頼朝杉① ~文覚と千葉山・智満寺~

今回のテーマ「頼朝杉」は、史跡巡りに歴史物語を加えるいつもの書き方に加え、史実の謎解きの要素を加えてみたいと思います。

お付き合いいただければ嬉しいです。

とりあげるテーマの「頼朝杉」。高さ36m、幹の周りは9.7mという堂々たる杉の樹で、樹齢800~1200年の国指定天然記念物でした(写真①)

①頼朝杉(8年前)

この大杉は、静岡県は島田市から車で30分以上かかる山奥のお寺にありました。

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島田市と言えば、女性の日本髪の代表・島田髷が有名です。(絵②)

②島田髷
この島田髷の始まりも、この頼朝杉が植えられたと想定される時代に近く、関係があるのかもしれません。

今後、調査が進む過程で、この島田髷の起源についても取り上げたいと思います。

鎌倉時代初期の敵討ちで頼朝暗殺未遂説で有名な曾我兄弟と関係があるようなのです。

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話を戻します。
まずはこの「頼朝杉」とはどのような杉なのかを調査するために、この杉のあったお寺に向かうことにしました。

関係者と島田駅で待ち合わせ、車で北に向かうこと30分。車一台分の幅しかない林道のような道が続きます。対向車とのすれ違い等に苦労しながら、山奥のお寺に到着しました。

お寺の名前は「千葉山・智満寺(ちまんじ)」(写真③)

③千葉山・智満寺入口

今時珍しい、総茅葺屋根のお寺です。(360°写真④)

 ④智満寺境内(360°写真)

このお寺の「千葉山」は、あの千葉県の「千葉」なのです。静岡県にあってなんで千葉(笑)?

「頼朝」、「千葉」とくれば、

ーおっ、頼朝挙兵時の石橋山合戦で負けた後、房総半島へ渡った時に、千葉 常胤(ちば つねたね)を頼りにしたというあの「千葉」か?-

と思われる方いらっしゃるでしょう。そこまでイメージを膨らませながら読まれた方は、素晴らしい歴史通ですね。

まだ詳細はお話しませんが、そのお話も、このシリーズで順々にさせていただければと存じます。思わせぶりでごめんなさい。

頼朝杉、8年前の平成24年9月2日、空洞化した根本から倒れてしまいました。(写真⑤)

⑤空洞部分から倒れた頼朝杉の残幹

ご住職のお話によると、嵐の夜中に轟音とともに倒れたのだそうです。もちろん、樹齢800年以上の老木だったため20年前からその懸念を予測していたのです。

この時、不幸中の幸いだったことがあります。

元々、頼朝杉は薬師堂の上に覆い被さる姿に迫力を感じる人が多かったようで、倒れると県指定文化財の薬師堂が破壊されてしまうと、皆心配していたのです。(写真⑥)

⑥薬師堂の上に覆い被さる頼朝杉(8年前)

ところがこの時、なぜか奇跡的に薬師堂を外れて倒れ、お堂は無事だったとのことでした。(写真⑦)

⑦現在の頼朝杉と薬師堂
写真右上に頼朝杉の残幹

この頼朝杉ですが、なぜ頼朝の名前がついているのでしょうか?

怪僧・文覚(もんがく)が関係しているようです。
まずは、その経緯をこのシリーズで複数回にわたり、書いていきたいと思います。

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頼朝が伊豆に流されている時、平清盛に殺された頼朝の父・義朝(よしとも)の髑髏(どくろ)を首から下げ、平家打倒を進めた怪僧・文覚をご存知の方も多いと思います。

私も弁財天を江の島に勧請した後、奥州藤原氏3代目の秀衡(ひでひら)の調伏祈願をする文覚を「義経と奥州藤原氏の滅亡② ~江の島~」で書きました。(絵⑧)

⑧秀衡調伏祈願をする文覚

平治の乱の後、頼朝が伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流され8年経った1168年頃の話からします。この時、21歳の頼朝は、まだ文覚のことなど知る由もないですが。

文覚はこの時、まだ京に居ます。京の山奥にある、空海が密教の寺として建立した神護寺(じんごじ)が荒廃しているのを嘆き、この寺の再興を目指すのです。(写真⑨)

⑨紅葉が綺麗な京都・神護寺

文覚なかなかのプロデュース力を持った人物らしく、廃寺寸前だったこの寺の草堂、納涼殿、護摩堂、庵室等を建設することに成功します。

これだけの堂宇を、私力で建てるために、「人、モノ、金」に超人的な努力を払った文覚が、それだけで満足するはずがありません。彼は神護寺を空海が建立した当時の規模までに復興しようとします。

そこで、彼は当時の最高権力者・後白河法皇に支援を仰ごうと考えます。

考えることがダイナミックですが、さすがは怪僧、やり方が強引でした。

ある日、文覚は後白河院の御所へ推参し、今この場で千石の荘園を寄進してほしいと願い出ます。しかし願いが聞き届けられないと分かると、開き直って法皇に対して罵詈雑言。

駆け付けた北面の武士(法皇を守る自衛隊のようなもの)が文覚をぶちのめし、ひっくくって検非違使(警察のようなもの)に引き渡したという事件を起こします。

そして伊豆に流罪。。。

伊豆へ流されるルートは、当時の複数の書物が、海路を使ったと書いています。

ちなみに平家物語では、この時、文覚は暴風雨に遭い、竜神を叱咤してこれを鎮める話を書いていますが、他の書物等では、季節が台風シーズンで遠州灘(静岡県沖)で暴風雨に遭ったことを記述しています。(地図⑩)

⑩文覚の流刑地(伊豆)までの経路
(Googleマップ)


なのでこれは想像ですが、遠州灘で台風にあった文覚の船は御前崎あたりに退避、ここから陸路流刑地である伊豆を目指します。

たまたま上陸した先に、密教の空海、最澄とも交流のあった名僧・廣智(こうち)が開いた智満寺がありました。大きな密教寺ですので、文覚はここ智満寺に立ち寄ったようです。(写真⑪)

⑪島田市から智満寺(千葉山)を臨む
手前は大井川


当時の智満寺は、あの有名な行基(ぎょうき)の作とされる等身大の千手観音を光仁天皇より賜り、七堂伽藍の甍(いらか)をならべて国中第一の伽藍となるほどの勢いがあったようです。貴賤の上下なく多くの人々が諸願の成就、出世満足を祈り、参詣していました。(写真⑫)
⑫智満寺の千手観音像(行基作)

文覚もこの寺を見て神護寺再興の想いを強くされたことは想像に難くありません。

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さて、智満寺に立ち寄った後、陸路で流刑地である伊豆に到着した文覚。
先にここに流されている頼朝と懇意になります。

ここからが、文覚の本領発揮。時代の仕掛人となっていくきっかけとなるのです。

ここに来る直前に智満寺に参詣したことが、見ようによっては、この後の時代を動かし、ひいては文覚の大願が成就するきっかけになったと考えられませんか?

だとするとやはり智満寺は諸願成就・出世満足のお寺なのですね。

詳細は次回以降、また描いてまいります。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》