戸田湾 小話②:駿河湾の海流の流れ

前回伊豆半島の地形に関する火山の話をしましたので、今回は地形と気候に関する海流の話です。

静岡県道17号線を走ると、井田という山間と海に囲まれた、西伊豆らしい小さな村を見下ろせる風光明媚な場所があります。(写真①

井田の景色
井田には明神池という、海流が湾に砂洲を作り、ついには湾を埋めて出来た池があるようです。

この位置からは、明神池を綺麗に撮ることが難しかったので、海側から撮影された写真をWebから失敬してきました。(写真②
②井田の明神池

この明神池と例の戸田湾の砂洲、伊豆半島の西端である大瀬崎(写真③、県道17号線から写しました)の3か所が、駿河湾の海流が造った砂嘴なのです。(写真④
③大瀬崎
話脱線しますが、海流による砂の移動で出来た明神池や大瀬崎の砂洲の中の丸い池は、何故か淡水です。

話戻って、写真④で一つ気になったのは、海流の方向が南から北ですね。どうしてこの方向なのでしょうか?Webで色々調べると、どうやら黒潮の流れが西から東なので、その一部が伊豆半島の西側にぶつかり、そこから西伊豆沿岸を北上するのですね。

となると、前回の小話①で述べました伊豆半島の達磨山は夏いつも霧が出ていたとか、読者の方から「天城山の語源は雨木であるくらい、雨が良く降る」というコメントを頂いたのも、なるほど!と理解できます。

県道17号線から写したの3か所が
駿河湾の海流が造った砂嘴
伊豆半島は、黒潮のもたらす湿った空気が、半島の達磨山や天城山等の高い山に登ると冷却されて霧や雨になるのでしょう。また、この南からの海流による保湿・保温した空気のお蔭で、伊豆半島は比較的暖かい気候という訳なのでしょう。

この理屈で言うと、千葉の房総半島も同じなのでは?と考えてしまいますが、いかがでしょうか?
お読み頂き、ありがとうございました。


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戸田湾 小話①:伊豆半島の火山活動

日露交渉の話題になった戸田(へだ)湾から、沼津方面に帰るのに、いつも県道17号線で海沿いの道を走ります。

写真①のように、山の上を走るので駿河湾の景色は非常に良いのですが、道は狭く対向車とすれ違えない箇所も多いです。(写真①
①静岡県道17号線から見る駿河湾
また、道路のメンテもあまり良くなく、下手すると崖が崩れてきて、車ごと海に突き落とされないか、なあんて想像できるほどです。

ただ、途中、途中の見晴しの良い展望台には、写真②のような看板があちこちにあり、伊豆半島の地理的な面白さを勉強しながらドライブできるというのが中々気に入っています。(写真②
②この道路沿いには
「伊豆半島ジオパーク」の看板が方々にある

ブログでも冒頭描きましたが、伊豆半島がプレートテクトニクスで本州にぶつかったというのは、有名な話ですよね。

その辺りを詳細に、この看板の下の部分に書かれています。Webにもこの記載がありましたので再掲します。(図③
③伊豆半島のなりたち
これを見ると伊豆半島は、本州に島がぶつかってきたというより、プレートがぶつかることにより、丹沢山地が隆起したり、伊豆に火山が出来まくったりというプロセスなのですね。戸田の水没した火口を持つ火山は、この写真から達磨火山系のようです。

達磨山は、陸路で東京から来るときは、必ず通った山ですが、あの霧が出て、夏でも涼しい達磨山や、この綺麗な海にある戸田湾が60万年前には、火を噴きまくっていたのかと思うと、寂しいこの県道17号線にも、伊豆半島の太古の鼓動が聞こえるようですよ。


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山田長政 小話②:ワット・トライミット

さて、次の小話は、シリーズ前回のように重くない話ですが、違う意味で重い話です。

拙著ブログ「マイナー・史跡巡り:山田長政 ~タイ・アユタヤから~」2番目に出てくる写真、金ピカのスコータイ王朝時代の純金5.5トンの仏像とあります。(写真①
①ワット・トライミットにある純金仏像
(表顔は写真④参照)

