つれつれ鎌倉② ~足利尊氏の墓所・長寿寺~

①今回の鎌倉散歩

前回お話をしました東慶寺を後にした私は、次に長寿寺に向かいました。

このお寺も大きな道・県道21号線沿いにあります。(地図①

1.足利尊氏の屋敷跡だった長寿寺

この県道21号線というのは、北鎌倉から建長寺前の鎌倉学園前を通ってトンネルを抜け鶴岡八幡宮へ行く有名な道路です。私も子供の頃から良く使う道でした。

長寿寺の前も何度も行き来しているはずなのですが、改めてここが足利尊氏とゆかりの深いお寺であると言われると「へー、そうだったんだ!」と感じてしまいます(笑)。

鎌倉はそのような場所が多いですね。つまり、興味を持って見直すと歴史上非常に重要な史跡なのですが、興味がないとタダのお寺にしか見えません(笑)。

奥が深いです。鎌倉は。

さて、その長寿寺、21号線の道から向かって右手の石段を登ったところに山門があります。(写真②
②石段を上ると山門があり、奥に境内が広がっている

境内はかなり広いです。(写真③
③境内(奥が先程の山門)
長寿寺の解説が書かれた看板には、足利尊氏の邸宅跡にこのお寺を造ったとあります。

あれ?ここは鎌倉ので、足利家代々の屋敷って鎌倉からにあるのでは?と、先日仲間と一緒に行った時の写真を探します。(写真④
④鎌倉の東にある足利公方邸の石碑
写真④の石碑には「頼朝公が幕府を開いてから二百数十年ここに足利氏の屋敷があった」と書かれております。1192年あたりから建武の新政1333年は141年間ですから、鎌倉時代~室町時代ずっとここ写真④の場所に足利邸はあったはずです。ちなみに石碑には尊氏やその子義詮(よしあきら)、基氏(もとうじ)もここに棲んだとの記載があります(笑)。

これはどういうことでしょうか?Webを色々調べましたが、なかなか明確な答えが見つからないので想像するしかないのですが、どうやらヒントは地図①に書いていました。

地図①の上の方に赤字で「山ノ内」、下の方に、この後向かった「扇ガ谷(おうぎがやつ)」と書いてあります。この2つの地名を見て思い出す方も多いと思います。

「山ノ内上杉」と「扇ガ谷上杉」。

この長寿寺の辺りを挟んで、両上杉家の鎌倉屋敷があったのです。

尊氏の母、清子は京都の上杉家から足利家へ嫁いできた関係もあり、足利尊氏の室町幕府創建に貢献度の高かった上杉家をそれ以降足利家は、関東における非常に重要な地位・関東管領にするのです。

そして、その上杉家、鎌倉では本家が「山ノ内」、分家が「扇ガ谷」と地図のような近距離に大きな勢力を占め、ずっと後、戦国時代初期に扇ガ谷上杉の執事である有名な太田道灌をも巻き込み、この2家の争いは絶えませんでした。そこに伊勢新九郎こと北条早雲を始めとする後北条氏が付け入り、最後は上杉謙信にその家名を譲るところまでいってしまうのです。

駆け足で室町時代の上杉家の話をしちゃいましたが、その室町時代初期の上杉家、足利尊氏が幕府に反旗を翻した時にも大活躍する上杉憲顕(うえすぎ のりあき)は山ノ内上杉の始祖です。

このように母親の実家であり、強力な後援者である上杉氏の近くに足利尊氏の屋敷が、もう1つあってもおかしくはないのかなと思うのですが、如何でしょうか?

2.足利尊氏のお墓

本堂には通称「二つ両引」と呼ばれる足利氏の家紋付きのお賽銭箱があります。(写真⑤
⑤長寿寺本堂
写真⑤右側の像が足利尊氏像ですね。

ちなみに足利尊氏の法名は良く「等持院(とうじいん)殿」と呼ばれることが多いのは有名です。これは足利氏の京都の菩提寺が等持院であり、ここに尊氏のお墓があるからです。(写真⑥
⑥京都・等持院
(足利氏の菩提寺・尊氏のお墓がある)
逆に鎌倉では尊氏の法名を長寿寺殿と呼ぶと、看板には書いてありましたが、等持院殿ほどは知られていないような・・・。

長寿寺を開いたのは足利尊氏ですが、後、嫡子・足利義詮が尊氏の後継者として京都へ行ってしまった後を任された弟・基氏が、父・尊氏を偲んで、このお寺を大きくしたのだそうです。

