中尊寺金色堂 小話⑨ ~東北調査紀行5~

さて、東北紀行2日目は盛岡市から始まります。
市内のホテルを8時に出て、まず向かったのは、厨川柵(くりやがわさく)。(写真①
①厨川柵の中心とされる天昌寺(てんしょうじ)外壁
この柵は、大変有名な柵で、1056年の前九年の役の総仕上げ時と、それから133年後、1189年の頼朝の奥州合戦の総仕上げ時の2回に渡り、「蝦夷(えみし)対 源氏」の構造が描かれることになる場所です。

奥州合戦では、既に平泉でこの合戦の勝利は分かっているのに、源頼朝は、この柵の地にまでわざわざ来て、既に死亡している藤原泰衡の首を柱に八寸釘で打ち付け、28万にも及ぶ追従する軍勢に奥州合戦完勝を印象付ける行動をしたのだろうか?

それが知りたくて、この地に来てみたのですが・・・。

1.厨川柵

あるのは写真②の看板だけなのです。(写真②

この看板の裏の白壁は、天昌寺(てんしょうじ)というお寺のもので、それ以外、それらしいものは何もありません。

②厨川柵疑定所に建つ看板
看板には、やはりここが厨川柵の一部であったことや、この白壁の天昌寺が、その時ここの所領を頼朝から貰った工藤氏と関係が深い事などが書かれています。

工藤氏と言えば、曽我兄弟の敵討ちで有名な悪役に工藤祐経(すけつね)という有名な伊豆地方出身の武将が居ますが、どうもその流れの傍流のようですね。頼朝と伊豆での挙兵時からの戦友だったのでしょう。その分派がこの盛岡の地に南部氏の臣下等になり、中世の間勢力を保っていたようです。

しかし、奥州藤原氏を倒した頼朝がわざわざ28万もの軍勢を従え、凱旋行事をした場所にしては、有名な史跡がある訳ではなく、場所も確定できないようなのです。

これはどういうことなのでしょうか?

この看板から白壁沿いにぐるーっと廻り、この白壁の中のお寺・天昌寺の正面口まで歩きながら考えました。(写真③
③天昌寺正面口
ここの石碑の脇にある天昌寺を説明した看板には、天昌寺の脇にある写真④が、当時の厨川柵の柵防跡のようなことが書かれていました。(写真④
④厨川柵の柵防跡?
当時の史料が非常に少ない等も原因なのでしょうが、いずれにせよ、どこからどこまでが明確に厨川柵だったのかは、歩き回って看板等で確認する限り、まだ特定できないようです。

2.征夷大将軍発祥の地

頼朝はここ厨川柵までやってきたことで、征夷大将軍となりました。

以後、武家の棟梁と言えば、征夷大将軍(秀吉は違いますが)が、明治維新になるまで700年も続く訳です。そのトリガーを引いた場所なのですから、この歴史的遺構が「何も無い」というのは、繰り返しになりますが、本当に不思議です。

それが逆に「どうしてそうなっているのだろう?」とあれこれと考えさせる動機になります。

そこで一つ思いついたことがあります。頼朝は実は「征夷大将軍」という役職をゲットすることに拘っていたのではなく、「将軍」という役職に拘っていたと云うものです。

絵⑤を見てください。
⑤陸奥鎮守府将軍として宴会をする頼義(右上)
出典:東京国立博物館所蔵「前九年合戦絵巻(摸本)」

この絵は、出典に描かれている通り、頼朝から133年昔にこの厨川柵で最後を迎えた「前九年の役」の頃の一巻を描いています。

この時、「まつろわぬ(蝦夷)である安倍一族」を征圧しようと朝廷は、源頼義(よりよし)を陸奥の国府多賀城(仙台)へ派遣します。

この絵は、多賀城へ着任した頼義とその息子義家(よしいえ:絵真ん中)らが、歓迎会を受けている場面を表しています。

絵中、右上にいる頼義の上に「将軍」と書かれているのが分かりますでしょうか?

