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頼朝杉⑦ ~髑髏と院宣~

勅勘(天皇の勅命による勘当)の身では何もできないと平家打倒の挙兵をあきらめている頼朝。一方、後白河法皇等は頼朝を勘当どころか実は頼っているという証拠を見せるために、流刑の身でありながら、後白河法皇の院宣を取ってくると頼朝に豪語する文覚。

文覚も勅勘の身です。流刑地から簡単に抜け出すことなど出来ないはずです。この頃の島流しというのは付近の住民皆が監視役のようなもので、頼朝でも文覚でも不在期間が2日でも続くと、管理監督者である山木判官や北条時政ら在庁官人らが捜索に乗り出してしまいます。

ではどうやって?頼朝が文覚に聞くと

「法力を使います。」と平然とのたまうのです。

1.生入定(いきにゅうじょう)

さて、奈古谷の庵に戻った文覚。早速近隣の人々に7日間の入定(弘法大師が始めた伝説的信仰・永遠の瞑想に入ること)をすると触れ回りました。

すると噂が噂を呼び、ありがたい僧侶の入定の様子を一目見ようと伊豆国の人たちは遠くは西伊豆方面からも、この堂に集まってくるのです。(360°写真①)

 ①奈古谷の毘沙門堂(360°写真)

「奈古谷の上人の入定とて、国中の貴賤市の如くに集ってこれを拝む」(源平盛衰記)

◇ ◆ ◇ ◆

またこの入定より過去の話に寄り道させてください。

実は文覚、伊豆に流される以前、京で罪人として監禁中に「神通自在」の技(わざ)を衆人に見せています。幸若舞「文覚」には次のように記されています。

文覚は、京の民衆が見守る中、役人たちの手で七条大路の土牢へ入れられ、上から土をかぶせられました。後白河院への乱暴・闖入(ちんにゅう)は死罪にも匹敵しますが、文覚が僧であることから、簡単には死罪にはできないので、土牢に押し込めて自然に死ぬのを待つという方法をとることにしたのです。

土をかぶせてから100日が経ったので、掘り起こして供養するかということで、役人たちが土を除けてみると「にこっと笑って出で給へば、官人肝を消し」状態でした。

これは京中にあっという間に有名となり、「神通自在」「其の身は芥子(けし)のごとにて」と言われたのです。

②薬師如来が持つ「瑠璃の壺」
(末代山妙楽寺者写真より)

この時、文覚を救ったのは比叡山の中堂薬師・医王善逝(ぜんせい)の使者でした。「瑠璃(るり)の壺」をもって土牢内の文覚を守ったということです。そもそも「瑠璃の壺」というのは薬師如来が左手に持つ万能薬の壺なので、この霊薬によって土の中でも100日間生きることが出来たということ自体が少々合理性に疑問が残るのですが。。。(写真②)

ちなみにこの土牢があった場所は、現在の住所で京都市下京区文覚町です。京都駅から直ぐ近くですので、京都に行かれた際に通過するときは、このお話を思い出してください。

いずれにせよ、伊豆で入定をする時点では、この裏話まではまだ流布されていなかったようで、文覚は神通力や法力を持つ特殊な僧であるということのみがまことしやかに民衆の間には噂されたようです。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、話を戻します。

このように合掌し拝む人たちの前で文覚はお堂に入り、外から鍵を掛けさせます。

しばらくはお堂の中で、数珠をこすり合わせながら、瞑想する文覚。

③福原の都・計画地図

入って一刻(2時間)程経つと、お堂の周囲から人の気配が少なくなっているのが分かります。

「よし、今だ!」

と文覚は、もう一方の壁の間からこっそりとお堂を抜け出るのです。造作もないことなのです。文覚にとっては。

2.福原の都

さて、伊豆から京へ文覚は急ぎます。

ーこういう時坊主であることは非常に助かる。ー

文覚は思います。僧になったばかりの頃、修験僧として全国を回った経験がありますから、銭など持たなくても街道を難なく行くことができます。京まで400㎞行くのは散歩のようなものでしょう。

3日で京には着きました。しかし、後白河法皇は京にはいません。藤原光能(みつよし)の屋敷で聞けば、福原へ行幸中であるとのこと。右近中将である光能も一緒に出ているとのこと。急ぎ文覚は福原に向かいます。光能の屋敷で、先触れを出してくれるようお願いし、院宣が欲しい趣旨をさらさらとしたため、これに持たせたのです。

京から福原までは2日はかかる距離。一方、伊豆の奈古谷の庵における入定期間は7日です。それまでに奈古谷の庵に戻らなければ、伊豆の民衆の不審を買うことになります。

福原までの山陽道を急ぎます。

◆ ◇ ◆ ◇

④雪見御所跡の碑

福原の都は、現在の神戸港の発展の元となった大輪田泊(おおわだのとまり)に人工的に作った経ヶ島に向かい、六甲山からの傾斜を上手く使った約一里の長さの都です。(地図③参照)

北は六甲山、西は会下山(えげやま)、東は大倉山に囲まれ北風を防ぐこの地は、瀬戸内気候と相まって温暖で過ごしやすい場所です。

日宋貿易を大輪田泊で盛んにし、平家一族の富を上げる清盛は、この傾斜上の大輪田泊方面を見下ろす場所に雪見御所を建て、昔の神戸の景観を楽しんでいたようです。(写真④⑤)

ーなるほど、この都市計画が成就した暁には「福原幕府」なる平家の独立政権が、貿易の富を背景に、ここで京と対立しても不思議ではないな。ー

福原に来た文覚は思います。福原の都に興味は尽きませんが、時間がありません。

⑤福原の平清盛の屋敷(CG復元)

京の藤原光能邸で教えてもらった場所を頼りに、福原の光能邸に一直線に向います。

3.髑髏

先触れを出しておいたことが功を奏したようで、光能は、文覚の急ぐ状況を良く把握していました。

文覚が藤原光能邸に1日半近く掛け、お昼ごろに到着した時には、光能は既に午前中から後白河法皇のところへ院宣に取り付けに行っていました。

この辺りの連繋は、実は文覚が伊豆に流されている間、藤原光能・源頼政(よりまさ)の3人で密に文を交換して政の状況の共有をしあっていたので、何かあれば即対応ができる土台は出来上がっていたのです。(一説には光能は文覚の外戚という話もあります。)

⑥髑髏と蜥蜴(画:河鍋暁斎)

