日本三大悪人 道鏡 小話②

道鏡について「マイナー・史跡巡り」で描きましたが、それについて、熱心な皆様から、沢山のコメントをFacebookの方に頂きました。

 さて、前回のK氏に続いて、今回の小話はA氏のコメントです。

【A氏コメント】◇ ◆ ◇ ◆ ◇

道鏡巨根伝説は鎌倉初期に成立した歴史物語「水鏡」くらいから登場するようです。

「水鏡」では道鏡が権力が欲しいと一生懸命如意輪観音にお祈りしていたのにぜんぜんご利益なかったので頭にきて小便を引っ掛けていたらどこからともなく虫が飛んできてチクリと刺されてたちまち腫れあがって巨根化、それをきっかけに孝謙天皇(称徳天皇)に気に入られて出世階段を駆け上っていく…という読んでいて眩暈がしてくるような展開でした(笑)。

古典文学の中で道鏡をネタにしている部分を取り上げた本を読んだことがあったのですがそのほとんどが下ネタがらみの笑い話系、金精峠(写真①)のエピソードも含めて昔の人はやはり大悪人というよりギャグキャラクターのような位置づけでとらえていたような気がします。
①紅葉の金精峠

大悪人扱いされるのは明治以降とか、かなり後になってからなんじゃないでしょうか。

ちょっとまじめな話ですご~く長くなってしまうのですが、奈良時代末期にはまだ天皇制がどのような形で成り立って受け継がれていくのかまだはっきりとした形ができあがっていなかったのだと思います。

天武天皇以来の皇親政治は血族結婚の弊害が出てきて、なかなか健康な後継者が出てこない。

そのために母が藤原氏出身の聖武天皇が即位、さらにその聖武天皇の皇后にはやはり藤原氏出身の光明子が人臣初の形で立后、しかも男子の跡取りがなかなか生まれず阿倍内親王(後の孝謙天皇)が女性で初の立太子…異例尽くめの展開をなし崩し的に既成事実化していた時期ですね。

一方で当時は仏教が大隆盛、大仏はできるわ鑑真は来るわトップに立っているはずの天皇は「わたしは三宝の奴」とか言い出して仏教を持ち上げます。

そんな中で仏教における師弟関係が擬似的な親子関係として位置づけられる「法脈」という流れが出来上がっていき、やがてそれが血縁関係による流れ「血脈」と同等の扱いを受けるようになっていく。

なので師弟関係の道鏡と孝謙天皇は法脈のうえからすると親子と同等の関係にある。そして天皇家はかつて奈良時代の直前に文武天皇→元明天皇という息子から母親という継承パターンがあった。なので孝謙天皇(娘)から道鏡(父)へ譲位は現在のわれわれが考えているほど荒唐無稽な考えではなく当時の考え方のうえでも十分ありえたかもしれないのです。

…といった説を読んだことがあります。もう少し孝謙天皇が長生きしていたら、とか道鏡に政治力があって仏教界を味方につけることができていたら実現していたかもしれない、実現したら、したで今も昔も流されるのが得意な日本人は「天皇制ってそんなもんか」と受け入れちゃっていたんじゃないかという気もします。

もし実現していたら天皇制はカトリックのローマ教皇のように血縁関係とは無関係に合議制によって決まる形になっていたかもしれません。そうなれば日本の歴史はもうまったく違ってたでしょうね。
②コンクラーベ

次期ローマ教皇を決める際には、「コンクラーベ」(写真②参照)という密室での選挙が行われることで有名ですが、もし道鏡が天皇になっていたら、彼の巨根伝説の古事に倣って候補者同士が密室で下半身を露出しながら「根比べ」(写真③?)をやっていたかもしれません。

③根比べ?

