頼朝の旗揚げ 小話① 山木判官兼隆屋敷跡

さて、今回の「マイナー・史跡巡り」は頼朝の旗揚げの話でしたが、史跡を巡った時の私の苦労話等も、少しさせて頂ければと存じます。まずは、旗揚げの攻撃対象とされた山木判官兼隆屋敷の調査模様のレポートです。

石橋山の合戦場、土肥実平の領地だった湯河原の辺り等、頼朝が逃げ回った箇所を調査した後、旧国道1号沿いに、伊豆は三島方面に車を走らせます。(写真①)

①箱根から三島方面へ

見えてきました狩野川流域、函南(かんなみ)。ここから伊豆韮山(にらやま)辺りまでは、もう史跡の宝庫です。同じ場所に、時代の異なる史跡がいくつも折り重なる場所です。(写真②)

②函南が見えてきました
蛭が小島の辺りも、写真③のように真っ平です。蛭が小島から狩野川方向を見た地形です。

③蛭が小島から狩野川方面を臨む
「マイナー・史跡巡り」の上空写真(下の地図④)では、狩野川は蛭が小島からかなり北西側を流れており、が、この平らさから分かるように、過去この辺り一帯も狩野川が流れており、蛭が小島もその川の中洲だったことがあるようです。

この下の地図見て頂くと分かりますが、地元の北条時政の守山城は言うに及ばず、韮山城(北条早雲の居城)、江川邸(江川太郎左衛門の代官屋敷)、山木判官屋敷等は、皆丘陵地帯に建っていますね。これは当時、狩野川が氾濫しても、大丈夫なように皆ちょっとした高台に建っているのです。

少々高くないと湿気が多く、当時は労咳等の病気にもなりやすいと思われます。

頼朝は一応、配流人(罪人)なので、このような地元の名士が住むような丘陵地ではなく、氾濫地帯・湿気が多い等、条件の悪い蛭が小島に住まわされたのではないでしょうか?

④蛭が小島の周辺(「マイナー・史跡巡り」再掲)
地図④を見て頂くと分かるように、山木判官屋敷跡は、江川邸の直ぐ近くです。

なので、私は江川邸の駐車場に車を置き、目の前の方向案内に従って、山木判官屋敷跡へ向かいます。(写真⑤)

⑤江川邸駐車場前にある方向案内
明らかに山木判官屋敷跡の指示が
しかし、不思議な事に、この方向指示以降、⑤の写真で示す道の方向(写真⑥)を行けども行けども、屋敷跡の案内等は出て来ません。(写真⑥)

⑥確かにこの道沿い右手側に山木判官屋敷
があるはずなのですが・・・
とうとうこの写真⑥に見える一番奥の山端まで到着してしまいました。

そこで、この道端でネコに餌をあげている30代の女性に、屋敷跡について訊いてみました。

「あの・・・、」
「はい」
「やまきはんがんのお屋敷って、この辺りですよね?」
「はい、ここが山木ですが。」
「あ、はんがん」
「ハンガン?ですか?」
「ほうがんだったっけかな?」
「ホーガン?・・・・」
「すみません、頼朝にやっつけられた山木さんです。」
「ごめんなさい。私、歴史は全然分からないです。」
「あ、こちらこそ失礼しました。ありがとうございました。」

きっとハルク・ホーガン、ご想像されたに違いありません。私の訊き方が悪かった(笑)。

仕方なくスマホの地図頼りに、来た道を戻りながらウロウロしていると、また家の庭で小さな娘さんと庭木を切っていた30代のパパさんが、

「何かお探しですか?」
「あの、山木判官の・・・」
「あ、かねたか(兼隆)ですね。その南の山側が屋敷跡らしいんですけどね。この先南に入った先を小さな小道を行くしかないですよ。私道ですし、屋敷跡にはなんにもありませんよ。」
「ありがとうございます!」

礼を言い立ち去ると、後ろの方で、「おい、あの人なんだって?」「いつものカネタカだよ。」と家族で話をしているのが聞こえました。沢山いらっしゃるのでしょうね。私みたいな人。

ということで、何とか山木判官兼隆屋敷跡に辿り着くことが出来ました。(写真⑦、⑧)

⑦山木判官屋敷跡 
殆ど畑と雑草地しかありません
⑧夏草どもが夢の跡の山木邸
私の杖を突きたてました
今迄も、この手の案内板、石碑一つ残っていない史跡というのは何度も訪問していますので、この山木判官屋敷もそうであってもおかしくはないのですが、流石に驚くのは、写真⑤の方向案内版です。

あの表示の仕方ですと、「何かありそう」と勘違いします。

また、「マイナー・史跡巡り」でも詳細を記述しましたように、頼朝の「源氏再興の吉凶を占う」程、重要な初戦だったのですから、何か石碑くらいあってもよさそうな史跡だとは思うのですが・・・ここで負けてたら鎌倉幕府は無かった・・のですから。

では、引き続き頼朝と三浦一族をお楽しみ頂ければ嬉しいです。

---Blog「マイナー・史跡巡り」(三浦一族① ~頼朝の旗揚げ~)
http://tamaki39.blogspot.jp/2017/06/blog-post.html

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