「こちらで少々お待ちを」と言って通された小さな四畳半の丸窓からは、良く晴れた大輪田泊の経が島から和田岬、更にその先の難波(大阪)湾の海が、南中する太陽の光をキラキラと反射させています。その先には紀州の山々が薄ぼんやりと見えています。その素晴らしい眺望を見ながら、文覚は思います。

ーこんな柔らかな光に満ちた安穏とした景色を見ながら、新しい国造りが出来たらそれはそれで楽しく充実した日々だろう。さすが清盛は良い土地を見つけたものだ。ー

等と考えているうちに、急ぎ旅の疲れか居眠りを始めてしまいました。

◆ ◇ ◆ ◇

「文覚、文覚!」

見ると文覚を呼ぶのは何と髑髏です。先ほどのうららかで安穏とした景色とは一変して、暗い荒涼とした土地に1つの髑髏が落ちており、その眼窩からは、この髑髏を棲み処としている蜥蜴(トカゲ)が出入りをしています。

唖然とする文覚。髑髏はなおも続けます。

「文覚、恐れるな。ワシは左馬頭じゃ。」

左馬頭とは頼朝の父親である義朝(よしとも)のことです。(絵⑦)

⑦平治の乱に敗れ敗走する義朝一行
上から義朝・鎌田政家・頼朝か?
(Wikipediaより)


「文覚、ぬしに1つだけ伝えたいことがある。よいか。頼政挙兵時に、頼朝は同時に挙兵してはならぬ。じっくりと四囲を固め、挙兵は頼朝だけでも成功すると確信が持てるまでは、軽挙妄動にならぬよう注意せよ。」

◇ ◆ ◇ ◆

ふっと、目を上げると今までの寂しい景色が嘘のように、先ほどの爽やかな景観が広がっています。柔らかな海風が文覚の頬を撫でるのでした。

4.院宣

ーなんだ夢か?しかし何と対照的な世界だろう。やはり勝者の平清盛が住むここと敗者の義朝の住む黄泉との違いはこれほどまでに大きいのか・・・ー

と目覚めた文覚が転寝(うたたね)の一瞬に見た夢について反芻し始めた頃、「光能様、お戻りになりました。もう少々お待ちください。」と中間の者が取り次いできます。

姿勢を直し、少し待つと、いつもの厳しい表情の光能が入ってきて、上座にドカッと座ると

「文覚、息災であったか。長旅ご苦労!院宣はとったぞ!」

ほぼ同時に入ってきた中間が、三宝の上に恭しく載せてある「院宣」を持ってきました。到着と同時に院宣を渡されるとは思っていなかった文覚は、光能の仕事の鮮やかさに感心しながら

「ありがとうございます!これで頼朝殿も晴れて勅勘の身という認識を改め、挙兵にまい進できます!」

と言うと、光能も

「うむ!」

と満足気に頷くのです。

「ときに、少々気になる夢を見ました。しかも今、この場に到着したほんの一瞬のことです。左馬頭殿が現れました。しかも髑髏(シャレコウベ)で。」

「ほう」

「左馬頭殿は言うのです。頼政殿と一緒に挙兵するなと。頼朝殿1人でも挙兵できるだけの体制を作っておいてから挙兵しろと。」

光能はその話を聞いて、少し考えこみました。しばらくすると

「夢にしては、かなり突っ込んだ話だな。」

と言って、次のような話をはじめました。

5.以仁王

「文覚、以仁王(もちひとおう)を知っているか?」

「以仁王ですか?後白河法皇のご子息ですね。それ以上はあまり存じませんが。」

⑧大河ドラマ「平清盛」で滋子を演じる
成海璃子。天然パーマは個性を強調する
ための創作らしいです。

「やはりあまり知らんか。そう第三皇子じゃ。以仁王は有力な皇位継承権を持つ人物と見込まれていたのだが、残念ながら(平)滋子によって継承権をはく奪されたのじゃ。なので、以仁王は平家をかなり恨みに思うておった。

つい最近、滋子が35歳という若さで亡くなった。後白河法皇と仲睦まじい滋子がいたからこそ、まだ清盛と後白河法皇の仲が取り持たれていたようなものだったが、彼女がいなくなると後白河法皇は勿論、以仁王も今までの平家への不満は爆発するやろなあ。

これに便乗しているのが源 頼政や。奴は鵺を倒した噂のある強者ではあるが、女と権威にはめっぽう弱い。

だから以仁王や後白河法皇のような権威に対しては、多少盲目的なところがある御仁なのじゃろ。それが軽挙妄動に繋がると言っているのかもしれない。」

光能の分かったような分からないような解説は、ここまででした。

文覚は言います。

「光能殿、一つお願いがございます。左獄(東の獄門)の辺りに蜥蜴が住む髑髏が埋まっていないか探していただけませんか?」

ーもし蜥蜴が住む髑髏があり、夢の言葉通りに現実がなった場合は、その髑髏、まさに義朝殿に違いないだろう。ー

と文覚は思うのです。

「よし、分かった。後白河法皇にも話し、京に戻ったら早速左獄の獄門町を隈なく掘り起こして探してみようぞ。」


6.義朝のお墓(鎌倉)

この話、結論を先走ってしまいますが、夢の言葉通り、頼朝は、頼政に依存することなく旗揚げは成功し、鎌倉幕府開府に繋がる訳です。

そして光能から、文覚の話を聞いた後白河法皇が、刑官に命じ、左獄の辺りで、文覚のいう特徴ある髑髏を見つけ出させました。

平家が壇之浦で滅びた直後の1185年8月中旬頃、頼朝は文覚が見た夢が亡き父・義朝の成功へ導く予言だったことを確信し、その髑髏が義朝であると断定。後白河法皇にその髑髏を渡してほしいと願い出ます。

そこで法皇は、大江公朝を勅使とし、文覚の門弟(恵眼房)に髑髏を持たせ鎌倉へ向かわせます。

頼朝は、片瀬(現在の藤沢)まで出迎えて、父義朝の髑髏を受け取り、輿に乗せて鎌倉へ運びます。

そして頼朝は、鶴岡八幡宮より南東に建設した大寺院・勝長寿院に盛大な埋葬の儀礼を執り行いました。儀礼を担当するメインの僧の役割は、文覚の門弟・恵眼房が担当するのです。

この辺りも文覚が深く携わっているのですね。

この話を聞いて私も鎌倉の義朝のお墓に詣でてみました。(360°写真⑨)

