少々体調を崩しまして、寝てばかりの正月です(笑)。
年末・年始の食べ過ぎ、飲みすぎの重い体を少しでも動かさなければと思い、近所のスーパー「いなげや」に買い出し、ついでに初詣ということで、何の予習もなしに来たのが、「白幡八幡大神」です。(写真①)
①白幡八幡本殿 |
しかし、なーんもこの神社、由緒に関する看板が立っておらず、写真②のように「平(たいら)地区の氏神様となります。」とあるだけ・・・・唖然((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル(写真②)
②非常に簡素な説明看板 |
源氏の象徴旗である白幡の大神ですよ!!そして地区の名前が平(たいら)、これで何も無い訳ないでしょう!?(笑)
と、買い出しから帰り、Wikiで調べると、やはりありますねー(笑)。
世間の神社は、どうしてこういう歴史を自社の看板として建てないのでしょうか?大方の人は興味がないから?宗教と由来は別問題だから?
少々哀しくなります。マイナーでも、立派な史跡なのですから、やはり建てた時の歴史を看板でも石碑でもいいので、語って欲しいですよね。
今回訪ねたこの史跡は、前九年の役と関係が深いようです。源頼義(よりよし)です。(絵③)
③酒を酌み交わす源頼義 ※拙著blog「かわらけ」の中の写真⑦の抜粋 |
詳細は是非、拙著Blogの「前九年の役」をお読みください。息子の義家(よしいえ)が後三年合戦を起します。また義家はこの前九年の役の時、18歳で頼義の負け戦の時に鬼神の活躍をし、後に軍神としてのレジェンドを作り上げます。
また、源頼朝(よりとも)も、奥州合戦で奥州藤原氏4代目の泰衡の首を八寸釘で打ち付ける所作は、頼義が前九年の役で安倍頼時に対して施した故事に倣ったとされています。つまり頼義は、奥州王国と源氏との100年以上に渡る確執の端緒を切った漢(おとこ)なのです。
で、この頼義が鶴岡八幡宮に、この奥州征伐について戦勝祈願をしました。
そして鶴岡八幡宮から10里(約40㎞)毎に幣(ヌサ)を地に突き刺して仙台にある多賀城入城を果たしたようです。
幣はご神体を顕すとしています。良く家を建てる時に、地鎮祭の時に見かけます。(写真④)
④幣(ヌサ) |
この白幡神社の建立の1つの説に、1056年にこの頼義が幣を刺したところに、133年後の奥州合戦の時に頼朝が神社を建てたというものがあります。『新編武蔵風土記稿』
私は、この説を支持したいですね。というのは拙著blogでも書きました通り、頼朝は100年以上前の前九年と後三年を徹底的に研究し尽して、ご先祖、頼義・義家が完全には倒せなかった奥州王国を完全に潰そうとしたのです。そして、この2人のご先祖が実施したこと以上の事を全てにおいて実施しようとした行動パターンが見られるのです。(詳細はこちらを参照)
そう考えると、頼義が幣を刺して簡易に神様を奉る場所に、頼朝はちゃんと神社を建てて頼義らよりも、しっかりと奥州討伐をしたいと考えてもおかしくないと思いませんか?(写真⑤)
⑤白幡八幡大神の看板 |
あと、写真④の看板上部に「稲毛惣社」と書かれているのが分かりますか?
この稲毛が、初詣前に私が買い物をしたとお話した、スーパー「いなげや」と関係が深いのです。(写真⑥)
⑥いなげや ※小金井本町店 |
稲毛氏は、生田緑地にある升形城の主なのですが、長くなりますので、また別のTsure-Tsure特集とさせて頂きたいと存じます。
もし、皆さまの廻りにも「村の鎮守です。」とか、「地区の氏神です。」としか書かれていないような神社・仏閣があれば、是非史実を掘り返してみてください。
すると意外と歴史のメインストリームと繋がっている場合があります。今回もそうですが、それらが見つかると、まるでダイヤの原石を見つけたように嬉しいものですよ。
是非、この初詣の時期に、近所の初詣先についてちょっと調べてみませんか?
最後までお読み頂き、ありがとうございました!!