これは、この当時頼義が「将軍」と呼ばれていたことを象徴しています。
彼が多賀城に赴任した時の役職が、「陸奥鎮守府将軍」というものでした。(表⑥
⑥源頼義と頼朝の比較表
頼義自身はこの官職にそんなに拘ったわけではありません。

ところが、140年後の頼朝は拘りました。彼は頼義の将軍の上を行く、大将軍になりたかったのではないでしょうか。なんか子供みたいですね(笑)。

表⑥全体に集約したことを読み取って頂けると嬉しいのですが、頼朝は全ての点において、140年前の頼義の上を行く源家の棟梁であると武士団に見せたかったのです。

よく、「頼朝は藤原泰衡(やすひら)らの奥州征伐をしたから、蝦夷(奥州)征伐で「征夷」となり、昔坂上田村麻呂が征夷大将軍になったことに因み、征夷大将軍になったのでは?」と聞かれることがありますが、それは少々誤解ではないかと思われます。

というのは、そうであれば、頼朝が征夷大将軍に任命されるのは奥州合戦の前、つまり1189年より前でなければなりません。ところが任命されたのは1192年。つまりこの厨川柵で奥州合戦の勝利を宣言し、戦が終った後なのです。

頼朝が欲しがった「大将軍」、これに該当する役職として朝廷側が候補にしたのは「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」等の複数候補が上がったようです。

「征東将軍」は源義経らに滅ぼされた木曽義仲が任官していたもの、「上将軍」は中国の古い役職としてはありましたが、この役職を含む律令制を採り入れた日本では、未だかつて使われたことの無い役職でした。

となると、残るは今迄良く使われてきた「征夷大将軍」のみ。

また、この役職が決まる時には、既に奥州合戦は終わっているため征服すべき夷(蝦夷)は存在しない、つまり「征夷」という「大将軍」の前の二文字は、現実的には意味が無く、ということは何か問題になるようなことも発生しないということなのです。
(現実的に「征夷」という言葉が問題となってくるのは、ここから約700年後の幕末の「攘夷」論からです。)

そこで、「征夷大将軍」を与えることに朝廷側で決定したという説が、最近有力になってきています。(出典:Wikipedia

3.厨川柵で頼朝が顕示したかったこと

結局、この厨川柵で、源頼朝が、後々、鎌倉武士団と言われる28万の猛者に見せたかったものは何だったのでしょうか?

それは、過去の源氏の中で一番だった頼義を頼朝は越えたぞ!!頼義が討ち漏らした安倍一族の末裔を、頼義が安倍一族を討ち滅ぼしたつもりになっていたこの厨川柵という聖地で、140年後にこの頼朝自身が討ち滅ぼしたぞ!俺は頼義より偉いだろう?歴代の源氏の中でピカ一だろう!頼義らは将軍ではあったが、俺は更に上行く大将軍になってやる。
ではないかと想像しました(笑)。

頼朝は、平家打倒で伊豆で挙兵してから、直ぐに石橋山の合戦ここをクリック)で、関東の平家側鎮圧軍に敗れ、以降戦での完全勝利の経験はありません。富士川の戦いここをクリック)では勝利しましたが、これも戦を仕掛ける前に、水鳥の音で平家軍が逃げ出すという状況ですから、頼朝の武勇を喧伝するには、少々力不足です。その後は弟の義経や範頼らが、平家を西へ西へと追い落とし、最後は山口県下関の「壇ノ浦」で殲滅する訳です。

勿論、頼朝が鎌倉に残ったのは、戦下手だからではありません。奥州藤原氏上総(茨城県)の佐竹氏らの抑えとして、鎌倉に鎮座することにしたのです。

また頼朝は、義経のような戦の現場で状況に応じ臨機応変に戦い方を変え、華々しく平家を追い落とす、いわば戦術肌の人材ではありません。じっくり何年も先を見越して布石する、いわば戦略の人なのです。

なので、頼朝が軍を動かすときにはほぼ勝利は決まっている訳です。

平家打倒の戦略も、頼朝は用意周到に、伊豆の流人生活を送っていた17年間に関東武士団を味方につけるという布石を行っていました。
挙兵し、石橋山で敗れはしたものの、大局的には大軍を組織できると踏んでいたのだと思います。あとは平家を滅ぼすために、部下や自分の親族等から誰か戦術に長けた者を戦現場の指揮官として使えばよいと考えていたのでしょう。

奥州合戦も同じです。先のBlogで述べたように、義経追捕の全国手配をした時から、奥州藤原三代の作った奥州王国を潰す算段は完成していたのでしょう。何も頼朝自ら、岩手県は盛岡市の厨川柵まで遠路はるばる来なくても、奥州王国はつぶれたのです。

ただ、奥州合戦でも現場指揮官を立てると、平家を滅ぼした義経のように、その戦功により朝廷側から反頼朝勢力として使われるリスクがあります。
また頼朝自身がこの合戦で自分が如何に凄い大将なのかを、武士団に示しておいた方が、盤石な鎌倉政権を築くことになると踏んだのだと思います。