⑨鎌倉・勝長寿院跡にある源 義朝(左)と
腹心・鎌田政家(右)の五輪塔

ちなみに義朝のお墓の横に埋葬された鎌田政家は、義朝の腹心であり、義朝が平治の乱で敗れ東国に逃れる時に、義朝共々尾張(名古屋)の長田父子に殺されました。(享年38歳)ちなみに義朝・政家同い年で乳母兄弟だったようです。

当時は、非常に大きな寺院だった勝長寿院も写真を見ていただくと分かりますように、現在は閑静な鎌倉の住宅街となっています。

⑩左・義朝、右・鎌田政家 の墓
静かなロケーションにあるこの五輪塔の二人、義朝とその腹心が、そもそも鎌倉に拠点を持ち、東国に源氏の基盤を作っていたからこそ、頼朝の鎌倉幕府開府が成功したと言っても過言ではありません。(写真⑩)

ここから1,2㎞離れた鶴岡八幡宮や小町通は多くの観光客で溢れていますが、この場所は1時間私が居ても、数回原チャリか徒歩の住人の方が通るだけの、立派(?)なマイナー史跡でした。

ただ、こここそ、後の鎌倉時代・武士の時代を作り上げた根っこに位置する人たちの記念すべき場所だと思うと感慨深いものがあります。本当に愛すべきマイナー史跡ですね。

7.あと2日

話を戻します。とにかく光能から後白河法皇の院宣を貰った文覚です。

ただ、時間がありません。入定期間は7日間と日を限って出てきたにもかかわらず、既に福原(神戸)にて5日経っています。あと2日で戻らねば!

焦る文覚へ光能が言います。

「そうじゃろうと思って準備しておいた。大輪田泊から船を出してやろう。」

流石は藤原光能。船なら、海流・風に乗れば2日で伊豆まで帰ることもやぶさかではありません。

ところが・・・。

長くなりましたので続きは次回でお願いします。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【奈古谷毘沙門堂】〒410-2132 静岡県伊豆の国市

【京の文覚の土牢】〒600-822 京都市下京区文覚町

【雪見御所】〒652-0031 兵庫県神戸市兵庫区雪御所町2−1

【勝長寿院跡・義朝墓】〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下4丁目6−20

頼朝杉③ ~源 頼政 エピソード1~

 さて、前回、遠藤盛遠(もりとお)が人妻である袈裟御前に懸想してしまい、袈裟御前が我が身を持って盛遠に教え、盛遠は出家し、文覚になる経緯を描きました。(リンクはここをクリック)

そして話が前後して恐縮ですが、前々回のブログで、僧になった文覚が弘法大師・空海が建てた神護寺復興のために強引に後白河法皇に迫り、結果、法皇の不興を買い、伊豆に流されるという経緯を描きました。(リンクはここをクリック)

この文覚の伊豆に流罪となる経緯は、調べれば調べるほど、興味深いエピソードが沢山見えてきました。今回、文覚の伊豆での話を描く予定だったのですが、また少し文覚の伊豆流刑に係る寄り道話もさせてください。(写真①)

①文覚と頼朝が流された伊豆(狩野川氾濫域)
北条義時が居城・守山城から写す

◆ ◇ ◆ ◇

②鵺に矢を射る源 頼政

文覚の流刑地を伊豆と決定したのは、この時より13年前に、この地に流されていた源 頼朝(よりとも)が居ることを意識した選択だったのではないかとの説があります。

では誰が選択したのでしょうか?それが今回の主人公である摂津源氏・源 頼政(よりまさ)です。(絵②)

と言っても、確証的なものがある訳ではなく、あくまで状況証拠によっての論考ですので、よろしくお願いします。

まず論考の第一は、文覚が後白河法皇の御所で神護寺支援を強訴し捕らえられた後、預けられた先は頼政の息子・伊豆守仲綱(なかつな)です。そして文覚を伊豆まで護送するのは渡辺 省(はぶく)という頼政の郎党です。

前回、文覚が遠藤盛遠という武士時代に、斬ってしまった袈裟御前の夫は渡辺 渡(わたる)。そもそも文覚の出身・遠藤家自体が、摂津源氏・渡辺党の縁戚筋であるというお話を書きました。

そう、つまりこの伊豆行は、文覚と関係の深い人脈の中で行われたのです。伊豆へ護送する船も、前回描いた文覚が盛遠時代に住んでいた現在の大阪・渡辺橋のあたりから出航したのです。

更に脱線しますが、頼政というのは絵②にあるように「鵺(ぬえ)」というバケモノ退治で武名を成した人物ですが、この祖父の源 頼光(よりみつ)は、「大江山の鬼退治」で有名です。

皆さんも、酒吞童子(しゅてんどうじ)等の本は小さなころに読まれたのではないでしょうか?

その酒吞童子を倒すために、頼光は頼光四天王という強ーい豪傑4人を従え、大江山に向かうのです。(絵③)

絵の中で、頼光は、左側の酒吞童子の鬼の首にかじられている武者です。

③大江山の鬼(酒吞童子)退治

絵の真ん中で、鎖やら鬼の腕やらで絡めとられながらも奮戦している二人。

二人の右側の人は、これも皆さん絵本等でよく知っている、クマにまたがりマサカリ担いだ「金太郎」さんの豪傑バージョン、坂田公時(金時:さかたのきんとき)。

そして左側が渡辺 綱(わたなべのつな)。なんかツナみたいな名前ですが、渡辺家は伝統的に名前を一文字にしていたようです。渡辺綱とか渡辺省、先週の盛遠時代の袈裟の夫・渡辺渡など、皆一字ですよね。『平家物語』では「渡辺の一文字名ども」なんてよばれています。

この時からのつながりなのです。渡辺党と摂津源氏との関係は。であれば、盛遠こと文覚の身請け引き渡しを頼政の息子・仲綱が実施し、文覚と出自が近い渡辺 省が伊豆に護送したことを、頼政の意志とは関係なく、単なる偶然とみるのは難しい気がします。

そして第二の論考は、文覚はひっ捕らえられた時に「遠くは3年、近くは3か月のうちに、思い知らせ申さん!」と叫んだと言われています。まあ、ひっ捕らえられた時すでに何か確証的なことがあった訳ではなく、単なる悔しい思いを年月を区切った言い方で現実味を持ったように言ったのだとは思いますが、少なくともそのような思いがあったことは、宮中の皆が知るところとなり、これを利用しようとしたのが頼政ではないかと。