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

下ネタによる冗談と、歴史を深く知らなければ書けない皇室と仏法初期制度の大胆な仮説が入り混じる、それこそA氏の言葉を借りると、眩暈がしてくるような展開のコメントです。A氏殿、ありがとうございました。

確かに道鏡と孝謙天皇は20歳近く違うのですから、娘⇒父への攘夷になりますね。この辺りが真実なのかなあ。

他にも天武系と天智系の血族争いの中、天武系だった孝謙天皇は、天智系の光仁天皇に譲位する位だったら、一般人の道鏡に譲った方がマシ!的な考えで、神託事件を起こしたのではないか とか、後継の光仁天皇の天智系にとって代わられると、天武系の頃の道鏡は在る事無い事、天武系の悪いことばかり言われるようになるので、下ネタ系に品格を落とされているのではないか 等、沢山のコメントを頂きました。

どれも興味深く、皆さんが今の女性宮家の話題等も含めて、皇室の歴史について深い理解をされていらっしゃることが良く分かりました。そして、それは日本人としては嬉しい限りです。

真実は、お墓の中の道鏡に聞いてみたいところですね。(写真④)
④道鏡塚(お墓)

お読みいただき、ありがとうございました。

---Blog「マイナー・史跡巡り」(日本三悪人① 日本三悪人② ~失意の道鏡~)
https://tamaki39.blogspot.jp/2017/05/blog-post_28.html


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日本三大悪人 道鏡 小話①

道鏡について「マイナー・史跡巡り」で描きましたが、それについて、熱心な皆様から、沢山のコメントをFacebookの方に頂きました。

皆さん、この時代、この件について大変詳しい方ばかりで驚いたのと同時に、これらの話をコメントだけに閉じておくのは大変勿体ないと感じましたので、小話として何回かに分けて掲載させて頂きたいと思います。
道鏡最期の地、龍興寺にあるお地蔵さん

まずK氏のコメントから。

【K氏コメント】◇ ◆ ◇ ◆ ◇

孝謙天皇はかなりやり手で激しい女性だと思うのですが、道鏡はそんな彼女に振り回されたのではないでしょうか。

「道鏡を天皇に!」との神託が伝えられた時の彼の心理は「まんざらでもない」よりも「これはまずい、やりすぎだ」だったと思うのです。

左遷された時にも従容として受け入れているし、恨みがましいことを言った形跡もなく、まして菅原道真みたいに怨霊化していない事を考えると彼は高潔な人物であり、皇位簒奪を狙う大悪人とは思えないのです。ただ感情を表に出さないので誤解される事が多い人だったとは思いますが…

◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


正直、道鏡が、このご神託の偽証について、絡んでなかったとは想像もつかなかった私には目から鱗のコメントで、かつ説得力があるように感じました。

もし、道鏡が、このような人物像であったなら、大悪人どころか、素晴らしい人格者ということになりますね!

どう思われますか?

---Blog「マイナー・史跡巡り」(日本三悪人① 日本三悪人② ~失意の道鏡~)

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バラ園 ~生田緑地のバラ祭り~

近所の生田緑地でバラ祭りを開催していたので、大学が近い娘の送りついでに立ち寄りました。



生田緑地の古民家前の駐車場(東駐車場)へ車を入れて、歩くこと20分。



結構、山の中を歩くので、「バラって山の中で育つかな?平たい陽のあたりがよいところじゃないとダメじゃないかな?」等と妻と話しながら行くと、場所が開けたところに出ました。



どうやら、この場所が小田急線の「向ヶ丘遊園駅」の由来となる旧向ヶ丘遊園だそうです。どうりで山の中にありながら開けているはずです。

さて、バラ園、入場無料ですし、さして期待していなかったのですが、これがなかなかのモノばかり。



近所のバラはこの連日の暑さで、ほぼ萎れかけていたのですが、ここは手入れが行き届いているのか、結構生き生きしていました。



私の写真の腕が未熟で、皆さまに美しさを伝え切れませんが、ここまで素晴らしくしていただいたボランティアの方々に脱帽です。



またうどん粉病にヤられると知りつつも、ついミニバラを買ってしまいました。



来月は生田緑地の菖蒲園で、菖蒲が見頃を迎えるようです。
下の写真は、今日咲いていた黄菖蒲です。



また見頃の菖蒲も掲載しますね。
ご笑覧頂き、ありがとうございました!

