頼朝の旗揚げ 小話① 山木判官兼隆屋敷跡
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頼朝の旗揚げ 小話① 山木判官兼隆屋敷跡

さて、今回の「マイナー・史跡巡り」は頼朝の旗揚げの話でしたが、史跡を巡った時の私の苦労話等も、少しさせて頂ければと存じます。まずは、旗揚げの攻撃対象とされた山木判官兼隆屋敷の調査模様のレポートです。

石橋山の合戦場、土肥実平の領地だった湯河原の辺り等、頼朝が逃げ回った箇所を調査した後、旧国道1号沿いに、伊豆は三島方面に車を走らせます。(写真①)

①箱根から三島方面へ

見えてきました狩野川流域、函南(かんなみ)。ここから伊豆韮山(にらやま)辺りまでは、もう史跡の宝庫です。同じ場所に、時代の異なる史跡がいくつも折り重なる場所です。(写真②)

②函南が見えてきました
蛭が小島の辺りも、写真③のように真っ平です。蛭が小島から狩野川方向を見た地形です。

③蛭が小島から狩野川方面を臨む
「マイナー・史跡巡り」の上空写真(下の地図④)では、狩野川は蛭が小島からかなり北西側を流れており、が、この平らさから分かるように、過去この辺り一帯も狩野川が流れており、蛭が小島もその川の中洲だったことがあるようです。

この下の地図見て頂くと分かりますが、地元の北条時政の守山城は言うに及ばず、韮山城(北条早雲の居城)、江川邸(江川太郎左衛門の代官屋敷)、山木判官屋敷等は、皆丘陵地帯に建っていますね。これは当時、狩野川が氾濫しても、大丈夫なように皆ちょっとした高台に建っているのです。

少々高くないと湿気が多く、当時は労咳等の病気にもなりやすいと思われます。

頼朝は一応、配流人(罪人)なので、このような地元の名士が住むような丘陵地ではなく、氾濫地帯・湿気が多い等、条件の悪い蛭が小島に住まわされたのではないでしょうか?

④蛭が小島の周辺(「マイナー・史跡巡り」再掲)
地図④を見て頂くと分かるように、山木判官屋敷跡は、江川邸の直ぐ近くです。

なので、私は江川邸の駐車場に車を置き、目の前の方向案内に従って、山木判官屋敷跡へ向かいます。(写真⑤)

⑤江川邸駐車場前にある方向案内
明らかに山木判官屋敷跡の指示が
しかし、不思議な事に、この方向指示以降、⑤の写真で示す道の方向(写真⑥)を行けども行けども、屋敷跡の案内等は出て来ません。(写真⑥)

⑥確かにこの道沿い右手側に山木判官屋敷
があるはずなのですが・・・
とうとうこの写真⑥に見える一番奥の山端まで到着してしまいました。

そこで、この道端でネコに餌をあげている30代の女性に、屋敷跡について訊いてみました。

「あの・・・、」
「はい」
「やまきはんがんのお屋敷って、この辺りですよね?」
「はい、ここが山木ですが。」
「あ、はんがん」
「ハンガン?ですか?」
「ほうがんだったっけかな?」
「ホーガン?・・・・」
「すみません、頼朝にやっつけられた山木さんです。」
「ごめんなさい。私、歴史は全然分からないです。」
「あ、こちらこそ失礼しました。ありがとうございました。」

きっとハルク・ホーガン、ご想像されたに違いありません。私の訊き方が悪かった(笑)。

仕方なくスマホの地図頼りに、来た道を戻りながらウロウロしていると、また家の庭で小さな娘さんと庭木を切っていた30代のパパさんが、

「何かお探しですか?」
「あの、山木判官の・・・」
「あ、かねたか(兼隆)ですね。その南の山側が屋敷跡らしいんですけどね。この先南に入った先を小さな小道を行くしかないですよ。私道ですし、屋敷跡にはなんにもありませんよ。」
「ありがとうございます!」

礼を言い立ち去ると、後ろの方で、「おい、あの人なんだって?」「いつものカネタカだよ。」と家族で話をしているのが聞こえました。沢山いらっしゃるのでしょうね。私みたいな人。

ということで、何とか山木判官兼隆屋敷跡に辿り着くことが出来ました。(写真⑦、⑧)

⑦山木判官屋敷跡 
殆ど畑と雑草地しかありません
⑧夏草どもが夢の跡の山木邸
私の杖を突きたてました
今迄も、この手の案内板、石碑一つ残っていない史跡というのは何度も訪問していますので、この山木判官屋敷もそうであってもおかしくはないのですが、流石に驚くのは、写真⑤の方向案内版です。