④宇治平等院で挙兵する頼政
※3人もの渡辺党がいます(渡辺 清、渡辺 競、渡辺 省)

もしかしたら、頼政と文覚、ひっ捕らえられ伊豆に流されるまでの間、どこかで二人で密談をしていたかもしれません。

「文覚、どうだ一つ世の中をひっくり返してみないか?」

「頼政殿、3年でやってみせましょう!今の政(まつりごと)では、弘法大師の遺志を具現化することはできません。新しい世を作って、拙僧は大師の仏法を隅々まで行きわたらせ、また大師の造った堂宇を復興したい。」

「よし、では文覚。頼光四天王ならぬ、頼政四天王のうちの一人になってくれ。ついては、頼光が足柄山の金太郎を同志に加えたように、伊豆韮山の頼朝を我々の同志に加えるように画策してほしい。」

「なるほど!心得えましてござりまする。頼政殿」

なんて会話があったらと思うとゾクゾクします(笑)。というのは頼政は、これから7年後、後白河法皇の息子・以仁王を立てて、平家に対し最初の旗揚げをする源氏となるのです。(絵④)

平治の乱で源氏の棟梁とされた河内源氏の義朝(よしとも)の嫡子・頼朝を取り込もうという駆け引きが、当時の政(まつりごと)における中核・三位まで昇格した程の頼政が考えない訳がありません。

東の伊豆での頼朝挙兵、西の頼政挙兵、これを同時に行うことで平家殲滅を図りたかったのではないかと思いますが、残念ながら計画が平家側に発覚し、準備が固まらないうちに以仁王を助けるために、頼政は宇治平等院で挙兵し敗れるのです。

⑤大阪・渡辺橋とその周辺

敗れたとは言え、この戦にもいろいろなエピソードがあり、特にまた渡辺党の一人、渡辺 競(きそう)は胸のすくような活躍をしていますので、次回(?)にご紹介します。

この摂津源氏が盛んな頃には、渡辺橋周辺に起居した渡辺党の活躍は目覚ましいものがありますが、残念なことにその後、頼朝が挙兵に成功し河内源氏の世となると、摂津源氏も一御家人に凋落。渡辺党もあまり注目されなくなります。

ただ、これからも詳細は描いていきますが、頼朝の挙兵が成功した裏の立役者は文覚であり、文覚もまた渡辺党であったことを考えると、武士の時代を創生した大事業にいかに渡辺橋近辺の渡辺党が重要な役割を成したのか。関東にある鎌倉の成り立ちに大阪・渡辺橋が大いに貢献していると思うと面白く感じるのは私だけでしょうか?(写真⑤)

◆ ◇ ◆ ◇

読者の皆様には怒られるかも知れませんが、伊豆での文覚を描くと前回も言っておきながら、なかなか描き始められません(笑)。

というのは、本シリーズは『平家物語』や『源平盛衰記』を調べながら進めていますが、まあ出てくる人物に関するエピソードはてんこ盛りで、皆さんは良く知っているかもしれませんが、歴史初心者の私は恥ずかしながら、いつも「へー、へー」と言って、紹介したくなる衝動を抑えられません。

ですので、大変申し訳ありませんが、もう少し伊豆での文覚の様子を先に延ばし、この頼政や渡辺党のエピソードをご紹介させてください。

◆ ◇ ◆ ◇

⑥御所上空の黒煙の中の鵺

頼政は、上の絵②や絵④に見られるような、勇猛果敢な武士なだけではありません。文武両道に長けていたこともあり、源氏としては当時破格の三位まで位階を上げることができた人物です。特に歌人としても大したものなので、それらのエピソードを3つさせてください。

1つは、やはり「鵺(ぬえ)退治」。これは頼政一番の武勇伝と伝えられることが多いですが、弓の名人と言われる頼政の活躍以上に、これに関する歌がまた粋なのです。

鵺(ぬえ)は「得体の知れないもの」という意味らしいです。「夜の鳥」と書くだけあって、普通、フクロウ以外は夜中に鳴く鳥は日本ではあまり見ませんね。ところが、後白河天皇の先代である近衛天皇の時に、御所上空から細い不気味な鳴き声が夜な夜な響いてきました。

最近の研究では、これはトラツグミという渡り鳥ではないかと言われています。夏はシベリアから朝鮮半島で過ごしますが、冬はインドやインドシナ、フィリピンに渡り過ごす渡りの途中の漂鳥が、京都御所の周辺にたどり着いたのではないかと。主に夜中に鳴くのです。鳴き声は下の動画で聞いてみてください。鵺の声に聞こえますか?(動画⑦)

⑦トラツグミの声(動画)

この鳴き声を毎晩・毎晩聞いて体調を崩したのが近衛天皇。まあ、確かに夜中に聞いたら少々不気味な感は否めないですよね。このトラツグミの声は。

当時、一部では近衛天皇の先代の崇徳上皇の怨霊だとか、この後、始まる保元の乱や平治の乱など、平安末期が平安ならぬ不安末期の象徴の声だとか、色々と噂されます。

もともと近衛天皇は若い時から体調が勝れぬ質(たち)だったようですが、これら祟りのように言われ、鵺の形状にも尾ひれ羽ひれが付いて、絵⑥のようになってしまいました。

頭が猿、手足が虎、尻尾が蛇 です。後述しますが、一説にはこれは「得体の知れないもの」を方角で拡大解釈したものらしいです。そしてこのバケモノが東三条の藤原氏大邸宅の庭(現:東三条院址)から黒煙と一緒に御所の上空に現れるとのことでした。

有験(うげん)の高僧の祈りも効目がありません。この時、左少弁・源雅頼(まさより)が、「こんなバケモノは、酒吞童子を倒した頼光の孫・頼政に倒してもらうのが良いでしょう!」と近衛天皇に奏上します。

⑧鵺に止めを刺す猪早太

「なるほど!」と天皇は頷き、頼政に勅命を出します。

これを聞いた頼政、「私はバケモノ退治のために宮仕えしているのではありません。」と憤ります。

というのは、まあ現実的にはトラツグミあたりの話であり、退治したと言っても相変わらず近衛天皇の体調は戻らないだろうし、小鳥一羽夜中に追い回しても、またどこかで鳴かれたらと思うと、これは政治的なライバル(村上源氏)である雅頼が、頼政を陥れるために仕組んだ罠と疑いたくなる節を感じたからです。