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驚神社小話 平瀬川水源

「マイナー・史跡巡り」の「驚神社」の冒頭に書きましたが、私の家は南側は横浜方面に、北側は多摩川方面の斜面になっているという、つまりは分水嶺に建っています。


特に家の裏側(北側)は多摩川の支流「平瀬川」の水源地の確保として、「水沢の森」という名称で、里山がキープされています。(写真①)

写真①
昔は、潤沢な水源地だったようですが、近年私の家のような宅地開拓が進み、その水量がかなり減ってしまったことが、この里山を残すことになった理由のようです。(写真②)

写真②

ただ、現在でも水量こそ少ないものの良質の地下水を産し、水道局が水源に利用していた井戸水をペットボトルに入れ「恵水(めぐみ)」として頒布したり、地ビール作りなどにも利用されているとのこと。(写真③)

写真③
私も家の裏なので、非常に重宝している自然です。最近は暑い日が続いていますね。ここのバラもかなり暑さに参っているような感じです。(写真④)

写真④
なお、分水嶺ということで、私の家の南側、横浜市側は、かつて鎌倉時代の源平合戦等にも使われた名馬の産地でした。「驚神社」はその枚と深い繋がりのある神社ですが、詳しくは「マイナー・史跡巡り」の「驚神社」をご覧ください。



---Blog「マイナー・史跡巡り」(驚神社)

将門小話② 平川

Blog「マイナー・史跡巡り」で、平川の河岸に将門の首が落ちたという伝説や、平川村の住人が晒された首を持ち帰った等の話をさせて頂きました。

また、平川は、将門の伝説から神田川という名前に変わったという話もしましたが、地名としては残っています。
ちなみに、私の職場の近くに平川門と平川壕があります。(写真①
①江戸城北東から平川門を見る
鵜が連日の暑さのため、羽を広げて涼しんでいます。


また地図②は、これも「マイナー・史跡巡り」に掲載した図ですが、この地図の平川(旧平川、現在内濠川)の上には、現在、首都高速都心環状線が走っています。(地図②

②旧平川は首都高速都心環状線の下

昭和30年代の高度成長期に、東京の河川の上に高速道路というのは、土地取得問題をはじめとする時間の掛かる調整等が少なく、効率性を第一とした方式だったのでしょうが、やはりなんか拙速の感がありますよね。お蔭で旧平川も、いつも高架下は川面を含めて暗いです。(写真③
③いつも暗い高架下
日本橋の上も同じように首都高速が走っており、現在ここはなんとかならんか検討中とのプロジェクトがありますね。江戸情緒は、川があってのものですから、なるだけ綺麗な川面が見られる時が来ることを皆望んでいるのだと思います。

ついでに、一ツ橋から平川上流に目をやると、僅かに日が当たる場所があって、その岸には沢山のカメが登ってきて甲羅干しをしておりました。写真で分かりますかね。左側のコンクリートの上です。少なくとも3匹は居ます。(写真④

④僅かな太陽光を求め集まる亀3匹
(左コンクリート上)

人だけでなく、これら川の住人であるカメも同じ想いだろうなあと感じました(笑)。




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将門小話① 國王神社

①新緑の中の國王神社
Blog「マイナー・史跡巡り」 の中では、貞盛・秀郷連合軍との最後の合戦で、絶命した将門をバラバラにして、胴の部分を埋めた「神田山」(カドヤマ)を写真と共にご紹介しましたが、絶命した将門「終焉の地」には、國王神社が現在建っています。(写真①)

こちらは将門の三女が父を偲び、庵をこの最期の将門の地に建てたのが始まりだそうです。

ここであの新橋駅前の飲み屋街の喧騒中にある「烏森神社」の秀郷が戦勝祈願した矢が将門に刺さったのですね。(写真②
しかし、この「終焉の地」と胴塚のある「神田山」は10km弱も離れています。また「神田山」と言っても、全然山ではなく、この辺り一帯は、本当に広々とした平原です。(写真③
何故山がある訳でもないのに、平原を10kmも離れた場所まで将門の遺体を運んだのでしょうか?

