみの1つです。(写真⑨
⑨しらす丼
なかなかシンプルで、さっぱりした味でしたが、カルシウム等の栄養が満点で健康的ですよね。

このしらす丼を食べられるお寺のお店がある当たりは、非常に眺望が良く、腰越海岸を経て、江の島が遠望出来ます。(写真⑩
⑩満福寺から見える腰越海岸(手前の丸い湾)
と江の島(左の棟が見える島)
この満福寺で腰越状を書き残して、京へ戻って行った義経たちの運命は、襖絵の通りとなって行った訳ですが、この時義経は、4年後の1189年、御首(みしるし)となって、この写真⑩の海岸に来ることになろうとは想像もしていなかったでしょうね。

また、実は3年前の1182年に、この写真⑩の江の島、たった2キロ弱の距離しかないこの島で、挙兵まだ2年の頼朝が何をしたのかを知っていたのであれば、義経の運命も大きく変わっていたかも知れません。(写真⑪
⑪現在「江の島」調査中(笑)
次回の「マイナー・史跡巡り」の記事、「義経と奥州藤原氏の滅亡」シリーズ②では、この江の島で頼朝が何をしたのかから紐解いていきたいと思いますので、お楽しみに!

完読頂き、ありがとうございました。