中尊寺金色堂 小話⑤ ~東北調査紀行1~

8月6日から3日間の東北調査紀行で、7回に渡る「マイナー・史跡巡り」での前九年の役・後三年合戦を約3か月間続けました。(読み返される方はこちらをクリック

執筆中は、沢山の叱咤激励のお言葉を頂き、ありがとうございました。

ただ、まだ紀行中の1.5日分しかblogに反映できていません。
義経の衣川での滅びと、1戦国武将の話を貯めてあります(笑)。

あまり下調べもしないで家を一人で飛び出し、勉強しながら次の調査地を探す3日間でしたが、不思議と帰る頃には、各所各所の話が頭の中で整理され、それまで「点」でしか無かった史跡毎の歴史が一つに流れ、「線」のように繋がったのです。この経験は新鮮でした。

しかし、「マイナー・史跡巡り」を作り始めると、どうしても史実順にしか、訪問先を掲載できないため、紀行中、順に私が考えたことが抜け落ちがちなのです。

そこで、一度この紀行について時間を追って掲載したいと考え、Tsure-Tsureに連載したいと思います。

1.中尊寺【2017年8月6日(日曜日):第1日目)】

さて、初日は東北自動車道路をかっとばして、北上川が綺麗に見える中尊寺を、この日の昼過ぎから訪問しました。(写真①
①東北自動車道を中尊寺へ
写真の高速道路の上雲が多いのは、2日後の8月8日に東北地方を直撃する台風第5号の前兆だったようです。この時はそんな事は考えもしませんでした(笑)。

世界遺産である中尊寺の訪問は初めてで、勿論奥州藤原氏が造った寺であることや、黄金をふんだんに使っているため、マルコ・ポーロの東方見聞録で「ジパングは黄金の建物がある」と取り上げられたことくらいは知っていましたが、それ以上の知識は全く持って居ませんでした。(写真②

前九年・後三年と縁が深いなんて、行く前には全然・・・(笑)
②中尊寺へ到着、金色堂前で自撮り(笑)

金色堂内での写真撮影は禁止のため、Web上の写真を掲載しますが、流石「金」を贅沢に使っているため、本当に眩(まばゆ)いですし、壮麗な印象を受けます。(写真③
③中尊寺金色堂内部
Webから抜粋
2.奥州藤原氏3代のミイラ

この金色堂の須弥壇(しゃみだん)に、建立した清衡(きよひら)を始め、2代・基衡(もとひら)、3代・秀衡(ひでひら)らが眠っています。

ちょっとグロいですが、この3代の遺体(ミイラ)について徹底した調査が、1950年に金色堂が修復されるのに併せ実施されました。その時の写真が以下の通り残っています。(写真④

当時の調査の状況等に興味がある方は、こちらの記事も併せてご参照ください。
④金色堂に眠る奥州藤原氏3代のミイラ
※Webから抜粋
しかし、「マイナー・史跡巡り」で描いた清衡の姿が、このような形で残っているというのは何か感慨深いものを感じます。

3人の遺体の中で、私には清衡が一番遠慮深く見えます。単に一番奥だからかもしれませんが(笑)。

この謙虚な感じが、清原家を殲滅しようとした源義家(よしいえ)を上手く切り抜け、奥州藤原氏の繁栄の基(もとい)を作った清衡ならではの雰囲気なのかもしれません。

死して1000年近く経った遺体からも、生前の性格まで見えると思うのは、私の考えすぎでしょうか(笑)。

ちなみに4代目の藤原忠衡(藤原泰衡(やすひら))が首だけなのは、以下の理由からです。

彼は平泉に逃げ込んだ義経を滅ぼし、その首を源頼朝に差し出すことで恭順の意を顕(あらわ)しました。しかし、この義経討伐の努力も虚しく、最初から奥州藤原氏を滅ぼしたいと考えていた頼朝は、泰衡を討伐、八寸釘(約24cm)を使って釘打ちの刑に処した上でさらし首にします。その釘打ちの刑の痕跡も生々しくこの泰衡のミイラに残っていたそうです。