ここで、どう将門が絶命し、どんな状況で神田山まで運ばれたのか。
合戦の喧騒とは程遠い、初夏の日差しが若葉の間から照りつける茅葺屋根の神社は、静かに佇んでいました。(写真④
④新緑に佇む國王神社
お読み頂き、ありがとうございました。


カダヤシ

テラスのビオトープも、また蚊の発生源となることを防止しなくてはいけない季節となりました。(写真①
そこで、また裏の里山の水源池に行きます。(写真②
ここはカモのつがいが泳いでいますが、精々一周10m程度の小さな池です。
持って来たのは、ペットボトルの口を切って逆さに突っ込んだだけの仕掛け、中に石とメダカの餌を少々入れます。(写真③
水の中に、沈めます。(写真④
④水に沈めた仕掛け
3時間後に引き上げると、カダヤシですね。メダカに似ていますが、30匹くらい入っていて、流石に多すぎますので、10匹以下にして持ち帰ります。(写真⑤
ビオトープへ。

これで今年の蚊対策はバッチリです。また、秋過ぎてお役目が終わったら、水源池に戻してあげる予定です。





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お三の宮(吉田新田)&鎌倉ハム 小話

①横浜市小学校の社会科副読本
拙著のブログの話で恐縮ですが、「マイナー・史跡巡り」の中でアクセスが毎日一定以上あるのが「お三の宮 ~吉田新田と人柱~」です。

【お三の宮 ~吉田新田と人柱~ :参考URL】

どうやら、これは横浜市の小学校で、吉田新田ということを社会科で習うことと縁がありそうです。

多分、この吉田新田の調査か何か(宿題?)で、私のブログにアクセスに来てくれるのでしょうね。

横浜市では、小学校3~4年生くらいまで、写真①にある「よこはまの歴史」という副読本を社会の授業で使うのですが、結構、この本が面白く、郷土愛が育成されやすいように作られていると思います。

特に、吉田新田については、私のブログ程、物語調ではありませんが、へー、と思って授業中、授業は聞かずに、この本を読みこんでいたのを覚えています。

ちなみに、最近取り上げましたテーマ「首洗井戸⑤ ~外伝:護良親王の恩返し(鎌倉ハム)~」についても、記述があります。(写真②)

【首洗井戸⑤ ~外伝:護良親王の恩返し(鎌倉ハム)~ :参考URL】
②「鎌倉ハム」のくだり

「鎌倉ハム」だとは書いていませんね。ただ、生々しいのは、私はブログで、ボヤの消火活動に感謝したカーチスが、有力者の齋藤家に、鎌倉ハムの製法を伝授したと平和的解決の書き方をしましたが、この副読本では、ボヤの時に使用人が製法を盗んだと、ちょっと過激な表現になっていますね。この副読本の方が、リアリティがありそう。


ということで、これからもこの「よこはまの歴史」是非、小学校で使用し続けて欲しいものです。



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クラーク・カレー

今日のお昼は、Facebook友達からのご紹介もあったので、隣にある「学士会館」にて「クラーク・カレー」を食べました。(写真①
①クラークカレー
クラーク、そう、あの「Boys, be ambitious!」で有名な、北大(当時の札幌農学校)の初代教頭、明治初期の招聘外国人、クラーク博士です。(写真②
②クラーク博士像
なんで、東京大学の会館である学士会館にクラーク博士のカレーがあるの?って思っていたのですが、私の大間違いでした。 

学士会館は、旧帝大系全ての会「学士会」の会館だったのですね。なので北大も入る訳でした。

写真①を見て頂くと分かるように、野菜類が大変豊富。
かつライスは十穀米です。

これは、当時あまりお金が無く、苦労しながら勉強する北大の学生さんらに、農学校でしたから、北海道の農産物をふんだんに取り入れた料理を食べて元気付けようと、クラーク博士が考案したカレーのようです。

大変ヘルシーですし、辛さもマイルドで、食べやすく、美味しかったです。

この食材ならインテリジェントに午後は仕事できそ(笑)。
1,230円です。(苦学生が支払うには・・・)

ちなみにこの話と直接は関係ないですが、あの新島襄の生誕記念碑が会館横にありました。(写真③
新島襄の生誕記念碑
上州安中藩の板倉伊達守の江戸藩邸が、ここ(?神田?)にあったようで、そこで生まれたのだそうです。

同志社大学ですか。

やはり、この辺り、何かアカデミックな土地の匂いがします。

聡明に仕事をしなくては・・・プレッシャー(T-T)



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