あの表示の仕方ですと、「何かありそう」と勘違いします。

また、「マイナー・史跡巡り」でも詳細を記述しましたように、頼朝の「源氏再興の吉凶を占う」程、重要な初戦だったのですから、何か石碑くらいあってもよさそうな史跡だとは思うのですが・・・ここで負けてたら鎌倉幕府は無かった・・のですから。

では、引き続き頼朝と三浦一族をお楽しみ頂ければ嬉しいです。

---Blog「マイナー・史跡巡り」(三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~)
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映画「ダンケルク」

映画「ダンケルク」を見てきました。(写真①)

あまり前評判も知識も無いまま、NHKジャーナルのPodCastを聞いた時に、そこそこの評価がされていたのでチョイスしたのですが、これが想像以上に面白かったです。


「陸・海・空」の3つの恐怖というかハラハラドキドキが楽しめる、とは云うものの、戦争アクションにありがちなドンパチドンパチという訳では無く、かと言って、もう一方でよくある悲惨な感じもない、つまり説教臭くないのです。

また、そこで起きている事象については、陸海空それぞれの視点で描かれているので、時間的に遡ったり、先に進んでいたり、映画の途中で、「あ、さっきの映像は、この話の今上映しているこの場面を空から見たものだったのだな。」等の話の戻りが何もナレーションも無く進みます。これも話にメリハリを付けているので、最初から最後まで話に飽きが来ないようになっています。

そして、この手の戦争映画は長いことが多いのですが、1時間45分と比較的短いです。

是非、お薦めします。

ただ、私は、見た後に知ったのですが、ダンケルクについて、以下の基礎知識がある方が映画の背景が分かり、理解が進みやすかったなあと反省しています(笑)。

これから見に行かれる方で、「ダンケルクって何だ?」と思われる方は、是非ご一読下さい。

◆ ◇ ◆ ◇

第2次世界大戦初期の1939年の西部戦線、ドイツ軍は戦車、航空機等の新しい兵器等を最大限活用した戦法、電撃戦を編み出し、英仏軍をヨーロッパ大陸から駆逐し始めます。(写真②)

初期のドイツ軍は凄いですからね。何が凄いかと言うと技術力です。

フォルクスワーゲンを開発した技術、アウトバーンのような高速道路も大戦前に作っていますし、航空機、戦車、Uボート、大概の近代兵器は非常にレベルの高いものを作り出しました。(写真③)

戦争初期は、それらの技術を駆使した兵器を総動員して、ヨーロッパ大陸内の英仏軍に宛てたのですから、それは英仏軍はどんどん追いやられる訳です。

1940年には、ベルギー・フランス国境を突破し、英仏軍をフランスの国境の街、ダンケルクに追い込みます。(地図④)

ダンケルクはフランスの最北端の街であることから、ドーバー海峡を渡れば仏兵士たちはイギリスへ逃げることが出来ます。

ただ、ここに40万人もの兵士が追い込まれたのです。40万人一気にドーバー海峡を渡ること…

中尊寺金色堂 小話① ~じゃじゃ麺~

私のマイナー史跡巡りという行動は、現地に向かう前の事前調査も少なく、計画性も無く、行った先の史跡で「あ、そうなんだ!じゃあ、これはどこで起きたのかな?」と呟きながら、リアルタイムでググります。

すると、その史実に関しての知識と同時に、関連史跡も分かるので、次にその中で興味のある史跡へ移動します。

そこでまた「あ、そうなんだ!じゃあ、・・・」の連鎖により、段々分かってくるという感じです。

本当に最近はIT化で便利な世の中になりました。かなりマイナーな史跡でも、Google検索と、GoogleMapさえあれば、最短で到着できます。

スマホさえあれば、効率よく情報を探し、行動できる時代。最近は写真のように、車据え付けのカーナビよりも、GoogleMapのカーナビの方ばかり使います(笑)(写真①)

中学生の頃は、図書館で国土地理院の地図を開き、一生懸命その史跡を調べ、現地でも詳細の場所はどこか分からず、半日歩き廻り史跡を探すのが当たり前でした。

その頃に比べると隔世の感があります。

しかし、効率が良くなった分だけ、弾丸のような史跡訪問行程となり、今度は移動時間・食事時間が勿体なく感じてきました。
そこで日本全国何処に行っても、トイレ、公衆無線LANによる情報収集、美味しいコーヒー、朝飯・昼飯の利用、全てコンビニばかりとなってきております。

