《青砥橋》
もうすぐ集合場所の鎌倉宮だなと思い、車を走らせていると、「青砥橋」という名前が視界にちらっと入ってきました。(写真①)
①青砥橋 |
もしかして、この橋が、小学生の頃、逸話を聞いた有名な橋???
慌てて路駐し、その橋に駆け寄りました。
駆け寄ってよく見ると、その橋には大変失礼な言い方ですが、何の変哲もない、我が家の近所にもありそうな橋です。(写真②)
実際、近くに石碑があったので確認すると、写真②の橋が、逸話としてメジャーなあの「青砥の10文銭」の史跡であることが確信できました。(写真③)
《青砥の10文銭》
逸話「青砥の10文銭」のおさらいをします。
今から800年前の13世紀のちょうど真ん中頃、鎌倉時代中期・第5代執権北条時頼(ときより)の鎌倉幕府に、青砥藤綱(あおとふじつな)という賢い御家人が居ました。
青砥藤綱は非常に優秀な官吏で、権威に全く捉われない公平なものの見方が有名でした。
その彼が、家の近くを流れる滑川(なめかわ)で10文銭を落としました。
政所(まんどころ)での執務の帰り道、もうとっぷりと日が暮れていた時の遺失事故です。
彼は従者に松明(たいまつ)を購入させ、その明かりの元、滑川に落とした10文銭を探したのです。(絵④)
その松明(たいまつ)購入に掛かったコストが50文。
この話を聞いた世間の人たちは噂をします。
「10文探すのに、50文出すとは、損な話ですの。」
この人々のうわさを同僚から聞いた青砥藤綱は、笑いながら言います。
「確かに青砥個人としては40文の損だ。ただ、掛かった50文の代金は、その後天下の回り物になる。更に見つかった10文もまた、天下の回り物となる。つまり天下から見ると、今回の件で60文も回り物となっており、公(おおやけ)には1文たりとも損をしていない訳だ。」
「これを探さず遺失したままでは、青砥個人としても、公の天下としても10文の損をしたことになる。」
有名なこの話、松明買わずに、翌日明るくなってから探せばいいやんという素朴な疑問を持たれる方用に、50文は松明代ではなくて、川に入って探す人足代であったというストーリーもあります(笑)。
しかし、ひねくれものの私は、更にこれも「翌朝、人足雇わず自分で探して見つければ、10文は10文のままで個人的にも天下的にも損しないのでは?」
と青砥橋の上から、この小さな滑川を見ていて思いましたが、そういうけち臭い突っ込みはどうでも良いことなのでしょう(笑)。(写真⑤)
結局、金銭の多寡は関係なく、大局観を持った大物の考えることは違うという意味合いで、この話は語り継がれて来た次第です。
《現代の青砥藤綱はいないのか》
さて、この10文銭事件、これだけリアリティのある青砥橋から落した滑川を眺めていると、ついつい現代のリアルではないサイバーの世界を考えてしまいました。
そう、580億円以上が、コインチェック社から20分以内に送金されたという仮想通貨不正送金事件です。
青砥藤綱、江戸時代以降、大岡越前守と並んで高く評された正義感のある官吏が、現代に居たら、この事件にどう対処するでしょうか?
彼の10文銭とは規模感が全然違いますが、お金はお金です。
きっと彼のことですから、10文銭(580億円)を滑川(ネット)から、すくい上げるのに、5倍の50文(2900億円!)を使ってでも、やるのでしょう。
「580億円をネットの水底に沈めておくわけには行かない!」という信念の基に、2900億円のコストを掛けるくらい気概のある現代の青砥藤岡さんはいらっしゃらないのでしょうか?
このようなマイナー史跡でも色々考えさせられるとは、さすが鎌倉は奥が深いと関心しながら、路駐の車に改めて乗り込み、皆が集まる鎌倉宮へと走らせました。
《おまけ》
鎌倉宮で、無事皆と合流できた私ですが、鎌倉宮では、写真⑥のように、皆さまのワンちゃんを預かって、境内に入らず待っていました。
既に私は見ている鎌倉宮のある有名なものを、なるべく多くの人に見てもらいたいので、この写真⑥状態でその人達が見て帰ってくるのを待っているのです。
その見てもらいたいものは、下記のBlogリンクにありますので、宜しかったらご笑覧ください(笑)。
今回も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
《重要な訂正》
すみません。この紀行文から1年以上経って分かったのですが、上記青砥橋で10文を落とした訳ではなかったです。落とした場所は同じ滑川でも、もっと下流の鶴岡八幡宮に近い、宝戒寺前の橋でした。(写真⑦)
2019年4月29日に、この橋の先にある宝戒寺や東勝寺跡に、滅びた北条一族(特に高時)の最期の場所を見に行く途中に偶然に見つけました。(写真⑧)
この場所の川底は、上記写真⑤の箇所の川底よりもう少し浅くて堅そうです。こっちの川底の方が落とした10文くらい簡単に見つけられそうなものですが・・・。
当時はまた滑川も違ったのでしょうね。(写真➈)
いやあ、となると写真①②の青砥橋は、単に写真③の青砥の屋敷に掛かる橋というだけで、10文銭落とした橋ではないのですよ。私がすっかり上記文章にもありますように「青砥の家の近くを流れる滑川で十文を落とした」と記載があるので、家の横の滑川に掛かる橋と勘違いした次第です。早とちりでした。