ただ、勅命に従わないわけにはいきません。そこで猪早太(いのはやた)という部下だけを連れて、夜中に御所の上空に現れた黒煙に向かい、

「南無八幡大菩薩」と唱え、

頼光伝来の弓で矢を、ヒョーと射たところ

ギャー

と黒煙中に手ごたえがあり、

ドサッ

と落ちたところに、猪早太が駆けつけ、9回程喉を刀で突き、止めを刺しました。(絵⑧)

このバケモノ退治の話を近衛天皇に奏上すると、天皇は大層喜び、「獅子王」という名刀を頼政に下賜されたということです。現在この刀は東京国立博物館に重要文化財として保存されています。さすが美しい刀ですね!(写真⑨)

⑨名刀:獅子王

さて、この話はこれだけに終わらず、頼政の教養が如何に高かったかの話もついています。さすが文武両道の頼政。

というのは、この獅子王を頼政に渡したのが、当時の左大臣、藤原頼長。この人物後に悪左府と呼ばれることでも有名です。(絵⑩)

⑩悪左府 藤原頼長

渡す時に、以下の歌の上の句を詠みます。

「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」

これに対して、頼政、すかさず下の句を返します。

「弓張り月のいるにまかせて」

これは、頼長が「頼政、すごい!まるでホトトギスが空の雲まで名き声を轟かすように、あなたも名をあげましたね」と掛けたのに対して

「いやいや、弓張り月(半月)の方向に適当に射っただけですよ。」と、謙遜する頼政。

「弓張り月」と「弓を張って、月の方向に」という意を重ね、「いる(そこにある)にまかせて」と「射るにまかせて」の意も重ねて、裏の意図を表現しているところに、頼長も近衛天皇も、弓だけでなく歌も上手い上、謙遜する頼政に心酔したとかしないとか(笑)。ちなみに悪左府は男色家。

ただ、現実的な解釈では、頼政はやはり鵺退治と称して、鏑矢(かぶらや)をおまじないとして四方に射たのが実態で、「適当に射た」というのは本当のところのようです。ちなみに鵺の形容と猪早太、これらセットで方角を表すと言われています。つまり、頭が猿=未申(南西)、尻尾が蛇=辰巳(南東)手足が虎=丑寅(北東)、猪早太=戌亥(北西)ということで、猪早太自身創作だという話もあります。この方角へ鏑矢を頼政は射たという訳です。

私の勝手な解釈をします。以下の想像は怒らないで笑い飛ばしてください。

頼長が

「ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」

⇒黒雲(黒煙)の中に居たモノの名は、鵺ではなくて小鳥(ホトトギス)
 だったのではないですか?
 (裏の意:それで名をあげられるとは羨ましいこと。)

と上の句を詠んだことに対し

「弓張り月のいるにまかせて」

⇒ええ、半月の方向(南西)にいたみたいなのでテキトーに射ってみました。
 (裏の意:東三条の藤原邸(東三条は御所から南西の方角)から来るのですか
      ら、頼長さんはやはり正体を小鳥だとご存知でしたか。)

とお互い隠れた歌の応酬で、真実の報告をしたのではないでしょうか。

何分、近衛天皇の健康悪化は悪左府が呪詛したという噂があるくらいなので、藤原邸から鵺であるトラツグミを飛ばしていたかもしれません。

ただ、獅子王を下賜くださるほどの騒ぎになっているのですから、こんな真実報告レベルではなくて、もっと頼政のすばらしさが分かるような解釈にしたのではないかという想像は下衆の勘繰りですね(笑)。

実存するかしないかも分からない猪早太だけを連れて、鵺退治というのも、しっかり退治したという報告を創作するために限定した人たちだけでやったような気がしてなりません。

どう思われますか?

あ、決して頼政を貶めるように考えているわけではありません。もし上記歌のやり取りが本当だとしてもそれはそれですごい歌人には変わりないのですから。

すみません。長くなりすぎたので、あと2つのエピソードも次回、頼政の挙兵時における渡辺党の活躍と一緒に描きたいと思います。

ご精読ありがとうございました。

《続く》

【渡辺橋】〒530-0004 大阪府大阪市北区1

【東三条院址(藤原氏邸跡)】〒604-0035 京都府京都市中京区上松屋町

【京都御所】〒602-0881 京都府京都市上京区京都御苑3


頼朝杉② ~遠藤盛遠から文覚へ~

 神護寺の再興に支援を貰おうとして、強引に後白河法皇に迫った文覚は、かえって法皇の不興を買い、伊豆に流されてしまうまでの話を前回のブログで書きました。

伊豆に流された文覚が、先に流されていた頼朝と懇意になる話をする前に、少々時間を遡り、文覚の背景からお話をします。(絵①)

①文覚上人(神護寺蔵)

◆ ◇ ◆ ◇

文覚は、最初からお坊さんだったわけではありません。
彼は遠藤盛遠(もりとお、以下盛遠)という俗名の北面の武士だったのです。

遠藤一族は、渡辺党という、現在の大阪は渡辺橋の辺りに起居していた武士団に所属します。(写真②)

②渡辺橋(大阪)

この辺りは、物流が盛んであり、当時は大阪湾から淀川系を遡り、この渡辺橋辺りで荷を下ろす等、水運を使った物流の拠点でした。渡辺党は、これらの水運を握っていたので、平時は農民をしていた武士団等よりも比較的裕福だったように思われます。

また渡辺党は四天王寺ともゆかりが深いことが史料から伺えます。

これって誰かに似ている。と思ったのは、かつて私は楠木正成が渡辺橋あたりで鎌倉幕府軍をゲリラ戦でやっつけることを書きました。(リンクはこちら)

楠木正成もまた四天王寺と関係が深く、また水運等により力を付け、河内の豪族となっていったという点でも似ています。

出家せずに武者のままだったら、遠藤盛遠こと文覚も、楠木正成並の知将になったかもしれません。それはそれでこの鎌倉時代のパイオニアとして、違う形で有名になったかもしれませんね。

ことに盛遠は当時、力が強い荒武者だったことが有名だったようです。

さて、では何故、荒武者だった彼が僧になったのでしょうか?