こればかりだとさすがに哀しく感じることもあります(笑)。

そこで、今回盛岡に行ったこともあり、せめてもの贅沢(大笑)として、盛岡名物じゃじゃ麺を食べました。(写真②)

◆ ◇ ◆ ◇
※以降の写真も全て食す前の写真ですので、ご安心して閲覧ください(笑)。

じゃじゃ麺、東京でもたまに社食等で昼に食べたりします。
汁気の無い麺は焼きそばでもなんでもそうですが、鉄板上でジャージャー音がしますから、この麺もその音で東北の人がこの名前を付けたのだろうくらいに思っていました。

Wikiで調べると、元々は中国の家庭料理の1つなのですね。じゃじゃも中国語で「炸醤麺(ジャージアンミエン)」から来ているとのこと。

ただ、コンビニ等でも売っているじゃじゃ麺は、本場とは違って、砂糖などを用いたた甘みが強く、さらに唐辛子や豆板醤などで辛めの味付けがされているのだそうです。

また麺もラーメンなどと同じものが使われていることが多いのだそうで、それで私が「焼きそば等と同…

クロアゲハの羽化

最近は、上野のパンダの赤ちゃんの話題が明るいニュースとして流れていますね。
我が家も1つ明るいニュースがありました。

我が家に生えているカボスに毎年アゲハチョウがやってきては卵を産んでいきます。
そして卵はふ化し、幼虫と化しています。

最初の頃は、「カボスの葉が全部食べられてしまう!」と焦りながらも、面倒くさいので、何もしないでいると(笑)、いつの間にか居なくなっています。

どうやら鳥に食べられたようです。

しかし、次々にアゲハはやってきて産むのでしょう。
ひっきりなしにと幼虫は産まれ、そして消えて行きます。
結果的にカボスは守られ、毎年良い実を付けます。

しかし、アゲハの幼虫は可哀想に、毎年全軍鳥に食べられているようです。

そこで、流石に可哀想に感じたのでしょう。妻が今年は幼虫を2匹を保護しました。
そのうちの1匹については、見事写真のようにクロアゲハに羽化したので報告します。(写真①)

採取してきたのは、5月下旬頃ですが、すんごい大食漢で、6月3日は、写真のように、幼虫~!って感じになっています。確かにこれは目立ちますね。(写真②)

とはいっても、葉と同系色であり、いつも日中は、カボスの葉の裏でじっとしています。
目のように見えるところは、食べに来た鳥等を驚かせるためのカモフラージュで、本当の顔を目は、写真の口先に見えるところの下に、小さくまとまっています。
それでも、やはり鳥に見つかると無情にも食べられてしまうのですね。
幼虫は幼虫なりに考えて、葉の裏でジッとしているのに、世間の風は冷たい(笑)。

で、こやつらは、夜間に大量にカボスの葉を食べます。「はらぺこあおむし」という絵本を読まれた方多いと思いますが、あれはあながち大げさではありません。

ただ、こやつらが健気なのは、親のアゲハ蝶の顔なぞ見たこともないだろうに、親には絶対の信頼を置いているのです。

というのは、こやつら、絶対に自分が産み付けられた木の葉しか食べません。
ある山椒の樹に産み付けられた幼虫は、その山椒の葉のみ、カボスに産み付けられた幼虫はカボスのみ。他の葉を与えても食べずに本当にそのまま飢えて死んでしまうのです。

という生活を、羽化して2週間程度重ねると、急に写真③のようになり、動かなくなりました。

そう、蛹(さなぎ)になるのですね。(写真④)

そして、それから2週間。
昨日の朝、写真のように…

為朝の矢 小話① 源平パイ合戦

皆さん良くご存じの歴史に名が残りそうな(?)2つのパイの話をさせてください。 我が家は子供たちを含め、結構この2つのパイが好きです。(写真①) なんとなく、これらの菓子をバリバリ食べながら思いつくことがありましたので、Tsure-Tsureなるままに書いていきます。
1.源氏パイ

発売された1965年の翌年の大河ドラマが「源義経」だったので、それにあやかり作りました。 大河ドラマがきっかけとは、ちょっと軽くないでしょうか?