等持院、長寿寺、両寺とも法名がありますから、勿論尊氏のお墓もあります。
写真⑦はこの長寿寺にある尊氏のお墓です。(写真⑦
⑦長寿寺にある足利尊氏のお墓
鎌倉らしく、大きなやぐらにあります
⑧柵の中に入れませんので望遠で撮影
かなり不安定な石積みですね
ちょうど先程の山門にいらしたお坊さんに尊氏のお墓について質問しました。



「足利尊氏殿のお墓は京都にもありますが、分骨されたのでしょうか?」
「いえ、こちらのお墓は、尊氏殿の遺髪だけです。」

京都・等持院はお骨、鎌倉・長寿寺は遺髪ということですね。

ちなみに、京都・等持院の足利尊氏のお墓も、この一週間後に行ってきましたので以下に写真を掲載します。(写真➈
➈京都・等持院にある足利尊氏のお墓
京都のお墓は生垣に囲まれ、小奇麗な感じです。後に足利義満が「花の御所」を設立したのと関係があるのでしょうか?

鎌倉は鎌倉らしく男性的なやぐら、京都は生垣、とその土地その土地にあった特徴がありますが、両お墓とも気になったことが1つあります。

それは
「一時代を築き上げた初代将軍のお墓としては、非常に地味ではないか」
ということです。

少なくとも後世多少手が入ったにせよ、鎌倉時代を築いた初代将軍・源頼朝のお墓や、江戸時代を築いた初代将軍・徳川家康のお墓はもっと立派です。廻りから奉られたという印象を強く受けます。(写真⑩
⑩左:源頼朝のお墓 右:久能山東照宮にある徳川家康のお墓
この辺り、後世の人々から足利尊氏があまり良い印象を受けていないということの現れだったりしないでしょうか?

南朝・北朝の話もありますが、尊氏は恩がある北条一族を裏切ったこと、特に北条得宗家である高時には恨みもあるのでしょうが、尊氏の正室・登子のお兄さん・赤橋守時(北条守時)は、義兄ですし恩義もあります。世の趨勢とは言え、裏切るという行為自体がやはり武士道として如何なものか?と評されたのではないかと妄想します。

また尊氏の弟・直義の暗殺、息子・直冬との確執など、やはり忠義や仁といった後世の朱子学的な価値観からは、積極的に理解してあげようという雰囲気は醸成されなかったのではないでしょうか?

現代であれば足利尊氏は、幕府再建という観点で戦略的な動きをした、大局観があると高く評価されそうな人物なのです。吉川英治氏の作品「私本太平記」あたりから尊氏について見直されるようになりました。しかし、江戸時代までの武士道はビジネスとはちょっと違う観点なのでしょう。

その点、同時代を生きながら尊氏のように組織は築けませんでしたが、それでも戦術と忠義という観点でピカ一だった武将・楠木正成については、非常に評価が高いです。ちなみに楠木正成の墓については、神戸にある湊川神社のお墓を写真⑪に掲載します。
⑪屋根付きの楠木正成のお墓(神戸・湊川神社)
「嗚呼忠臣楠子墓」(ああ天皇家に対するすばらしい忠臣だ!楠木正成公は!)

と墓石に揮毫したのは、水戸黄門こと水戸光圀です。彼が編纂した「大日本史」は以降の皇国史観の基(もとい)、また現代の日本史の基礎となったことは有名ですが、その光圀からも絶賛された楠木正成でした。(現在拙著「マイナー・史跡巡り」の方で楠木正成について書き連ねておりますので、そちらもご笑覧いただければ嬉しいです。)

楠木正成のお墓、源頼朝や徳川家康に比肩するほど立派に見えませんか?

3.亀ケ谷坂

さて、長寿寺の通用門から出て、扇ガ谷に向かいます。(地図①参照

「山ノ内」と「扇ガ谷」を結ぶこの道。大きな坂となっています。亀ケ谷坂と呼びます。(写真⑫
⑫亀ケ谷坂
鎌倉特有の切通しで、車は侵入できないようになっているこの坂、先程お話した山ノ内上杉と扇ガ谷上杉が行き来した頃の雰囲気を残しているのだろうなあと思いながら歩きました。

すみません。紙面が無くなりました。続きはまた次回描きます。

長文ご精読ありがとうございました。

《長寿寺の公開時期について》
鎌倉に住むFacebook友達から指摘がありましたが、長寿寺は常に公開している訳ではありません。春と秋に期間限定で公開しており、それ以外は山門すら閉まっているとのことです。ご訪問の際にはWeb等で公開しているかどうかご確認の上、お出かけください。

【長寿寺】〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内1520