有名な伝説が平家物語や源平盛衰記に残っています。歌舞伎はいうに及ばず、芥川龍之介も「袈裟と盛遠」という短編小説で取り上げていますし、昭和28年には「地獄門」という映画でカンヌやアカデミー賞を受賞する程の話にもなっています。

芥川龍之介の「袈裟と盛遠」は、全体のあらすじを、以下の話で把握されてから読まれることをお薦めします。というのは、「袈裟と盛遠」に登場する袈裟、盛遠の心理描写が凄まじく素晴らしい作品なのですが、出来事を知らないと、その文章の伏線になっているところまで読み取るのが難しいのです。

では物語をはじめましょう。

◆ ◇ ◆ ◇

そのきっかけは、この渡辺橋の落成式でした。

この時、盛遠は警備のために駆り出されていました。娯楽の少ない当時は橋の落成式等というとたくさんの人たちが見物に出かけたのです。

その人ごみの中で、ひと際目を引く美しい女性がおりました。盛遠は一目惚れをしてしまいます。

盛遠がこっそりと後をつけて行くと、彼女は盛遠が幼き頃より、よく知っている渡辺 渡(わたる)という渡辺党の邸宅に入っていきます。(絵③)

③ストーカーのような盛遠(文覚)

しかし、盛遠も現代なら立派なストーカーですね。

盛遠は渡辺邸の門番に、今の女性が誰なのかを聞くと、なんと盛遠の叔母・衣川の娘・袈裟(けさ)ということが分かりました。

実は盛遠、まだ袈裟が14歳の時に、あまりに美しいと感じたので、叔母に掛け合って「自分の嫁に下さい!」と迫ったことがあるのです。

ただ袈裟の美しさは世間でも有名で、渡辺 渡も含め、幾人もの男たちが盛遠と同じように言い寄っていたようです。

「くそ!叔母め!袈裟を俺の嫁にはせずに渡に嫁がせるとは!」

と悔しがる盛遠。しかし、彼の「思い込んだら命がけ」の性格は、朝昼晩・朝昼晩と袈裟のことを想い続け、気が付くと100日を超えていました。

盛遠、とうとう我慢しきれず、衣川のところに押しかけ、刀を抜いてこの叔母に襲い掛かるのです。

焦った叔母の衣川。

「盛遠殿、どうされたのか?どうしてこのババを殺そうとするか?!」

と衣川は盛遠に聞きます。

「おババ、俺はこの100日間、袈裟のことを想わない時はなく、時間が経てば経つほど、自分が虚しくなるのだ。どう考えても袈裟とは一緒になれなかったという事実だけがどんどんと重くのしかかり、気も狂わんばかりになってきた。この際、嫁にくれなかったババを殺して、自分も死ぬ!」

とかなり自分勝手な理屈で襲い掛かっていたのです。

「盛遠殿、お待ちくだされ!今晩、ここに袈裟を呼び出しますでの。」
「分かった。今晩、袈裟と逢えるのだな。」

俄かに笑顔になる盛遠。彼は「また夜に来る」と言って立ち去ります。

一時しのぎとはいえ、大変な約束をしてしまったと後悔する衣川。

逡巡しますが、袈裟宛ての手紙を書きます。そして使用人に書いたばかりの文を持たせ、3町(300m程度)離れた渡辺邸の袈裟のもとへ届けるよう言いつかわします。

使用人から母・衣川からの文を受け取った袈裟。何事!と思い、文を開いて読み始めます。

「袈裟や、母は体調を崩して困っておる。至急、来ておくれ。」

あれ?昨日まで元気だった母が一体どうしたというのだろう?ただ、この文からはなにやら切羽詰まった雰囲気が漂ってくるのです。

兎に角、母のところに行った袈裟。母・衣川は泣きながら、盛遠の話をし、

「全ては、この母が悪いのじゃ。そなたはこの母を殺して渡辺邸に帰りなさい。」

と錯乱状態。そんな母を一人置いて帰っては、逆上した盛遠が、また母を殺そうとするのは分かっています。帰るに帰れません。

そうこうするうちに夜となり、盛遠が現れます。

盛遠は母・衣川が居るのも目に入らないのか、その場で袈裟を手籠めにしてしまうのでした。

さて、翌朝になると盛遠は袈裟を渡辺邸へ帰さないと言い出します。

すると袈裟、やはり一晩体を任せたからでしょうか?急に次のように言い出します。

「夫・渡を殺してください。そうすれば晴れてあなたと一緒になります。」

盛遠は張り切ります。一晩で袈裟は俺に傾倒したんだと。漲る自信と夢にまで見た袈裟と一緒になれる未来を想像しながら、彼は袈裟と夫殺しの話を続けます。

「どうやって奴を殺すか。」
「今晩、渡の髪を洗い、お酒を飲ませて、ぐっすり眠らせます。部屋は南塀から入った正面です。忍び入って討ってください。」

盛遠は袈裟の顔を見ます。彼女の眼はどこか虚ろで、盛遠の顔を見ていませんでした。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、その日の晩、袈裟との約束の時間に南塀から渡辺邸に潜り込んだ盛遠。
指定された部屋に入ると確かにぐっすりと眠りこんでいる渡がいます。袈裟は渡の髪を洗うと言っていたことも予定どおりです。もとどりを解いて長い髪型のまま仰臥しているようなのです。

「えいっ!」

と一気に気合を入れ、盛遠は、その首を瞬時に切り落とします。首を切り落とされる瞬間に断末魔の叫びにより、家人たちに気づかれないかと少し心配したため、一気に首を掻き切ることに集中した盛遠。

「あれ?」

と思ったのは、断末魔の叫びが無かったことではありません。

「首が細くないか?渡は華奢な首をしているのか?」

④切った首を月明かりに照らし出す盛遠

と違和感を感じます。切った首を持つと、またその首は大変小さく、でかい顔の自分と大きさがさして変わらないであろう渡のものではないような、違和感も感じます。

切った首を掴み、邸の南の庭に飛び出す盛遠。
月明かりの中にその首を晒し、じっと見つめます。(絵④)

「袈裟!」

そう首は袈裟だったのです。

「穴無慙や、此の女房が夫の命に代りけるこそと思ひて、首を取出して見れば女房の首なり。一目見るより倒れ伏し、音(こえ)も惜しまず叫びけり。」(源平盛衰記より)

◆ ◇ ◆ ◇

我欲による自分の業の深さを思い知った盛遠。首を家に持ち帰り、まんじりともしないで、夜を袈裟御前の首を睨みながら明かします。

朝になって、袈裟御前の首を布に巻き、立ち上がると渡辺邸に引き返します。

「渡!渡!おらぬか?」
「盛遠か!」

すでに渡辺邸では、袈裟が骸(むくろ)となっていることに騒然となっていました。

盛遠は渡の前にどかっと座ると、布から袈裟の首を取出します。

「な、なんと!」

一瞬、開いた口が塞がらないといったような顔をした渡でしたが、次の瞬間、腑抜けたような一気に力が抜けたような表情になります。盛遠が話さずとも、すべてを理解したのでしょう。

「すまぬ!渡、俺を斬ってくれ!自害したいとも思ったが、どうせ同じことなら渡の手にかかって死んだほうが良いだろう。」

盛遠は渡の目の前に自分の大刀を置き、自分は打ち首にされやすいように、一歩下がった位置で平伏ともうなだれているともつかない格好で座りました。

それをじっと見つめる渡。

半刻ほどもたったでしょうか。渡は、いきなり立ち上がると、目の前の大刀をすらりと抜き、平伏する盛遠に近づきます。盛遠は覚悟します。すべては自分のエゴなのですから。

ぶちっ!