数十万の武士団が見守る中、槍を持って頼朝は泰衡と一騎打ち、一寸の差で頼朝が勝ち、高々ととったばかりの泰衡の首級を掲げ、数十万の武士団を前に大音声で勝利宣言をする

なんてことは、哀しいかな戦略の人である頼朝には出来ません。全て論理で殺していくのです。敵である藤原泰衡は、部下によって頼朝が厨川柵に到着前に暗殺。その首級は頼朝に引き渡されます。

そこで彼は表⑥にあるように、140年前の「前九年の役」の頼義の真似をして、既に死亡している泰衡の首級を八寸釘で木柱に打ち付け、晒し首にすることで、28万の武士団への示威行動としたのです。
そして、頼義の「将軍」より偉い「大将軍」を朝廷へ所望するという理屈なのですね。

4.蝦夷(えみし)の人々の気持ち

では、そのような記念すべき鎌倉政権盤石化の礎石となるべき厨川柵に何も無いのはなぜか?

以前、このBlogのシリーズで私は奥州藤原氏の最後の当主である泰衡を以下のように断じてしまいました。(詳細はこちらを参照

「泰衡は、自分たちに起きている事象を、単なる事象としてしか捉えておらず、その裏にある頼朝の深慮遠謀等、全く想像も出来ない人物である」

上記厳しい評価も根拠レスでないことは、こちらのBlogを読んで頂ければ分かるとは思いますが、一方で、実は泰衡は平泉を築いてきた奥州藤原氏の4代目に相応しい文化的慧眼を持った人物だったのかも知れません。

この厨川柵で幼少の頃敗北を味わった藤原(安倍)清衡(きよひら)が平泉に中尊寺を建立して以来、毛越寺・無量光院等、奥州藤原家代々に渡り築いてきた黄金楽土の平泉を、泰衡は頼朝軍によって焼失させる訳にはいかないと考え、あえて腰抜けの汚名を被る覚悟で、平泉から北へ逃亡したという説があります。そして部下の裏切りにより殺害され、頼朝に差し出された首は前九年の役の故事にならい、八寸の釘により木柱に打ち付けられるのです。

もし、これが本当なら、軍略では才の無い泰衡も、精神世界の中では頼朝より上を行く人物だったのかもしません。
いずれにせよ、一つ言えるのは、泰衡は部下に殺害されますが、決して人望の無い人物では無く、その後彼の首は、彼を慕う人々によって、そっと平泉は中尊寺へ戻され、先の奥州藤原三代と対等にミイラ化されるのです。ただ、鎌倉幕府に気を使い、彼の首が入っている首桶には弟の「忠衡(ただひら)公」と書かれることによって、カモフラージュされますが・・・。(写真⑦
⑦奥州藤原氏三代のミイラが入った棺(左)四代目秀衡の首桶には弟の「忠衡」との銘
昭和25年(1950年)の遺体調査では、泰衡の首には縫合された跡があり、手厚く葬られていたことが分かっています。(写真⑧

⑧秀衡の首(ミイラ化)
A:八寸釘の跡 B,C:縫合痕

これらの事実を基に、この厨川柵が何故遺構として残っていないのかを考察しますと、やはり、東北は蝦夷(えみし)の人々にとって、厨川柵で頼義と頼朝、両源氏の棟梁が行った行為は、無理無体な迫害としてしか映らないのではないでしょうか。
いくら武家政治の基盤の始まりなどと言っても、蝦夷にとっては、迫害以外の何ものでも無く、それらは蝦夷にとって消し去りたい記憶の1つなのではないか。だからこそ、この厨川柵の史跡は殆ど無くなり、この土地を頼朝に与えられた工藤氏は、敗者である安倍・藤原一族のために天昌寺を建立していたのではないか。更に言うなら、泰衡の首を忠衡と偽るのと同様、天昌寺をその目的のためとは表向きは言えない雰囲気があったのではないかと想像してしまいます。

5.おわりに

昭和25年(1950年)の遺体調査で、泰衡の首桶から80粒ほどの蓮の種が見つかったのだそうです。
その種は平成10年に発芽し、「中尊寺ハス」として有名になっています。(写真⑨
⑨中尊寺ハス
泰衡の首級と一緒にこの蓮の種を首桶に入れた、800年以上前の名も知れぬやさしい蝦夷の方は、泰衡の真の理解者だと思います。

その方は、泰衡が後世、臆病者と誤解され続けても、数百年後、数千年後に、この蓮の種を蒔き、美しい蓮の花が咲くのを見た人の中に、きっと泰衡の心根のやさしさを、真に理解してくれる人が現れることを期待して種を入れたのかも知れませんね。



長文最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。