3.螺鈿(らでん)に込められた想い

私は、この金色堂内の見学中、金をふんだんに使った須弥壇も勿論気になりましたが、他に気になったのが、写真③の中央弱冠右側に見える螺鈿(らでん)細工を大量に施した柱です。(写真⑤
⑤左:金色堂の柱(螺鈿を沢山使った装飾)
右:螺鈿を作るための夜光貝     
※3日目訪問の多賀城の歴史博物館で撮影
螺鈿は、平安時代の蒔絵(まきえ)等に良く使われる貝殻(夜光貝)を薄く切り貼り付けて作ります。加工に大変手間暇が掛かるため、片輪車螺鈿蒔絵手箱等、小物に使われることが多く、螺旋の放つ七色の真珠光沢の美しさが尊ばれるのです。(写真⑥
⑥片輪車螺鈿蒔絵手箱
※東京国立博物館蔵
ただ、金色堂のような大きな建造物に対して、これ程までにこの貝のかけらを使うことはないようです。このように美しい小細工を手間暇かけて大規模に施したことで、金色堂は金によるものに加え、高い芸術性をまとい、世界遺産に登録されたのです。

しかし、どうしてこの螺鈿を大量に使おうと清衡は考えたのでしょうか?

4.中尊寺供養願文

金色堂は中尊寺の一番奥にあります。これを見た後、私は元来た道を歩いていると、中尊寺の鐘楼がひっそりと、高台に建っているのに気が付きました。(写真⑦
⑦中尊寺の鐘楼

この鐘楼、中にある梵鐘を突き過ぎて、撞座(つきざ)部分の摩耗が激しく、今は突けないのだそうです。(写真⑧
⑧今は突けない中尊寺の梵鐘
※Webから
またそれは、清衡がこの中尊寺を建立した供養願文と関係が深いようです。(写真⑨
⑨清衡が書いた中尊寺供養願文
※Webから
1124年、中尊寺金色堂が竣工した際、清衡は何を考えていたのでしょうか?
手がかりは2年後に金色堂が落慶した時に、清衡が奉納した中尊寺供養願文にありました。この願文を意訳します。

【中尊寺供養願文(意訳)】
このみちのくの国では官軍と蝦夷(えみし)の戦いが何年も続きました。
そして、それらに関する人、動物などの多くの命が広大な土地のうちに失われてきたのです。
朽ちた骨は、今なお、みちのくの塵芥(ちりあくた)となっているのです。
この鐘の音が、このみちのくの大地に鳴り響き、大地に散った骨片になったものたちの魂を慰め、天国へと導きたいと願うものです。
◆ ◇ ◆ ◇

この願文から、この鐘は、清衡の希望通り、平和希求の音を突けなくなるくらい、沢山響かせ続けたということでしょうか。

5.おわりに

私は、この願文を見た時に咄嗟に思いついたことがあります。
金色堂にあるあのおびただしい螺鈿は、この願文の中にある「朽ちた骨」「骨片」を象徴しているのではないでしょうか?七色に光る真珠光沢の美しい骨片たちが金色堂の中で皆一緒になって、この極楽浄土を形成しているのです。

幼少より、前九年、後三年と戦ばかり経験してきた清衡だからこそ、このみちのくで沢山の無念や憎しみ、そして無残にも朽ち果てていく兵(つわもの)の姿を見て来たことが、強い無常観の累積となって、晩年この寺を建てずにはいられなかったのではないかと思います。

この紀行中も、清衡が自分で仕掛けて置きながら、事が成った後にかなり葛藤をしたと思われる史跡に幾つか行き当たりました。
奥州王国を作り上げるまでの清衡は、やはり必然性があったとは言え、憎愛の中を生き抜くのに懸命で、気が付けば自分の通ってきた後には死屍累々。
彼は自分だけが安らかに死んでいくのには、罪の意識からやはり耐えられなかったのだと思います。

父・藤原経清(つねきよ)への慕いの情、それを鋸引きで殺した清原家への憎しみ、その憎しみが生み出してしまった母親の焼死。そして母が同じである家衡(いえひら)の斬首。(人物相関図はこちら

これら全てに加え、またその昔の阿弖流為(アテルイ)の乱でも同じような蝦夷の反乱があったことを想い、それらの戦いで骨となった者を思いやる清衡の気持ちが、晩年にこの中尊寺を建立させる原動力となったのです。

なので、政治的駆け引きに使った「金」もふんだんにつかい、骨片を表す螺鈿にも、その膨大な作業に対する支出も惜しみなく、全力を出し切り、現代では世界遺産となるこの平泉金色堂を、彼の最後の最期に建てることで、人生の幕を降ろせると考えたのです。

清衡は金色堂落慶の翌年、このみちのくの土地の朽ち果てた骨たちと一緒に、この鐘の音を聞きながら没しました。(写真⑩) 享年73歳です。
⑩このみちのくの朽ちた骨に響き渡る中尊寺の鐘の音は、清衡の奏でる鎮魂歌なのですね
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回以降も、引き続きこの紀行文の続きをお楽しみいただければ幸いです。




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