「沼柵」での戦いは、清衡家衡(きよひら・いえひら)の勝利。秋田県特有の豪雪が強力な味方だったようです。
源義家(みなもとのよしいえ)は、この戦ほど惨めに負けたことは無かったようで、めちゃくちゃ悔しがったようです。
さて、その沼柵での敗戦における有名なエピソードに、この戦が納豆発祥の元となったというものがあります。(写真①)
①金沢公園にある「納豆発祥の地」の碑 |
この戦中、どのような経緯で納豆が発見されたのか?次のようになっています。
「マイナー・史跡巡り」でも描きましたように、「沼柵」を攻めあぐねた義家・清衡軍は、冬将軍が来るまで、この場所に停滞することになります。2m以上の豪雪と家衡らのゲリラ戦法により、義家らの本拠多賀城からの補給路は絶たれ、病人続出、戦闘続行は不可能な状況になりつつあります。(写真②)
②沼柵辺りの降雪 (横手公園スキー場から沼柵方面を臨む) |
この時、この食料不足をなんとかしなければならないと考えた義家の部下らは、近くの農民から食料の供出を頼みます。
しかし、ちょうどこの沼柵攻略時の出羽(秋田県)は凶作で、供出できるものと言ったら、大豆くらいしかありませんでした。
そこで、義家軍の兵士たちは、農民にその大豆で大量の煮豆を作らせます。
ところが、この供出作業中、また家衡らのゲリラ戦による食料補給妨害が始まってしまうのです。
時間がないので、焦った義家軍は、農民の作った煮豆を藁(わら)で作った俵に入れて、陣に戻ります。義家の軍は、源氏らしく馬が中心だったと「マイナー・史跡巡り」に書きましたが、この時もその俵を馬の背に負わせて、戦で盗られては叶わないと、全力で走り戻ったのでした。(絵③)
③馬の背に煮豆の俵を付けて陣中へ納める |
どうやら、逃げ帰る時に馬が汗をかいたせいで、煮豆を包んだ藁内の菌が増殖し、発酵したのでしょう。
「しょ、食料が皆腐っている!!」
義家軍はショックです。ただでさえ、補給が上手くいかないのに、現地調達した食料まで腐ってしまうとは、なんとお粗末な兵站計画。もうこの煮豆が食べられないのであれば、撤退しかありません。
でも腐っているなら仕方がありません。さっさと捨てましょうとばかりに俵を持ち上げたある兵士、俵から漏れてくる匂いを嗅ぐと、その悪臭で気分が悪くなるかと思いきや、なにやらこの匂いは、空きっ腹に美味いモノを期待させる良い香りなのです。
そこで、この兵士、恐る恐る中の煮豆を取り出して見ます。
やはり藁に糸を引く煮豆。これは完全に腐っているのでは??(写真④)
④藁に糸をひく煮豆 |
ええい、ままよ!とばかりに兵士が食べてみると、これが大変美味しく、腹も下さない。却って煮豆よりも複雑な美味であると、義家陣中でかなり評価の高い食料となりました。
供出した農民もこれに気付き、食用としたというものです。
ちなみに、義家の陣中に供出した、つまり「納(おさ)めた豆」ということで「納豆」という名前になったのだそうです。
◆ ◇ ◆ ◇
あれ?この話、30年以上前に民放TVの「まんが日本昔ばなし」で見た納豆発祥の話と少々違うなあと思って、当時のビデオを探しましたところありました。
以下の動画です。お時間のある方は是非ご覧ください。10分程度です。(お話「納豆」は動画開始10分40秒のところからです。その前は別の話ですのでご留意ください。)
もう一度見直しましたが、やはりこの中に出てくる戦は、後三年合戦のようでもありますね。
ただ、馬の背で汗をかいたから発酵して納豆になったという説ではなく、要領の悪いでくの坊が陣まで運搬したことと、夏場の暑さによるものという話になっており、この辺りが私の違和感となっていたようです。