ただ、大河ドラマがTVで放映されはじめたのが、この「源義経」の2年前の1963年で、放送自体が始まったばかりでした。

グラフ②を見て下さい。(グラフ②)

「源義経」が始まる前の2年間(1964、1965年)は、平均視聴率がなんと30%以上です。
ピーク時には50%を超えていたそうです。

これだけ視聴率が高いと、次のドラマ「源義経」にも俄然期待が掛かり、お菓子メーカーが、その上り調子にあやかり、「源氏パイ」と命名する気持ちも分かります。

そして、あのハート形の菓子の形状ですが、この理由が、那須与一が屋島の戦いで射抜いた扇の形なのだそうです。(写真③)


50年以上の伝統あるこのお菓子、意外にも単純な命名経緯に、義経も頼朝もびっくりしたことでしょう(笑)。

しかし、世間は「源氏パイ」程、甘く(?)はないのですね。「源義経」はグラフ②にあるように23.5%と20%代に落ちてしまいました。
2.平家パイ

流石に50年前だと、源氏パイのような、今ではちょっと考えつかないような命名経緯になってしまうのかなあと思ったのですが、じゃあ平家パイは?と調べますと、2012年の大河ドラマが「平清盛」だったので、それにあやかったそうです。(;'∀')

50年間、命名の考え方に全く進歩が無い事自体驚きです(笑)。

しかも「平清盛」の視聴率は、大河ドラマ始まって以来最低の12.0%。

それも2008年の「篤姫」以降3年連続で視聴率が落ちているのですから、とても50年前のように「大河ドラマにあやかる」とは程遠い状況だったように見えるのです。
と、これ以上命名について批評するのは控えます。私も一時、今あるサービスの命名で1か月以上議論していた無益な経緯を知る者の一人ですから、きっとこのお菓子の命名についても何人もの苦労された方がいらっしゃるだろう事に同情の念を禁じ…

クロアゲハ羽化2

今日、妻から昼休みにLINEがあり、「もう1匹、カボスにクロアゲハの大きな幼虫がいるから確保しようか?」と相談して来ました。

実は、既に我が家には写真①のような大きな幼虫2匹がいるのですが、これが凄い大食漢。庭のカボスの葉の供給力の限界に来ているのです。


前の記事でも書きましたが、奴ら産み付けられた木の葉しか絶対に食べないのです。柑橘系の木(みかん、カボス、山椒も)なら、アゲハは何でも卵を産み付けますが、幼虫の方は、卵が付着した木の葉や茎しか絶対に食べません。同じ種類の木だから大丈夫だろうなんてあげても、何故か飢えても食べずに死んでいくのです。それだけ親であるアゲハを信頼しているのですかね?親が「ここなら大丈夫!」といって産み付けた木の葉なら育つことが出来ると・・・。

ちょっとの間、そんな事を考え、ちらっと禿禿になるカボスを想像しました。
しかし、ここは人命救助(幼虫命救助?)の観点から、「そうだね。鳥に食べられないうちに確保してあげないとね。」と返信しました。

次の妻のリプライは、「カボスにもう居ないや。既に鳥にさらわれたみたい。」

私「・・・」

◆ ◇ ◆ ◇

実は2週間前、前回の記事でご報告した後、また1匹、写真②のように蛹(さなぎ)になりました。以前のレポート時の時の蛹は茶色だった(ここをクリック)のですが、今回の蛹は緑色をしていました。



なので、「ん、これは前回のクロアゲハとは違う種類のアゲハだな。きっと。」と思って羽化を心待ちにしておりましたところ、何と出て来たのは写真③のように、やはりクロアゲハ。ちょっとがっかり、みたいに思いつつも、前回同様に庭で放しました。
ところが、なんとコイツ、飛べないのです。ちょっと飛ぶのですが、直ぐに落ちてバタバタします。どうやら右側の羽が伸びきらないで、少々皺のままなのが原因のようです。

かわいそうに、蛹から孵る時に、羽を上手く蛹のカラから出せなかったのでしょう。
自然界だったら、また即、鳥の餌食です。
もしかしたら、ずっと飛ぶことは出来ないかもしれません。そこでしばらく脱脂綿に砂糖水を作って、ケースの中で飼おうということになりました。

◆ ◇ ◆ ◇

やはり、先にお話ししたちょっと見ぬ間に食べられてしまった大きな幼虫も、このアゲハもそうですが、我々はヒラヒラ飛んでいる蝶を見ると、卵から幼虫を経て、蛹から蝶へと華麗な転身を…

