キアラ神父のお墓

お墓詣りされた方多いと思います。

昨日は少々変わった方のお墓に詣(?)てきました。
キアラ神父のお墓です。(写真①
①キアラ神父墓標

あの遠藤周作の「沈黙」のモデルになった方ですね。
調布市の中央高速道路の高架下に近いところのカトリック教会の敷地内にあります。
詳細は浅井さんのブログ「東京坂道ゆるラン」を是非ご覧ください。
http://sakamichi.tokyo/?p=6316

また、墓碑横にある解説文を以下に掲載します。(写真

②墓碑の解説文1
③墓碑の解説文2

1点不思議なのは、そもそも切支丹屋敷で最近人骨が見つかったのに、この墓標。

私の邪推ですが、どうも彼が転んだことを強調したいがため、戒名を付け、目立つ西洋風の帽子を付けた塔を、時の政権が納骨もないのに作ったのではないかと・・・

お参りの後は、近くの深大寺で、「マイナー・史跡巡り」の調査をし、その後、深大寺そばを堪能しました。(写真④
④深大寺そば

最後までお読みいただき、ありがとうございます。



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幕末の日露交渉 ~外伝~ 小話

さて、今回の日露交渉の話はブログ中にも何度も引用させて頂きました吉村昭氏の「落日の宴」。

昨年夏にFacebookで「戸田のプチャーチンの話をブログで書きます」と予告しましたら、多くの方から「是非読んでほしい」とご示唆頂いたものです。(写真①)

①吉村昭氏「落日の宴」

吉村昭氏の著書は、他にも幾つか読んでおりました。

ロシアとの交渉等については、他の吉村昭氏の本等と同様に活き活きと描けて読みやすいのですが、それ以上の驚きがありました。

日露交渉が終わった下巻半分過ぎた米国の通商条約交渉の辺りから、急に、それこそ「目から鱗が落ちる」程に、条約交渉を通して、幕末が良く分かるのです。

これは司馬遼太郎氏をはじめ、色々な幕末の本をシリーズでそれなりに読んできましたが、たったこれだけのページ数で、今までの幕末の話が、まるで点と点が繋がるように頭の中で整理されたのは初めてでした。

そういった意味では、日露交渉を知るだけ以上のモノを持った良書だと思います。

ちなみに、上下巻合わせた表紙の絵は、私もブログの中で使わせて頂きました戸田は牛ケ洞から進水するヘダ号の絵となっています。


※マップ内の「ヘダ号進水の地」はGoogleマップ様に承認頂き、以下のBlogを公式Blogとして史跡登録したものです。


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戦場にかける橋 小話

今週の日曜日に、幕末の日露交渉のディアナ号の大砲を見に、靖国神社に行ってきました。

まあ、10年以上行っていませんでしたので、屋外に展示してある大砲だけでなく、遊就館という戦争に関する博物館も覗こうということで、1時間半かけて見て回ったのですが、一番入口(というか、まだ有料エリアでないところ)に52型ゼロ戦と並んで、機関車があります。(写真①
ゼロ戦との位置関係は、写真②の通りです。
②遊就館におけるゼロ戦と機関車との位置関係
以前来た時にもゼロ戦があるのはインパクトがあったので良く覚えていましたが、この機関車はあまり印象になかったのですが、展示解説を見てビックリ。

なんと泰緬鉄道(タイとビルマ間の鉄道)で使われていた機関車なのだそうです。


ついこの間、ブログの「戦場にかける橋」で調査した泰緬鉄道。今までは殆ど意識にも登らなかったので、こんなに大きく展示されているのに気が付きませんでした。

写真③は泰緬鉄道の建設風景です。やはり像を使っていたようですね。(写真③
泰緬鉄道の建設風景

お読みいただき、ありがとうございました。



※上記靖国神社のGoogleマップにある「ディアナ号の大砲」は拙著「マイナー・史跡巡り」を公式BlogとGoogle様が公認し、登録されたものです。是非地図のBlogのリンク先もご笑覧ください。


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ヘダ号 小話① 蒸気船

さて、今回の「幕末の日露交渉② ~ヘダ号の進水~」で、Facebook仲間のある方から「日本は、黒船のような蒸気船等の自律型の艦船の造船技術は相当欲しかっただろうけど、帆船であるヘダ号はそうでも無かったのでは?」というご質問を頂きました。(写真①
蒸気機関が1番欲しい技術だったというのは、その通りだと思います。

やはり黒船で一番ショックだったのは、大砲以上に、あの蒸気によるタービンの回転です。

ある意味帆船は形こそ違えど、日本の千石船と同様、風による受動的な動きしかできませんが、タービンは能動的にどこにでも行き、大砲をぶっ放せる。これは圧倒的ですよね。

実はヘダ号とほぼ同時期に出来た蒸気船があります。薩摩藩が作った雲行丸です。(絵②
②雲行丸
ところが、やはり蒸気圧を抑える釜等は、産業革命を経験してきている欧州とは違い、なかなか上手く出来ず、かなり蒸気漏れがひどく、殆ど馬力の出ない試作品レベルだったようです。

でも、こういうトライ&エラーが大切ですよね。指示した島津斉彬公は流石だと感心します。

実用蒸気船は、黒船来航の翌年には、蒸気船の国産を目指す方針を決定した佐賀藩は鍋島閑叟公が、成功しております。

ただ、この日本で最初の実用蒸気船 凌風丸(りょうふうまる:絵③)を動かすのは1865年、ヘダ号が出来てから10年も後の事になります。
やはり、このタイムスパンで考えると、蒸気船を造る技術が欲しいと考えていた日本側でも、現実的には「まず蒸気機関を搭載する母体である西洋式船の筐体設計技術の習熟を早期に完了する」と考えてもおかしくないですね。それを多分意識したのは、やはり先見の明があった江川太郎左衛門英龍だったのではないでしょうか?

日清・日露戦争では、日本は当時重要な輸出品である生糸を売った資金で、イギリス等から軍艦を買うという所作を繰り返していたのですから、自力で世界に誇れる戦艦を造れるようになったのはまだまだ先の話のようです。

ここからは蛇足です。
この当時の黒船に追いつき追い越したいという日本人の宿願は、バルチック艦隊を破った連合艦隊の三笠のような、その時代の最先端の大砲巨艦を造りたいという思いに変わり、国産の戦艦大和・武蔵の建造するのではと思います。(ちなみに三笠はイギリス産です。)
これが出来たことで、とりあえず宿願は果たせた筈なのですが、残念ながらそれでも黒船の本家米国には、時代が変わっていて勝てなかった。

かなり飛びますが、もしかすると、宇宙戦艦ヤマト(絵④)人気は、日本が黒船に追いつき追い越した筈で、大活躍して欲しかった戦艦大和に対する憧憬が作り出しているのかもしれませんね。
④宇宙戦艦ヤマト
今なら、蒸気機関よりワープ機関?長文失礼しました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


※マップ内の「ヘダ号進水の地」はGoogleマップ様に承認頂き、以下のBlogを公式Blogとして史跡登録したものです。


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