中尊寺金色堂 小話⑩ ~東北調査紀行6~

盛岡の厨川柵を後にした私は、ここから北へ70km程移動を開始します。

今回、中尊寺から始まった東北史跡巡りの第1の目的は、前九年の役後三年の役、その100年後の奥州合戦等、武士の地位が高まり武家政治が始まる関連史跡をめぐることです。

それ以外にもう1つ、戦国時代が終わる中世武士の終焉の地である九戸(くのへ)城を見たいと考えていました。

ただ、この場合、第1の目的から500年もの差があるので、頭の切り替えができるのだろうか?と考えていましたが、この東北・蝦夷(えみし)の国は、500年経っても一つの信念で貫かれていることを知り、感動しました。

では、厨川柵から70km移動した先に何があるのかを一緒に見ていきましょう。

《前回までの東北紀行文リンク集》
中尊寺金色堂 小話① ~じゃじゃ麺~
中尊寺金色堂 小話② ~かわらけ~
中尊寺金色堂 小話③ ~納豆~
中尊寺金色堂 小話④ ~御霊神社~
中尊寺金色堂 小話⑤ ~東北調査紀行1~
中尊寺金色堂 小話⑥ ~東北調査紀行2~
中尊寺金色堂 小話⑦ ~東北調査紀行3~
中尊寺金色堂 小話⑧ ~東北調査紀行4~
中尊寺金色堂 小話⑨ ~東北調査紀行5~

1.イーハトーブの世界

厨川柵から九戸城のある二戸市まで、国道4号線を使います。この国道、IGRいわて銀河鉄道と、もろに宮沢賢治に関係しそうなネーミングの鉄道の直ぐ横を並走しています。(写真①

ネーミングだけでなく、この沿線はまさに宮沢賢治の世界、山と雲が東京とは違うことに感動しました!
牧歌的というのも、田舎的というのも、ちょっとニュアンスが違うのです。
どの表現もピタッとは来ず、強いていうならこの地域独特の創作童話のような何ともいえない世界が拡がっているのです。

逆に宮沢賢治も、どの一般的な表現もピタッとこの景色に填(は)まらないので、この地域をイーハトーブという仮想的なおとぎの国とする造語を作ったのではないかとまで、想像してしまいます(笑)。(写真②

そんなことを考えながら、のんびりと車を走らせると・・・。

2.弓弭(ゆはず)の泉

国道4号を40㎞位北上したあたりでしょうか?

急に道路右側に「源義家(よしいえ)公ゆかりの地」のような看板が出てきました。

前九年の役の厨川柵を見たばかりの私は、
えっ、ここにも義家関連史跡があるの?でも確か前九年の役で、北進した頼義・義家の軍は厨川柵が終着点だったのだから、それより北のこの地点に何かゆかりの地があるとは考えづらいなあと思い、時間の関係もあるので、パスしてしまいました(笑)。

後で調べるとどうやら、以下のような伝説の地だそうです。

北上川の源泉のようです。なんでも義家が前九年の役の時に、弓のはし(弓弭(ゆはず))で杉の根本を掘ると清水が出て、それが、あの北上川の源流になっているとのこと。(写真③
でもどうなんでしょう?あの悠久の北上川は今から1000年前から流れ出したものではないですし、また八幡太郎義家(源義家)伝説は、日本全国にありますから、やはりこれは伝説なのでしょう。

ただ、宮沢賢治のイーハトーブの概念によって、つい別世界のように感じるこの辺りにもしっかりと武士勃興期の伝説があり、やはりここは日本だなぁと感じながら車を北上させます。

3.九戸城

さて、一戸町を経て、二戸市に入ります。一戸~九戸など「〇戸」は昔の牧場番地を現します。この辺りは奥州名馬の産地なのです。

なので八戸市ですら、現在では工業と物流(港)として有名ですが、命名された頃はやはり名馬飼育のための牧場番地だった訳です。

二戸市なのですが、ここに九戸城があります。(写真④
城が近いと思い車を走らせていると、いきなり大きな堀のような跡が出てきました。(写真⑤
堀の横に立派な上り坂があったので、これを登ると駐車場があるのかなと思い、車で駆け上がると行き止まりでした。

車を降りて、坂を上った先には、本丸っぽい、平な芝生が広がっています。ところどころまだ発掘が進められているらしく、綺麗に採掘された土の跡が露出していました。(写真⑦左

