「江の島の弁財天で頼朝が奥州藤原氏の調伏(呪いをかけること)を祈願した」という話を聞き、直ぐ「よし、江の島の弁財天を見なければ!」と張り切って出かけることにしました。
免許取り立ての娘に運転練習と称し、無理やり同行させ家を出発し、途中怖い場面もありましたが、約1時間後に無事到着することができました。
行きの途中なのですが、江の島に注ぐ柏尾川(かしおがわ)沿い、東海道線の大船駅の近くに「長尾台」という土地があります。(写真①)
①長尾台 ※柏尾川が写真左側を流れている |
以前、このBlogでも取り上げました「御霊神社」がここにもあり、長尾氏の先祖はこのBlogでも書いた鎌倉権五郎景正に通じているようです。(Blogはこちらをクリック)
鎌倉時代に一度長尾氏は滅びているのですが、上杉家の家老格として長尾家は室町時代に復活、その末裔である長尾景虎が越後の地で返り咲いて上杉謙信になり、幕末まで米沢にて家が続くのですから、何気ない住宅街であるこの場所も、感慨深い土地なのですね。
長尾景虎もそうですが、鎌倉景正の「景」という文字が通字(とおりじ)として長尾家には引き継がれているようです。
さらに余談ですが、この近くの「大船」という地名も、この写真左側を流れる柏尾川の氾濫原で、当時は比較的大きな船がこの辺りまで入り込めたことに由来するようです。(地図②)
②大船や長尾台は地図右上の 「柏尾川」と書かれている辺り |
写真③は今年の台風の時期のこの辺りを撮った写真をWebからお借りしましたが、柏尾川もこんなに川幅が拡がるのですね。今のように治水が発達していない昔なら簡単に氾濫したのでしょう。(写真③)
③氾濫しそうな柏尾川 |
◆ ◇ ◆ ◇
脱線しまくりました。先を急ぎましょう。
この柏尾川に沿って海まで下り、川と波が作ったトンボロの上の橋を渡ると江の島に到着です。(写真④)
④江の島へのトンボロとその上の橋 ※江の島側から写しています |
ここは私が物心ついた頃から変わっていませんね(笑)。(一番下のマップも参照)
⑤江の島「青銅の鳥居」 |
⑥ハマグリラーメン |
以前「マイナー・史跡巡り」でも、北条一族の「ミツウロコ」については、北条氏康の馬標(ここをクリック)として紹介しました。(「三増峠の戦い③ ~信玄の山岳戦~」もご笑覧ください。ここをクリック)
⑦仲見世のあちこちにミツウロコが・・・ |
⑧朱の鳥居 |
この鳥居の奥に見える建物が瑞心門(すいしんもん)をくぐり、階段を上り、上から再びこの門を見ました。(写真⑨、マップ)
⑨瑞心門 |
さて、この階段を上り着ると、江の島の中核である辺津宮に到着します。(写真⑩、マップ)
⑩辺津宮 |
一体、どうして江の島にはミツウロコが多いのでしょうか?
それはこういう理由からだそうです。
1190年、平家を倒し、これから幕府を開く時に、頼朝の後見人であった北条時政が、江の島の岩屋に参詣しました。
海の平家と言われた平家を倒せたのは、一重に水神である弁財天のお蔭と感謝の意を顕すと同時に、この後の北条家の繁栄を祈願していると、例の弁財天が現れ、時政の願いを聞き入れたと伝えたそうなのです。(絵⑪)
⑪北条時政の前に現れた弁財天 左:歌川国貞 右:月岡芳年 |
⑫江島神社社紋 これが北条家紋の原型 |
これが後々北条家の紋として有名となるミツウロコの発祥伝説です。鎌倉時代の執権北条氏もそうですが、戦国時代の幕開け期の北条早雲から始まる、後北条五代でもこのミツウロコが使われ続け、関東のあちこちの寺院等で多く見られるこの家紋は、江の島が発祥だったのです。(図⑫)
長くなりましたので、弁天堂や頼朝の建てた鳥居、トンボロ等については、シリーズの次回にお話したいと思います。
お読み頂きありがとうございました。
←大船の北側・長尾台の地図
順に「2.青銅の鳥居」⇒「4.朱の鳥居」⇒ 「5.瑞心門」⇒「10.辺津宮」まで来ました。 |