時価にして120億円以上もするこの仏像、結構最近になって純金であることが分かったのです。1953年の事だそうで、このお寺自体は1238年に建立されていますから、ざっと715年間は、なんの変哲の無い全身漆喰が塗られているお粗末な仏像だったようです(写真②
漆喰が塗られていた以前の仏像
当時、このお寺も廃寺となりかけ、その境内に放置されてあったこの ブチャさんな仏像も、撤去される予定でした。当日クレーンで運び出そうとしましたが、ビクとも動きません。

仏像の重量を大体その大きさから想定してクレーンを選定してきたのですが、異常な位重いのです。

無理して頑張ったところ、仏像を外に持ち出したところでクレーンは故障。翌日に作業は延長されました。

その日の晩は大雨で、仏像はかわいそうに吹き曝しになります。
ところが、翌日作業を開始しようと作業員がこの仏像をチェックすると、なんと剥がれかけた漆喰の隙間から金色の光が漏れているのです。

そこで、大騒ぎとなり、漆喰を全部剥がすと、御覧の通り純度60%、重さ5.5トン、高さ3mで時価総額120億円以上の仏像が出てきました。勿論、お寺は完全復帰、2度と廃寺の危機には見舞われないでしょうということになったのだそうです。

道理で、純金では重すぎる訳ですね。

後になって分かったのですが、これは800年位前のスコータイ王朝で作られたようです。

スコータイ王朝は、アユタヤ王朝と並走する時期がありますが、ゆくゆくはアユタヤ王朝に吸収されます。

ブログにも書きましたが、タイの王朝は、お隣のビルマ(ミャンマー)軍が攻め入ってくることにいつも苦労(というかアユタヤは全滅)しており、スコータイも同様にかなり攻められたようです。

その時に、ビルマ軍の略奪から逃れるために、わざわざこの純金の仏像に汚い漆喰を塗り固め、ブチャな作りにしてチャオプラヤ川に沈めていたものを引き上げました。(写真③
③現在のチャオプラヤ川
※行き交う船も多く、
昔からタイの重要な
交通手段となっている
ちなみに、写真②が漆喰で塗り固められた時のご尊顔なのですが、かなりブチャさんな感じで、今のお顔(写真④)とかなり違うようにカモフラージュされていたのですね!
④今の金仏像の顔
(ウルトラマンみたい?)
さらに廃寺になりそうだったこのお寺、今ではバンコクの中でも有名な観光名所となり、廃寺どころかタイの稼ぎ頭として活躍しているようですよ。(写真⑤
⑤ワット・トライミット
是非ご訪問ください。
お読みいただき、ありがとうございました。





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山田長政 小話① :ペトロ岐部について

今回の山田長政のブログを書くにあたり、遠藤周作の「王国への道」を参考にしました。(写真①


日本人街に行く前に、全部読んで行ったので、また随分と現地で妄想が膨らみました(笑)。
①遠藤周作「王国への道」

この小説、遠藤氏らしいなあと感じたのは、「ペトロ岐部」という殉教者を、準主人公として登場させていることです。
最近、映画でも話題になっている「沈黙」も、遠藤氏の代表作品です。(写真②
② 映画「沈黙」

彼のキリスト教的世界観から見ると、まさに山田長政は、世俗的な地位・名声・富等を追い求めることが野望であり、それらは全てむなしいものだということを、この山田長政と対極にある「ペトロ岐部」に言わせているのです。


ペトロ岐部は、長政がアユタヤへ行くのと同時期に、ローマまで単身で渡り、司祭の資格を取得し、殉死すると分かっていながら、キリスト教禁止令の出ている江戸時代鎖国の日本に戻ってくるのです。

日本に戻る途中、アユタヤの日本人街で偉くなった長政と再会を喜びます。

ペトロ岐部も野望を持って、遠くローマまで渡ったのです。
ただ、その野望は長政とは全く反対の、死んでも守る程に固い「信仰」を得ることでした。

この「信仰」の固さをテーマにしたのが、「沈黙」ですが、ペトロ岐部も予見されていた通り、日本国内で逆さづり等の拷問にあいながら、「信仰」に死ぬのです。(絵③
③ペトロ岐部

実際には、ペトロ岐部と長政が、会っていた可能性は低いのです。



遠藤氏は、この2人を会わせることにより、長政の野望が如何に危いかを表現したかったのだと思います。

ペトロ岐部も長政も殺されます。ペトロ岐部は殉教です。長政は過去に裏切った人の娘に裏切られて毒殺されます。

野望を持つあなたはどちらが良いですか?