すると「こんなところに車止めちゃ、ダメだよ。」と、ちょうどそれまで昼休みだったらしく、午後の発掘に来られた地元(?)の方々から、声を掛けられました。

「あの~、九戸城見たいんですけど、どこに駐車すれば宜しいでしょうか?」
と聞くと、

⑥九戸城俯瞰図
※三の丸は左上、今いる大手門は中央右下
「三の丸の方に駐車場あるから、そっち廻って。」(俯瞰図⑥

三の丸?三の丸ってどこにあるのだろう(笑)。という私の表情を読み取って頂けたのか、次のように言ってくれました。

「ここは大手門だよ。三の丸は、この坂くだって右折して、城山沿いに行けば『九戸城エントランス広場』って案内出て来るから」

「ありがとうございます!」

と挨拶し、バックで大手門への坂から車を出すと、すぐ横に立つ「史跡 九戸城跡」の石柱をパチリ。(写真⑦右

九戸城は、九戸政実(くのへまさじつ)という南部氏の一有力武将が、豊臣秀吉の軍6万5千に対してたったの5千の兵で反乱を起こした城として有名なのです。

⑦九戸城発掘現場と史跡石柱
さて、三の丸の駐車場を見つけ、車を止めると、駐車場前に写真⑧のようなプレハブが建っています。
どうやら、この建物が九戸城エントランスの案内所のようです。
⑧駐車場前のプレハブ(九戸城案内所)
窓に貼ってある城縄張りの絵や、九戸城攻めの時の豊臣軍の配置図等を、暑い中外側から眺めていると、中から初老の方が出て来られました。

「今、中でビデオを流してあげるから、是非中へお入んなさい。エアコンもつけてあげるよ。」

とご親切に誘導してくださいます。

4.九戸政実の人気ぶり

⑨九戸政実物語
※クリックするとダウンロードページへ飛びます
中で見たビデオは、やはり中世武士(とりわけ戦国時代)の終焉となった最後の豊臣秀吉軍との戦(いくさ)が、ここ九戸城で起きた「九戸政実の乱」であることを懇切丁寧に解説してくれていました。

詳細は拙著Blog「中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~」および「中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~」をお読み頂ければ、嬉しいです。

このお城で起こった「九戸政実の乱」が
想像していたより奥が深いものであることが分かりました。

ここに来る前は、戦国の世情に疎い一武将である九戸政実が、中央政権から遠いこの地で地元の民を焚き付け、反乱を起こした 程度にしか、想像していませんでした。

しかし、決して九戸政実が世情に疎かったのではなく、彼は強い信念を持ってこの乱を起こしたことを知りました。そして、その信念に基づいた彼の生き様・死に様に地元を中心に多くの人が感動したということが良く分かりました。

その生き方がカッコよく、地元の人が「自分達だけが知っていれば良い話でなく、全国に是非九戸政実について広めたい」という活動が盛んな訳なのです。

案内人の方がくださったパンフレットの中に絵⑨のような漫画の小冊子がありました。漫画で短くまとめてあり、非常に分かりやすく描かれていますので、是非ダウンロードしてお読み頂ければと思います。(地域振興センターが展開しているもので違法ではありませんのでご安心ください。絵⑨をクリックするとダウンロードページに飛びます。ちなみにダウンロードはPDFファイルです。)

この漫画に出て来る政実、20代でしょうか?若くてカッコいいですよね。ところが史実では50代も後半の円熟した御爺さんなのです(笑)。決して若気の至りで、血気盛んに乱を起した訳では無いのです。

この絵に象徴されるかのように、日本史というと我々のような中高年のファンが多い中にあって、九戸政実のファンは、比較的20~30代の若い人が多いように感じます。

この漫画も岩手大学の学生さんが描かれたようです。

私もBlogに九戸政実の話を掲載してから、Twitterなどに、多くの若い日本の歴史を描く漫画家さんとの交流が生まれました。

絵⑩は、私と懇意にしてくださるザネリさんという方の九戸政実のイラストです。

⑩九戸政実(作画:ザネリさん)
どうですか?私はCool Japanの1つと言われる「日本のアニメ」と日本史が融合し、一つの日本美的なものが表現されているこれらのイラストを高く評価しています。

ちなみにこの九戸政実の友であり、最後は、この城で敵対することとなった南部信直(なんぶのぶなお)についても、
ザネリさんは以下のイラストを描いています。(絵⑪
⑪南部信直(作画:ザネリさん)
勿論、こちら南部信直も実際にはかなりの高齢です。

どうして、九戸政実や南部信直等、東北武将らは若い人たちにも人気があり、このように若く描かれることが多いのでしょうか?

⑫九戸政実と南部信直の生き方の違い
を表現した樹があります(次回解説)
次回以降、この課題についても、検証したいと思います。

この城や、ここから離れた九戸村にある政実の首塚、更には南部氏の盛岡城を訪問する中で、段々と分かってきましたので。(写真⑫はご参考

ご精読ありがとうございました。

<つづく>

ザネリさんのリンクをもっと見たい方

【ザネリさんのPixivリンクへ】


【厨川柵】岩手県盛岡市前九年1丁目4
【弓弭(ゆはず)の泉】岩手県岩手郡岩手町御堂
【九戸城】岩手県二戸市福岡城ノ内3−3