重ねて申し訳ありません。
ということで、最後はこの10文落とした橋の上で玉木懺悔の写真で締めたいと思います。
(写真⑩)
この橋の名前は「東勝寺橋」でした。
ご精読ありがとうございました。
慌てて路駐し、その橋に駆け寄りました。
駆け寄ってよく見ると、その橋には大変失礼な言い方ですが、何の変哲もない、我が家の近所にもありそうな橋です。(写真②)
②10m程度の何の変哲もない橋 ※橋の左側にゴミの日用のネットも置いてある(笑) |
実際、近くに石碑があったので確認すると、写真②の橋が、逸話としてメジャーなあの「青砥の10文銭」の史跡であることが確信できました。(写真③)
③青砥橋を渡った直ぐのところに 立つ「青砥藤綱邸史蹟」 |
《青砥の10文銭》
逸話「青砥の10文銭」のおさらいをします。
今から800年前の13世紀のちょうど真ん中頃、鎌倉時代中期・第5代執権北条時頼(ときより)の鎌倉幕府に、青砥藤綱(あおとふじつな)という賢い御家人が居ました。
青砥藤綱は非常に優秀な官吏で、権威に全く捉われない公平なものの見方が有名でした。
その彼が、家の近くを流れる滑川(なめかわ)で10文銭を落としました。
政所(まんどころ)での執務の帰り道、もうとっぷりと日が暮れていた時の遺失事故です。
彼は従者に松明(たいまつ)を購入させ、その明かりの元、滑川に落とした10文銭を探したのです。(絵④)
④滑川で10文銭を探させる青砥藤綱 ※50文で買った松明を持っています |
その松明(たいまつ)購入に掛かったコストが50文。
この話を聞いた世間の人たちは噂をします。
「10文探すのに、50文出すとは、損な話ですの。」
この人々のうわさを同僚から聞いた青砥藤綱は、笑いながら言います。
「確かに青砥個人としては40文の損だ。ただ、掛かった50文の代金は、その後天下の回り物になる。更に見つかった10文もまた、天下の回り物となる。つまり天下から見ると、今回の件で60文も回り物となっており、公(おおやけ)には1文たりとも損をしていない訳だ。」
「これを探さず遺失したままでは、青砥個人としても、公の天下としても10文の損をしたことになる。」
有名なこの話、松明買わずに、翌日明るくなってから探せばいいやんという素朴な疑問を持たれる方用に、50文は松明代ではなくて、川に入って探す人足代であったというストーリーもあります(笑)。
しかし、ひねくれものの私は、更にこれも「翌朝、人足雇わず自分で探して見つければ、10文は10文のままで個人的にも天下的にも損しないのでは?」
と青砥橋の上から、この小さな滑川を見ていて思いましたが、そういうけち臭い突っ込みはどうでも良いことなのでしょう(笑)。(写真⑤)
⑤青砥橋から滑川水面を見る |
《現代の青砥藤綱はいないのか》
さて、この10文銭事件、これだけリアリティのある青砥橋から落した滑川を眺めていると、ついつい現代のリアルではないサイバーの世界を考えてしまいました。
そう、580億円以上が、コインチェック社から20分以内に送金されたという仮想通貨不正送金事件です。
青砥藤綱、江戸時代以降、大岡越前守と並んで高く評された正義感のある官吏が、現代に居たら、この事件にどう対処するでしょうか?
彼の10文銭とは規模感が全然違いますが、お金はお金です。
きっと彼のことですから、10文銭(580億円)を滑川(ネット)から、すくい上げるのに、5倍の50文(2900億円!)を使ってでも、やるのでしょう。
「580億円をネットの水底に沈めておくわけには行かない!」という信念の基に、2900億円のコストを掛けるくらい気概のある現代の青砥藤岡さんはいらっしゃらないのでしょうか?
このようなマイナー史跡でも色々考えさせられるとは、さすが鎌倉は奥が深いと関心しながら、路駐の車に改めて乗り込み、皆が集まる鎌倉宮へと走らせました。
《おまけ》
鎌倉宮で、無事皆と合流できた私ですが、鎌倉宮では、写真⑥のように、皆さまのワンちゃんを預かって、境内に入らず待っていました。
⑥ワンちゃんと鎌倉宮の入口で待つ筆者 |
その見てもらいたいものは、下記のBlogリンクにありますので、宜しかったらご笑覧ください(笑)。
今回も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
《重要な訂正》
すみません。この紀行文から1年以上経って分かったのですが、上記青砥橋で10文を落とした訳ではなかったです。落とした場所は同じ滑川でも、もっと下流の鶴岡八幡宮に近い、宝戒寺前の橋でした。(写真⑦)
⑦青砥が10文を落とした箇所にかかる橋※当時はアーチではないです(笑) |
⑧上記橋のよこにある石碑 ※やはり青砥の十文銭も「太平記」にある逸話なのですね。 |
当時はまた滑川も違ったのでしょうね。(写真➈)
➈10文落としたあたりの滑川の底 ※随分と浅くまた堅そうです。 |
重ねて申し訳ありません。
ということで、最後はこの10文落とした橋の上で玉木懺悔の写真で締めたいと思います。
(写真⑩)
⑩10文の代わりに信用を落としながらも 仲間との鎌倉を楽しんでいる著者 |
ご精読ありがとうございました。