首洗井戸 ~雛鶴姫~ 小話

さて、ちょっと話が戻りますが、現代のJKがタイムスリップして雛鶴姫となり護良親王と恋愛をする。これまた今の流行りのようにタイムスリップ恋愛もので作り上げた「キミノ名ヲ。」(絵①) 名前まで、かの有名なタイムスリップものの恋愛アニメ映画と似ていますが、こちらの方が作られたのが古く、なんらパクリはありません。 それどころか、時代考証が意外としっかりしています。
今回拙著のブログの中では、全く出てこなかった北畠顕家がこの小説では重要人物として描かれています。(絵②)
実はこの美男子が、かなり雛鶴姫に横恋慕し、雛鶴姫の心を乱すと同時に、時の有力者の子なので、最強のパトロン的支援をします。
小説の中では、護良親王をはじめ、皆から肌が女のように白いから、「真白」(ましろ)とあだ名で呼ばれていましたが、実際過去の文献でも「真白」と呼ばれていたとの記述がありました。
へーそーなのー、面白ーいと思っていたら、もう一つ上手く史実と話を溶け込ませたエピソードがありました。
それは、現代からJK雛鶴姫と一緒にタイムスリップしてきた弟くんが、彼と孫子の兵法について議論をするのですが、それで孫子のあの「風林火山」を旗にすることをほのめかします。小説の中で明確に武田信玄の「風林火山」だとは言っていませんが、どうも現代から来た弟くんは良く知っている「風林火山」を真白に教えたようなくだりがあるのです。

史実、「風林火山」の旗印を初めて使った武将は、武田信玄ではなくて、北畠顕家となっています。(写真③) 上手いですよね。こういう描き方。分かる人にしか分からない。
ということで、皆さんも是非「キミノ名ヲ。」を読まれ、これらの伏線も楽しまれてはいかがでしょうか?
---マイナー・史跡巡り関連ブログ(首洗井戸③ ~雛鶴姫 その1~) http://tamaki39.blogspot.jp/2017/03/1.html

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B to B to C について

何かの省庁の記事で、あるキャリア企業では、もうBtoCのビジネスモデルは終わり、これからはBtoBtoCのビジネスモデルで食っていくという話が出ていた。

BtoBtoC
なにやら英語っぽくてカッコいい表現だが、要は他人の褌で相撲を取るあれだ。
文字で書くと分かると思うが、論理的には、

BtoC
BtoBtoC
BtoBtoBtoC

のように、幾らでもCの前のBを続けることが出来るが、これが、一昔前の下請け、再下請けのように見られる向きがあった。つまり一番大きな力を持つ企業は、Cへサービスを提供するB、つまりCの直前のBであって、その後のBは全て、このC直前のBに対して言われた通り、発注の通りに製品なりサービスなりを提供するというものであり、C直前のBに比して顧客に対して大きな影響力を持って居ない、いわば黒子というのが、従来の構造のような気がする。

その原因が製品やサービスの特性に対する情報というものを支配している顧客ニーズを把握できる企業がC直前のBであるからという理由が大きいというのが、一番単純化された理由であろう。

ところが、最近IoT等によりこの傾向が変わりつつある。

顧客ニーズというのは、つまり顧客がその製品・サービスに対しての一番のセンサーであったということ、クレームにしても、使い方のアンケートにしても、顧客以上のセンサーは無かった訳である。

ところが、IoT社会は、製品自体のセンシングや、製造ラインのセンシングが可能となったため、顧客へ製品・サービスを提供している企業以上に、製造している企業の方が製品に対する顧客のニーズ等が分かるようになってきたという次第である。

例えば、米国のGEは飛行機のエンジンを作る。エンジンはボーイング等の会社を経て、各航空会社へ提供される訳であるが、このGEが飛行会社に対し、

「お宅のどんなに優秀なパイロットよりも自分達の方が、燃費の良い飛行機の飛び方や飛行経路が分かりますよ。」

と提案したら、どうであろうか?

彼らは航空エンジンのデータを、製品完成後にもセンシングを膨大なデータベースにより、取得・集計しているのである。

これらのデータは、当然、その時の飛行機の飛び方や燃料効率のデータ等と併せて取得されるため、飛び方や経路等とどのような相関関係があるのかが分析され、先の提案のような事が言えるのである。

また、この運用中のセン…

品川歴史散歩

時差Bizで少し早く仕事が終わったので、早速職場の廻りを史跡巡りしました。

こういう時差Biz利用方法もあるだろうと、自慢したいのですが、実は品川から大井町までの電車代を節約したいだけの、ちょっと哀しい歴史散歩です(笑)。

旧東海道の品川宿(写真①)を通過します。60thの青い旗が印象的です。
今年は、品川台場の何かが60周年なのですね!