鈍い音がしました。少しして盛遠は片目をうっすらとあけてみます。

⑤重源
首は切られていないようです。顔を少し上げると、目の名前に、もとどりを切り、ざんばら髪になった渡が、茫然と立っていることに気が付きます。

先ほどの鈍い音は、渡がもとどりを切った音だったのか。

「盛遠、俺はお前が憎い。袈裟を奪ったお前が。」

「・・・」

「という感情が、どういうわけか腹の底から湧いて来ぬ。」

「どういうことか?」

「分からない。ただ今更、お前を斬っても袈裟は返らない。かといって、自分も袈裟の後を追ったところでなんの甲斐もない。これはどうしたことであろう。と先ほどから、お前を見ながら考えていたのだ。そして分かった。袈裟は、命がけで俺たちに教えようとしたことがあるのだ。きっと。」

「・・・」

「袈裟は観音の生まれ変わりで、我ら二人に仏道修行の心を起こさせようとしたのだ。俺もお前も袈裟の後世を弔うことが、これから生きる道ではないか。」

ーそれで、もとどりを切ったのかー

盛遠は情欲に溺れ、直情的な行動をとった自分に比べ、冷静かつ高尚な渡の考え方に感心しました。そして七回も渡を拝み、自分も大刀でもとどりを切り、渡と同じざんばら髪になります。

そして出家した盛遠は文覚となったのですが、渡辺渡の方は、以後平家物語からも源平盛衰記からも話は消えます。

⑥厳冬の那智の滝で文覚を
助ける仏神たち
ただ、一説には、渡は同時代の東大寺の中興に大きく貢献した重源(ちょうげん)になったというものもあります。勿論重源は紀州の人だから渡辺 渡の訳がないという反駁は十分に考慮した上での説です。(「文覚上人一代記」:相原精次著 から)
(写真⑤)

文覚は神護寺や東寺等の復興に尽力するのですが、同時代に生きた重源も、平家によって一度焼かれた東大寺の再建に尽力するのです。もし盛遠が文覚で、渡が重源だったら、変化の激しい時代の流れと深く関係しながらも、古来からの仏閣の再建を果たした二人を生み出した袈裟御前は、観音の生まれ変わりだと信じられてもおかしくないですね。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、この後、文覚は熊野の那智の滝での想像を絶する苦行等、まるで死にたいのではないかと思う程に荒行をして廻ります。

真冬の那智の滝で21日間の滝行をすると言い、周囲が止めるのも聞かずに実施します。さすがの文覚も4日目で気を失い、滝を数百メートルも落下していくのですが、奇跡的に助かり、残りの苦行も完遂させるという話は有名です。

平家物語では、この時に仏神二人が流される文覚を救ったという伝承になっています。(絵⑥)

ほんと、死んでいてもおかしくはない苦行ですね。

そんな甲斐があったからでしょうか。文覚は出家してから3年経つと、袈裟が蓮の花に座っている夢を見るのです。これに喜んだ文覚。はじめて彼の涙が頬を伝わるのでした。

◆ ◇ ◆ ◇

それから、彼は苦行をしながら、全国の密教寺を10年以上かけて廻ります。そして京に戻った彼が建て直しを図った寺院が、前回お話した神護寺なのです。

ここで、やっと話が前回のところに、戻ってきました。そう後白河法皇に神護寺への寄進の直談判に行った文覚は、捉えられ、伊豆への配流になったのです。

彼が船で伊豆に行こうとしたときに、出航したのは、やはり今の大阪の渡辺橋のあたりからです。当時は渡辺津と言われていたようで、大阪のこれらの「津」と呼ばれるところは水運による物流だけでなく、人の移動の拠点でもあったのですね。

◆ ◇ ◆ ◇

伊豆に到着した文覚が正確にどこに住んだという場所は特定されておりません。ただ、頼朝の流刑地「蛭が小島」から一里(4km)も離れていない奈古谷・毘沙門堂のあたりという説は有力です。私もそこに行ってきました。(写真⑦⑧、360°写真⑨)
⑦文覚が起居していた毘沙門堂への山道の標識

⑧毘沙門堂入り口



⑨毘沙門堂境内(360°写真)

伊豆の流刑地は間違いなく富士が綺麗に見える土地です。文覚と頼朝、大願成就の夢は違えど、プロセスは一致し、二人で富士の高みに上るがごとく、この後走りだすのです。(写真⑩)
⑩文覚と頼朝が流された伊豆は富士山が良く見える

さて、伊豆に流された文覚と頼朝との出会いの話は、現地のレポートも含め、次回させてください。ご精読、ありがとうございました。

《つづく》

【奈古谷・毘沙門堂】〒410-2132 静岡県伊豆の国市

頼朝杉① ~文覚と千葉山・智満寺~

今回のテーマ「頼朝杉」は、史跡巡りに歴史物語を加えるいつもの書き方に加え、史実の謎解きの要素を加えてみたいと思います。

お付き合いいただければ嬉しいです。

とりあげるテーマの「頼朝杉」。高さ36m、幹の周りは9.7mという堂々たる杉の樹で、樹齢800~1200年の国指定天然記念物でした。(写真①)

①頼朝杉(8年前)

この大杉は、静岡県は島田市から車で30分以上かかる山奥のお寺にありました。

◆ ◇ ◆ ◇

島田市と言えば、女性の日本髪の代表・島田髷が有名です。(絵②)

②島田髷
この島田髷の始まりも、この頼朝杉が植えられたと想定される時代に近く、関係があるのかもしれません。

今後、調査が進む過程で、この島田髷の起源についても取り上げたいと思います。

鎌倉時代初期の敵討ちで頼朝暗殺未遂説で有名な曾我兄弟と関係があるようなのです。

◆ ◇ ◆ ◇

話を戻します。
まずはこの「頼朝杉」とはどのような杉なのかを調査するために、この杉のあったお寺に向かうことにしました。

関係者と島田駅で待ち合わせ、車で北に向かうこと30分。車一台分の幅しかない林道のような道が続きます。対向車とのすれ違い等に苦労しながら、山奥のお寺に到着しました。

お寺の名前は「千葉山・智満寺(ちまんじ)」(写真③)

③千葉山・智満寺入口

今時珍しい、総茅葺屋根のお寺です。(360°写真④)

 ④智満寺境内(360°写真)

このお寺の「千葉山」は、あの千葉県の「千葉」なのです。静岡県にあってなんで千葉(笑)?

