名木探訪記シリーズ② 頼朝桜

何故、そんな凄いことが出来たのだろう? 

私は、千葉県は房総半島の南、鋸南町にある「頼朝桜」を見ながら考えていました。(写真①) 

①頼朝桜(鋸南町)

平家打倒の緒戦、石橋山合戦で完敗し、命からがら真鶴(神奈川県)から舟で脱出し、ここ房総半島の鋸南町に上陸した源頼朝。(写真②)                                        
②源頼朝上陸碑(鋸南町)

家臣の土肥実平とたった2人で、小舟から鋸南町に上陸したのが1180年の8月28日。それから江戸湾(東京湾)をグルっと廻り鎌倉入りしたのが10月7日(地図③)。鎌倉入りの時の軍勢なんと数万騎。 

③鎌倉入りまでの頼朝再起ルート

あり得ないと思いませんか?たった1ヶ月で2人が数万に膨れ上がるのです。大概敗れた武将は、武者狩りで殺されるか、運よく生き延びても、再起出来ない武将が殆ど。数万の軍に成長なんて再起は、数年の歳月を掛けて出来ても奇跡に近いです。それがたったの1か月で達成してしまうのですから。 

負け戦からの再起も計算に入れる、これが頼朝の実力なのだと思います。この場合、非常に重要なのが、房総半島の千葉常胤(つねたね)を、しっかりと味方につけることでした。 

事実、この上陸後、千葉常胤が真っ先に300騎を率いて頼朝に参陣すると、様子を見ていた従兄弟の上総広常が2万騎を率いて参陣。その後、鎌倉に至る道々、畠山重忠、江戸重長、河越重頼等の武将が続々と参陣、頼朝の再起は成功するのです。 

頼朝は千葉常胤の説得工作が成功するまでは挙兵しなかったのでしょう。頼朝が挙兵する、たった3か月前に以仁王と源頼政が宇治平等院で挙兵しても、頼朝は千葉常胤の工作が完了していなかったため、同時には挙兵しなかったと言われています。逆に工作が完了した後は、頼朝のような石橋を叩いてもなかなか渡らない男が、たった300余騎の寡兵をもって、10倍の平家軍に立ち向かうという一見無謀にも見える石橋山合戦をしたのです。 

さて、この挙兵前の千葉常胤の説得工作を誰が担当したのでしょうか?当時の第一級の史料である「吾妻鑑」には千葉常胤の六男・胤頼(たねより)の説得工作があったと書かれています。 

ただ、慎重な頼朝は胤頼だけでなく、当時、頼朝の参謀格を務めた怪僧・文覚(もんがく)にも工作を依頼していたのではないかとの説があります。(文覚については、本誌「頼朝杉」でも紹介をしております。詳細は「頼朝杉」のシリーズで書いていく予定です。) 

文覚が出家前に、遠藤盛遠という武士として勤めていたのが京都・上西門院(鳥羽天皇の皇女)。ここに文覚の父親の推挙で入って来たのが、胤頼です。文覚とは師弟の関係を持ったと言われています。 

この胤頼の裏方、頼朝とのリエゾン役として文覚は、千葉常胤の説得工作を進めたのではないでしょうか。 

神奈川県の三浦半島・浦賀に「叶神社」という場所があります。(写真④) 

④叶神社

この鳥居の前には浦賀湊の舟着場があります。 

この神社は文覚が建てたものです。「叶」とは頼朝が平家を倒し、新しい時代を切り開くという大願成就が叶ったことからつけたということなのですが、どうして舟着場の目の前に建てたのでしょうか? 

実は、文覚はこの場所から房総半島に渡ったといわれています。文覚はここから房総半島に渡り、胤頼と一緒に常胤を説得したのではないでしょうか。それが上手くいき、後に挙兵した頼朝のピンチを救い、平家打倒という夢を叶えた、これをここから舟を出して房総半島へ渡る時に文覚が強く自分に言い聞かせたから「叶神社」としたのではないでしょうか。 

拙著ブログ「マイナー・史跡巡り」の「頼朝杉」にも出てくる智満寺は平家打倒が叶った後、大願成就を祝して、文覚の勧めにより頼朝が千葉常胤に本堂を再建させたものです。千葉氏が再建したので、山号は静岡にありながら千葉山なのです。文覚や千葉常胤の行動力に、頼朝が如何に感謝していたのかが分かりますね。 

千葉一族の房総半島・鋸南町は、頼朝が挙兵をした伊豆の河津桜を沢山植え、頼朝上陸の快事を毎年祝しています。 

新しい時代を切り開いた頼朝再起の一歩はこの場所から始まったのです。 


【頼朝桜】〒299-2111 千葉県安房郡鋸南町大崩39

源頼朝上陸碑】〒299-2118 千葉県安房郡鋸南町竜島165−1

【叶神社】〒239-0824 神奈川県横須賀市西浦賀1丁目1