何だろう?ググると東京港60周年だそうです。東京港って戦後の開港なの?と横浜150周年をこの間迎えた私としては、不思議な感じがします。


まずは品川台場採土跡と言うことで、御殿山の採土場に来ました。(写真②)

そう、坂と工事現場があるだけで、石碑も無し!これぞマイナー史跡の優等生ですね。(写真③)

ご存じのように、お台場は、あの伊豆の頼朝が配流されていた蛭が小島の直ぐ近くに屋敷のあった江川太郎左衛門が設計を担当しています。(絵⑤)

この辺り、お台場に関する拙著blog「お台場」もご笑覧ください。(ここをクリック
さて採土場とされる裏は、JR線路です。(写真⑥)
まさにこの線路の辺りから土を採ったのでは?と想像しましたが、時代が違いますね(笑)。

JRを渡ったところにある御殿山庭園は、もうアブラゼミが鳴いていて鬱蒼とした森が、都心に居ることを忘れさせてくれました。(写真⑦)

さて、次は品川神社です。(写真⑧)


やたらと大きな神社石の横、急階段を上って辿り着いた境内の空が綺麗でした。(写真⑨)


実は2年前まで居た部署では、毎年正月の仕事初めには、この神社に安全祈願をしていました。

ところが何度も来ているのに、歴史上有名な人のお墓があるとは露も知らず、Facebookの方から教えて貰って驚愕したので、今日はそのお方のお墓を確かめに来たのです。

そう、板垣退助さんです。教えて頂いた通り、神社の裏にありました。(写真⑩)


大体、どうして神社にお墓があるのでしょうか?そもそもが不思議です。

ちゃんと「板垣死すとも、自由は死せず」と本人が云ったのかどうか怪しいとの説もある名言の碑もあります(写真⑪)
この言葉は、板垣が刺された時に、犯人の相原を取り押さえた内藤魯一という有志が、事件の時に言った言葉を、後に板垣が言ったものという説が有力です。

しかし、平日の夕方は、こんな東京の真ん中の神社でも誰も居ないのですね。(写真⑫)


品川神社境内の中、有…

早川殿 小話(諏訪原城)

さて、今川氏真が一時期城主だった牧野城は、現在Blogにも掲載しました通り、諏訪原城跡として石碑等が建っております。(写真①)
これは、最初にこの城を築城したのが武田勝頼で、城内に、彼の母方湖衣姫方の先祖である諏訪氏の諏訪大明神を祀ったことから、その名で呼んでいました。
武田は、信玄公の頃から、駿河まで拡大した領土を、更に家康に分割を約束した遠江に拡大して行きたいと強く望み、切り取って行った歴史がありますね。 勝頼も同じで、この遠江に少し食い込んだ牧の原台地に東海道の要としての城を築いたのです。
遺構は割と武田時代のものが、空堀等の作り方等に残っているようです。ですので、諏訪原城址と武田時代の名称で呼ぶのでしょうね。(写真②)

ここは当時の物流を考えると、非常に重要な拠点です。やはり東海道沿いが、この当時も大動脈ですから。 写真③は本丸からの景色です。東海道方面、奥には駿河と遠江の国境である大井川も見えます。(写真③)
当時武田の防衛線でもあり、侵略の最前線、高天神城への補給路でもありました。
長篠の戦いで弱った勝頼から、家康はこの城を奪取するのです。 家康は、この城を奪取したのが余程嬉しかったらしく、中国の故事に習って、牧野城と改名したようです。 また、氏真を1年足らずで城主解任していますが、やはり、これ程重要な拠点の城主に氏真は向いていないと判断したのでしょうね。
明治になり、徳川慶喜が将軍職を辞し、駿府に引っ込むと、随従した沢山の旧幕臣たちを喰わす手立てがないので、彼らに頑張って茶畑を開墾させます。 その中心となるのが、この諏訪原城址一帯なのです。 現在も、城址の周りは、茶畑だらけとなっています。(写真④)
まあ、茶畑のお蔭で、結構遺構が残っているという話もあります。
しかし、この城に新しく作られた、この門もどきは何の意味があるのでしょうか?(写真⑤)
ご存じの方がいらしたら、是非お教えください(笑)。
---Blog「マイナー・史跡巡り」(北条氏康の娘たち② ~早川殿~) http://tamaki39.blogspot.jp/2017/04/blog-post_30.html


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