と遠藤氏から聞かれている気分になりますよ。

お読みいただき、ありがとうございました。


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一の谷の戦い 小話④:敦盛のモテ度

今回、一の谷の戦いで行った須磨寺は、かなり敷地の大きなお寺で、平 敦盛に関する展示物等を中心に、源平合戦の色を強く打ち出していました。

写真①

敦盛に関しては、ブログで提示しました本物の青葉の笛以外にも、彼が所持していた弓と矢筒等の展示物(写真①)や、平家の公達を素朴な石を使って現したもの(写真②)。

写真②

敦盛の浄瑠璃人形(写真③)等もありました。

写真③

流石美形男子は古今東西、人気がありますね。世間には敦盛のフィギアまであるようです。(写真④)
写真④





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一の谷の戦い 小話③:安徳帝内裏跡伝説地

一の谷の逆落としがなされたであろう鉢伏山の麓に、安徳帝内裏跡伝説地があります。(写真①

①安徳帝内裏跡伝説地

ここは、かなりの激戦区となった辺りで、「福原鬢(びん)鏡」では、平家の諸軍勢がこもった場所で土手の跡が今も残っているとしています。

そんな場所が何故安徳帝内裏跡という伝説になったのでしょうか?色々調べましたが、正直良く分かりませんでした。(写真②
もしかしたら、まだ源氏が攻めてくる前の福原にいらっしゃる時に、緊急避難用として、西側でかつ直ぐに船で脱出できそうなこの地に、内裏を作っておいたのかも知れません。写真③
③鉄拐山を臨む


ただ、この一の谷の戦い時は、ブログにも書きました通り、既に宗盛、健礼門院等と一緒に、海上避難しております。

この史跡もまたミステリーで、調べ甲斐がありそうなところです。




上記Googleマップの中の「逆落し」場所の公式Blogとして以下の拙著「マイナー・史跡巡り」が公認されました。是非ご笑覧ください。

---Blog「マイナー・史跡巡り」(一の谷の戦い② ~敦盛~)



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一の谷の戦い 小話②:ニャオざね

拙著ブログのシリーズ②で書かせて頂きました熊谷直実は、中年武士の悲哀を強く感じさせるもので、読者の方々から、強い共感を得たという感想を頂きました。

この武将の出身地である熊谷市近辺に住んでいた読者の方から、熊谷市には「ニャオざね」というゆるキャラが居るとの情報を頂きましたので、早速調べてみると、ゆるきゃらグランプリ2016でも1421キャラ中、140位という中々の好感度を持っていることが分かりました。(写真①

①今日も熊谷市役所で働くニャオざね
しかし、残念ながら、「人間五十年」を詠った熊谷直実の印象は、彼(彼女?)には全く見られないというのは偏見ですかね?

熊谷駅の彼の銅像は、須磨の浜で、平敦盛を呼び止めているものを表しているのでしょうね。(写真②
須磨寺には、文楽の直実がありました。(写真③






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バンコクにて

ラーマ9世ことプミポン国王が昨年10月16日に亡くなってから、そろそろ100日経とうとしております。


街中のあちこちに、彼を偲ぶ看板があります。また、ビルにも、喪章をつけているものまであります。


私たちのイベントにも喪章を付けて臨みます。
この一体感は素晴らしいですね。
明日と明後日の2日間、法要が取り行われる模様です。


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一の谷の戦い 小話①:弁慶の鐘


一の谷の須磨寺には、「弁慶の鐘」という鐘あります。(写真①

①弁慶の鐘
写真の看板に書いてある内容を以下に再掲します。

「弁慶の鐘
元、当国山田村安養寺の鐘なり 一の谷合戦のとき武蔵坊弁慶これを長刀の先にかけ前に提燈を吊して鵯越を担ぎまわりて陣鐘に代用せりと言ふ
世俗に釣り合わざるを提灯に釣鐘といふは是より始まると言ふ」

みなさん、「提灯に釣鐘」って、俗に言いますでしょうか?
恥ずかしいながら、私は今回この寺で初めて知りました (笑)。





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