石橋山合戦 小話① 石橋山古戦場

石橋山合戦について、拙著マイナー・史跡巡りに描いています。
これら史跡巡りでの、調査状況(?)について、またつらつら(Tsure-Tsure)と書いていきたいと思います。

1.三浦軍停滞箇所(小田原PA)

まず、石橋山古戦場へ向かいます。
東名高速厚木経由で、小田原厚木道路に乗り換え、小田原PAで休憩。

ちょうど、このPA辺りが、三浦軍が増水した酒匂川を越えられず、停滞し、大庭景親所領の建物に火を付けて廻ったあたりです。(写真①)

①三浦軍が足止めされた場所(小田原PA)
から石橋山方面を臨む

その火は石橋山へ登った景親から良く見え、怒った景親は三浦軍が酒匂川を越えられないうちに、寡少な頼朝軍をやっつけてしまおうと思わせる動機になりました。(軍配置図はこちら

現在のように、鉄塔やら電線やらの建造物が無い時代ですから、良く見えたのでしょうね。三浦軍も火など無駄に点けずに、淡々と石橋山へ向かえば良いものを・・・。等と考えながら、小田原・厚木道路から、車を国道1号を西に走らせます。

2.石橋山古戦場到着

山と海岸が迫っているところ、急に「石橋山古戦場⇒(こちら)」みたいな看板が現れ、急ぎ右折、数百m位坂を上ると、写真②のような石碑があり、無事古戦場に到着という感じです。(写真②)※地図はこのblogの最後にあります。

②石橋山古戦場の石碑

古戦場、意外と海が近いです。(写真③)
③古戦場から見える相模湾
3.佐奈田霊社

さて、石碑から少し登ったところに、「佐奈田霊社」があります。(写真④⑤)

④佐奈田霊社入口

⑤境内にある与一塚(佐奈田与一の塚)

霊社自体は、改修工事中でした。与一塚の奥の坂を下りて行きます。
もしかして、この斜面を俣野五郎と転げ落ちたのかな?(写真⑥)

⑥与一が俣野五郎と組討ち転がり落ちた坂?

そういう坂だとは看板等には全く説明が載っていませんが、この階段を下りきった所が、マイナー・史跡巡りにも載せている与一の討死の碑が建っている場所なのです。

4.ねじり畑

さて、ここで、マイナー・史跡巡りには書かなかった2つの伝説(?通説)をご紹介します。

1つは「ねじり畑」です。「マイナー・史跡巡り」に掲載している与一討死箇所の写真には、この言葉が写っています。

どうやらこれは、与一が俣野五郎と上になったり、下になったり、ねじれにねじれた取っ組み合いの後に、長尾新六に討ち取られてしまったので、与一のねじれた霊が、そこの畑で採れる野菜全てねじれるようにしてしまったというものです。(写真⑦)
⑦ここの畑で採れる野菜は全部ねじれると言うが・・・
しかし、写真⑦を見ると分かる通り、与一の討死した「ねじり畑」の箇所は、畑というよりは荒地になっていました。やはり、本当にねじれてしまうので、皆気味悪がって、ここでの野菜の生産は控えたのでしょうか?

ちなみに、20~30m程度離れた箇所では、写真⑧のように野菜を作っているようです。何か実っていれば検証できたのですが、残念ながら、まだ実りの季節ではないようです。(写真⑧)
⑧少し離れた箇所にはちゃんと畑がある

もう1つの通説は、ちょっと理解が難しいので「マイナー・史跡巡り」への掲載を控えたのですが、ここでは、そのまま話をします。

与一と俣野五郎が、組討ち、捻じれながらゴロゴロと斜面を2人で転がり落ちたのに気が付いた俣野五郎方の味方、長尾新六。俣野五郎の助太刀に、2人が組んでいるところに来ましたが、上になっている人が五郎なのか、はたまた下が五郎か?(絵⑨)
佐奈田与一
⑨俣野五郎景久を抑えつける佐奈田与一

暗闇の中の乱闘なので分かりません。新六大声で「五郎殿、助太刀致す!どちらが上か!」と怒鳴ります。

すると、咄嗟に与一が「上が五郎、下が与一!」と叫び返します。

それを聞いた俣野五郎が「ちがう!ちがう!上が与一、下が五郎!間違えるな!」と呼ぶのです。するとまた「いやいや、騙されるなよ!上が五郎、下が与一。」

新六は、俣野五郎の声を知らなかったのか、与一と五郎の声がよく似ていたのか、兎に角分からないので、ままよっ、えいっ!と刀を上の人に振ったところ、ビンゴ!

というお話です。

このお話の納得がいかない点は2つですね。

1つは、「マイナー史跡巡り」に書いた通り、痰が絡んで声が出なかった与一の話と、この話は矛盾します。

⑩オトコマエだった与一
もう1つは、もし新六が、与一の言い分を信じて、間違えて味方である俣野五郎を討ち取ってしまったら、どうなるでしょう?

イケメン・長身だった与一は、後世、特に江戸時代に歌舞伎の花形が演じる程のアイドル振り。しかも、頼朝公を身を挺して守った忠義に篤い漢(おとこ)。

このイメージが崩れませんか(笑)?
騙し討ちを与一がしたことになるのですから。(絵⑩)

5.文三堂

その一方で、与一の家来だった文三家安57歳は、残念ながら与一を救えなかったですねぇ。しかし、それを悔いた文三は8人も斬り倒して、壮絶な最期を遂げるというのが、やはり泣かせるのでしょうね。高齢にも係わらず8人ですよ!

凄いなあ。私も見習わないと(笑)。

なので、その功績を讃え、意外と立派な文三堂が建てられたのでしょう。(文三堂の写真はここをクリック

しかし、このお堂も、やはり石段の上にあります。やはりこのような急斜面では、高いところに建物を建てないと、雨等に流されちゃうのでしょうか。(写真⑪)
⑪石畳の先の文三堂
実は、途中私の杖の先に付いている方位磁石を落としまして、これらの石段を2往復しました。かなりドジです。

ねじり畑で見つかったのは良かったのですが、その後、写真⑥の佐奈田霊社石段を登るのは、もう疲れたので、そのまま、石段ではない坂道を歩いていますと、なんとすぐ横を東海道線が走っています。
(写真⑫)

⑫古戦場の横を走る東海道線と私の杖(先端部分ありました)

⑬艦砲射撃されやすそうな・・・
明治時代の昔、鉄道を海岸沿いに敷設しようとしたところ、軍隊からクレームがついたそうです。つまり、外国の艦砲射撃の対象になると。

その頃の輸送の主力は、やはり鉄道でしたし、東海道線なんて、日本の輸送の大動脈。

しかし、ここ石橋山では、箱根の外輪山が険しいので、艦砲射撃のリスクを甘んじてしか、敷設できなかったのかなあと思いながら、石橋山古戦場を後にして、次は、頼朝たちが隠れ潜んだ洞窟を目指して、車を走らせました。

お読みいただき、ありがとうございました。

---Blog「マイナー・史跡巡り」(三浦一族② ~石橋山合戦~)
http://tamaki39.blogspot.jp/2017/06/blog-post_18.html

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