今、この楠木正成を描くにあたり、色々と資料を漁り、私のこの時代に関する知識を少しでも膨らまそうと努力しております(笑)。
特に日常生活の中で2つのことをしているのですが、それは
(1)吉川英治氏著の「私本太平記」の読破(写真①左)
(2)大河ドラマ「太平記」(1991年放送)の視聴(写真①右)
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①左:吉川英治著「私本太平記」 右:NHK大河ドラマ「太平記」 |
なのです。
ご存知のように、大河ドラマ「太平記」の原作は、吉川英治氏の「私本太平記」です。
主人公は、足利尊氏ですが、原作は小男でぶ男、大河ドラマは、この時最高人気の真田広之という設定の違いがあります(笑)。
これらの本やDVDを観ると、つい私も、今描いている楠木正成と同じくらい足利尊氏にも興味を持ってしまいます。
先日も、足利市とすぐ隣の新田義貞の所領・新田荘(にったのしょう)にも足を伸ばし、色々と見てきました。
ただ、足利尊氏については、足利市よりも鎌倉や京都の方が彼の痕跡は多いような気がします。
足利市ではあの有名な「足利学校」も見てきました。(写真②)
②足利市にあるメジャー史跡「足利学校」 |
それしかないの?と言われそうですが、ここ足利市には太平記の関連史跡はあまりありません。むしろ鎌倉時代から幕末まで続き、戦国時代に宣教師フランシスコ・ザビエルに「日本国中最も大にして最も有名な坂東のアカデミー(坂東の大学)」と記され、海外にまでその名が伝えられた「足利学校」の方を推している感じがします。
③鑁阿寺にある足利邸跡 |
④「太平記」で尊氏演じる真田広之が着ていた鎧兜 |
勿論足利学校は歴史的意義は重要すぎますので、メジャー史跡としていつかTsure-Tsureで別途描きたいと思います。
段々話が脱線して来ましたので、元に戻します。
冒頭に書きたい話しと切り出したのは長崎円喜(えんき)のことです。(写真⑤)
⑤今は亡きフランキー堺氏演じる長崎円喜 |
今は亡き、フランキー堺氏が演じるこの長崎円喜。大河ドラマでは非常に重要な役割を演じます。ところが、原作の「私本太平記」には殆ど出てこないのです。
となると、この人抜きにも話は進められるのか?
Wikiで調べると、長崎円喜については、以下のように書かれています。
【Wiki抜粋】
長崎氏は幕府の軍事・警察権を握る侍所所司、執事として得宗家家政の財政・行政・司法権を一族で掌握
~(中略)~
世襲によって侍所所司・内管領・寄合の三職を一家で独占したことで、それぞれの機関本来の職権以上の権力を行使し、鎌倉の政権を左右する権力を握ったのである。
これはすごい権力者ですね。得宗家とは、一番偉い北条家のことです。大河ドラマでは片岡鶴太郎氏が演じる北条高時がそれでした。(写真⑥)
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⑥得宗家 北条高時 |
なので、私は大河ドラマの長崎円喜の関わり方の方が、原作の「私本太平記」より、史実に近いのではないかと想像しています。
最近の大河ドラマとは逆の作りになっていませんか?