どちらが正しいということは今となっては分かりませんが、煮豆が藁の中の納豆菌によって、単なる「腐敗(ふはい)」ではなくて、それと紙一重の「発酵(はっこう)」となった偶然や、兵士らが食料不足で追い詰められ、死ぬ気(?)で食べてみたことが、その後の私たちに至るまで納豆を美味しく頂けることの事始めとなったのは史実のようですね(笑)。
他にも納豆の発祥には諸説あります。一番有力なのが、弥生時代にぬくぬくと暖かい居住スペースで、敷いた藁に煮た大豆が落ちて、炉によって温まり、自然に発酵して納豆になったという説です。
また、聖徳太子が愛馬に与えていた煮豆の余ったものを「もったいない」と藁の間に隠しておいたら、発酵して美味しくなったので人々に伝えたというもの。
更には中国に同じような食品「鼓(シ)」という麴納豆があり、これが伝来したのだろうというもの、よく考えると京都の大徳寺納豆などは、まさにここから来たのかも知れません。
関西の納豆は上の聖徳太子の例も合わせ、今全国的に流通している写真④のようなタイプの納豆とは起源が違うかもしれませんね。(写真⑤)
⑤現在一般に流通している納豆 |
なので、この「和からし」を付けるのは、現代に入ってからの話で、カレーライスの「福神漬け」のようなものかくらいに考えていたのですが、実は江戸時代からの風習のようです。
納豆と言えば、その独特のネバネバ感もさることながら、独特の匂いがありますね。
先程の後三年合戦中では、その匂いを「良い匂い」と書きましたが、納豆が嫌いな方にはその匂いが苦手な方が多いのも事実です。
アンモニア臭が入っているからです。
ちなみにアンモニア臭は、炊いたばかりのご飯のお窯を開けた瞬間に立ち上る湯気にも沢山含まれており、私なぞはあの立ち上る湯気の匂いが大好きですが、これと同じということですね。
で、江戸時代には冷凍・包装技術が未達でしたので、夏は納豆のアンモニア臭が更にきつく、これを抑える必要があったのです。
そのためにカラシを入れたのが元々のはじまりです。
現代は技術の発達により、匂いは大分抑えられていますが、辛味が納豆の味を引き立てるということで、昔の習慣さながら「和からし」が同封されているということなのです。
◇ ◆ ◇ ◆
さて、長くなりましたが、もう少しお付き合いください。
この納豆発祥の石碑、なぜか金沢柵のある金沢公園内にあります。なぜ先に述べた発祥の戦場、沼柵ではないのか?
実は今更で恐縮ですが、この発祥伝説も、沼柵の戦説(いくさせつ)と、金沢柵の戦説があるのです。金沢柵の場合、煮豆を調達したのは、ここで日本史史上初めての兵糧攻めにあった家衡側が、近隣の農民からやっとの思いで、煮豆を調達できたのが、柵内で発酵し、兵糧が無く餓死寸前の家衡軍兵士が、ままよ!と食べたら美味しかったというもの、このような説もあるのです。
私は金沢柵の戦説の方が説得力があるなあと感じています。
ちなみに、金沢柵にある発祥記念碑にある「由来」には、どちらの説にもとれる形の記載となっています。(写真⑥)
⑥納豆発祥の碑に書かれた「由来」 |
それは、義家がこの後三年合戦後に、京都まで凱旋して帰る街道沿い(福島、茨城は水戸等)に納豆の産地が広がっている事だからとの解説がありました。
ただ、私が思うには、後世に源氏の天下となった時、義家は神格化されますから、納豆みたいに日本人のポピュラー商品の生みの親は、この軍神と言った方が通りが良いからというのが一番の理由のような気がしますが、如何でしょうか?
さて、お腹が空きました。朝飯は納豆しようと思います(笑)。
また最後までご精読いただき、ありがとうございました >^_^<。
---Blog中尊寺金色堂⑤ ~後三年合戦 その3~)