「頼朝」、「千葉」とくれば、

ーおっ、頼朝挙兵時の石橋山合戦で負けた後、房総半島へ渡った時に、千葉 常胤(ちば つねたね)を頼りにしたというあの「千葉」か?-

と思われる方いらっしゃるでしょう。そこまでイメージを膨らませながら読まれた方は、素晴らしい歴史通ですね。

まだ詳細はお話しませんが、そのお話も、このシリーズで順々にさせていただければと存じます。思わせぶりでごめんなさい。

頼朝杉、8年前の平成24年9月2日、空洞化した根本から倒れてしまいました。(写真⑤)

⑤空洞部分から倒れた頼朝杉の残幹

ご住職のお話によると、嵐の夜中に轟音とともに倒れたのだそうです。もちろん、樹齢800年以上の老木だったため20年前からその懸念を予測していたのです。

この時、不幸中の幸いだったことがあります。

元々、頼朝杉は薬師堂の上に覆い被さる姿に迫力を感じる人が多かったようで、倒れると県指定文化財の薬師堂が破壊されてしまうと、皆心配していたのです。(写真⑥)

⑥薬師堂の上に覆い被さる頼朝杉(8年前)

ところがこの時、なぜか奇跡的に薬師堂を外れて倒れ、お堂は無事だったとのことでした。(写真⑦)

⑦現在の頼朝杉と薬師堂
写真右上に頼朝杉の残幹

この頼朝杉ですが、なぜ頼朝の名前がついているのでしょうか?

怪僧・文覚(もんがく)が関係しているようです。
まずは、その経緯をこのシリーズで複数回にわたり、書いていきたいと思います。

◆ ◇ ◆ ◇

頼朝が伊豆に流されている時、平清盛に殺された頼朝の父・義朝(よしとも)の髑髏(どくろ)を首から下げ、平家打倒を進めた怪僧・文覚をご存知の方も多いと思います。

私も弁財天を江の島に勧請した後、奥州藤原氏3代目の秀衡(ひでひら)の調伏祈願をする文覚を「義経と奥州藤原氏の滅亡② ~江の島~」で書きました。(絵⑧)

⑧秀衡調伏祈願をする文覚

平治の乱の後、頼朝が伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)に流され8年経った1168年頃の話からします。この時、21歳の頼朝は、まだ文覚のことなど知る由もないですが。

文覚はこの時、まだ京に居ます。京の山奥にある、空海が密教の寺として建立した神護寺(じんごじ)が荒廃しているのを嘆き、この寺の再興を目指すのです。(写真⑨)

⑨紅葉が綺麗な京都・神護寺

文覚なかなかのプロデュース力を持った人物らしく、廃寺寸前だったこの寺の草堂、納涼殿、護摩堂、庵室等を建設することに成功します。

これだけの堂宇を、私力で建てるために、「人、モノ、金」に超人的な努力を払った文覚が、それだけで満足するはずがありません。彼は神護寺を空海が建立した当時の規模までに復興しようとします。

そこで、彼は当時の最高権力者・後白河法皇に支援を仰ごうと考えます。

考えることがダイナミックですが、さすがは怪僧、やり方が強引でした。

ある日、文覚は後白河院の御所へ推参し、今この場で千石の荘園を寄進してほしいと願い出ます。しかし願いが聞き届けられないと分かると、開き直って法皇に対して罵詈雑言。

駆け付けた北面の武士(法皇を守る自衛隊のようなもの)が文覚をぶちのめし、ひっくくって検非違使(警察のようなもの)に引き渡したという事件を起こします。

そして伊豆に流罪。。。

伊豆へ流されるルートは、当時の複数の書物が、海路を使ったと書いています。

ちなみに平家物語では、この時、文覚は暴風雨に遭い、竜神を叱咤してこれを鎮める話を書いていますが、他の書物等では、季節が台風シーズンで遠州灘(静岡県沖)で暴風雨に遭ったことを記述しています。(地図⑩)

⑩文覚の流刑地(伊豆)までの経路
(Googleマップ)


なのでこれは想像ですが、遠州灘で台風にあった文覚の船は御前崎あたりに退避、ここから陸路流刑地である伊豆を目指します。

たまたま上陸した先に、密教の空海、最澄とも交流のあった名僧・廣智(こうち)が開いた智満寺がありました。大きな密教寺ですので、文覚はここ智満寺に立ち寄ったようです。(写真⑪)

⑪島田市から智満寺(千葉山)を臨む
手前は大井川


当時の智満寺は、あの有名な行基(ぎょうき)の作とされる等身大の千手観音を光仁天皇より賜り、七堂伽藍の甍(いらか)をならべて国中第一の伽藍となるほどの勢いがあったようです。貴賤の上下なく多くの人々が諸願の成就、出世満足を祈り、参詣していました。(写真⑫)
⑫智満寺の千手観音像(行基作)

文覚もこの寺を見て神護寺再興の想いを強くされたことは想像に難くありません。

◆ ◇ ◆ ◇

さて、智満寺に立ち寄った後、陸路で流刑地である伊豆に到着した文覚。
先にここに流されている頼朝と懇意になります。

ここからが、文覚の本領発揮。時代の仕掛人となっていくきっかけとなるのです。

ここに来る直前に智満寺に参詣したことが、見ようによっては、この後の時代を動かし、ひいては文覚の大願が成就するきっかけになったと考えられませんか?

だとするとやはり智満寺は諸願成就・出世満足のお寺なのですね。

詳細は次回以降、また描いてまいります。

ご精読ありがとうございました。

《つづく》