つまり最近の大河ドラマは原作に面白おかしく脚色するため、どうしても物語性が強く、史実から遠いところを描いてしまう傾向にあるような気がします。(勿論、史実ではない ということではありません。史実と史実の不明である間の捉え方・描き方が面白おかしく大胆になるということですね。)
一方、大河ドラマ「太平記」では、あちこちの場面が、原作「私本太平記」のシーンを取り入れながらも、この長崎円喜の史実に基づく出番を新たに取り込みながら、話しが変えられているのです。
それがあまりに上手なので、原作を読んでいる私ですら、まったく不自然さを感じることが無いのです。原作には無い、長崎円喜が係わる重要な歴史的イベントを、原作の中で、吉川英治氏が描写した場面を上手く使い、脚色しています。
「ああ、(原作の)この場面を、ここで使っているのかあ!上手だなあ。」
と何度かドラマを見ながら呟きました(笑)。
知らなかったのですが、この大河ドラマ、平均視聴率が26.0%で最高が34.6%と視聴率も高いだけでなく、既に終了から30年近く経っても、多くの大河ドラマファンの間で最高傑作との高い評価なのです。
◆ ◇ ◆ ◇
でもどうして、吉川英治氏程の歴史小説家が、当時の実力者である長崎円喜を小説で描いていないのか、について考察してみたいと思います。
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⑦吉川英治氏(Wikiから) 昭和14年(1939年) |
私も読んだ「宮本武蔵」の印象が強かったので吉川英治氏は、戦前作家であるとの印象が、この「私本太平記」を読むまでありました。(写真⑦)
「マイナー・史跡巡り」のBlogの冒頭にも書いたのですが、戦前の皇国史観の中では、足利尊氏は「悪」、後醍醐天皇に味方し殉死した楠木正成は正義というものがあります。
なので、「私本太平記」を読み始めて、吉川英治氏がこの「悪」の足利尊氏を主人公にしていることに私は「ほぉ」と感心しました。
また歴史上、楠木正成が後醍醐天皇に召喚された時の話の下りが、
「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と、正成は、宮方軍につくことを快諾した。
という通説に対して吉川英治氏は、後醍醐天皇からの召喚を正成は2回も辞したとしています。私はこの吉川英治氏の皇国史観とは違う見方の書き方に、また少々驚きを感じたのです。
調べると、この「私本太平記」は1958年から吉川英治氏が亡くなる前年1961年までに書かれた彼の晩年の大作です。つまり戦後かなり経ち、皇国史観に囚われる必要もなかった吉川英治氏は純粋に人間臭い「太平記」を描きたかったのでしょう。もちろん、戦前は「悪」とされていた足利尊氏を主人公として描いたこの小説は、当時ある意味センセーショナルなものだったのかもしれません。
ただ、太平記そのものは昔からあったものの、戦後まで長いこと「悪」とされた足利尊氏を取り巻く詳細な歴史学的研究は進んでいなかったのではないでしょうか?また吉川英治氏も晩年で体調不良等も起こし、そう言った観点から、鎌倉幕府側の裏の有力者・長崎円喜の幕末の関わりや、足利尊氏との関わり等の史実を描き切る材料も気力も不足していた時だったように感じます。
逆に1991年に制作された大河ドラマでは、そのあたりを歴史学者監修の基、徹底的に解明し、かといって吉川英治氏の原作の面白さを損なわないよう工夫されたことが、この大河ドラマを最高傑作にした1つの成功要因ではないかと思います。
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⑧左:皇居前にある楠木正成像 右:湊川神社付近にある正成像 |
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⑨新田義貞像(分倍河原駅前) |
ただ、皇居の前の楠木正成や湊川神社付近にある正成の銅像が写真⑧のように勇猛果敢、ついでにもう1人の鎌倉幕府を倒した功労者・新田義貞の分倍河原駅前にある銅像も写真➈のように勇猛果敢なのに対して、足利尊氏の銅像は、侍大将らが持つ勇猛果敢な雰囲気ではなく、どちらかというと、上から目線(?)の官僚のような雰囲気があります。(写真⑩)
鎌倉幕府を倒し、新しい時代を切り開いたという観点では、楠木正成や新田義貞と同等、いやそれ以上だった足利尊氏が、このような官僚姿というのは、どうなのでしょう?まだ、やはり「悪」のイメージが彼に残っている証左なのでしょうか?
そんなことを勝手に妄想しながら、足利市を後にした私でした。
⑩足利尊氏像(足利市) |
ご精読ありがとうございます。
【足利学校】〒326-0813 栃木県足利市昌平町2338
【鑁阿寺】〒326-0803 栃木県足利市家富町2220
【足利尊氏像】〒326-0812 栃木県足利市大門通2376
【新田義貞像】〒183-0021 東京都府中市片町3丁目26−29−2