中尊寺金色堂 小話⑥ ~東北調査紀行2~

拙著メインブログの「マイナー・史跡巡り」の進捗に合わせて、色々な紀行文が交じり合うので、混乱される方もいらっしゃるかもしれません。

今回は、中尊寺金色堂から始まった東北調査紀行の第2弾です。
※第1弾は、こちらをクリック下さい。

中尊寺を見た後は、そのまま歩いて、義経の最期の地である「高館(たかだち)」を目指します。(巻末のGoogleマップもご参照ください。)

まず、中尊寺を出て、目に入るのが、弁慶の墓です。(写真①
①中尊寺門前にある弁慶の墓碑と松
立派な松です。これは弁慶がずーっと義経に従い、「立ち往生」で殉死するまで変わらぬ忠義を尽くしたことを讃えるために、後世の中尊寺の僧・素鳥(そちょう)が以下の句を添えて植えたようです。

「色変えぬ松の主(あるじ)や武蔵坊」

弁慶の「立ち往生」については、既に「マイナー・史跡めぐり」にも描きました。
弁慶については、義経の部下で存在したことは史実らしいですが、ただ、彼の数々の奇行(?)は、後に判官贔屓と相まって、創作された話が多いようです。

私の家の直ぐ近くにも「弁慶鍋転がしの坂」等というのがあります。あまりの急な坂に落馬しそうになった弁慶、なんとか持ち直しましたが、鞍の後ろに釣るしてあった鍋の紐が切れ、鍋は断崖を落ち、谷底に消えて行ったという伝承です。

写真のように確かに急な坂ですが、史実としては、少々怪しいですよね(笑)。(写真②
②弁慶鍋転がしの坂
※遠方に見えるのは丹沢山系と富士山等
現代だったら、鍋を落しても住宅街の誰かが拾ってくれそうですけど(笑)。

富士山に丹沢は大山、箱根の二子山、遠方には天城山も見えるこの景観の良さから、何か地名をということで義経伝説にあやかり、付けたのでしょう。勿論、奥州と鎌倉の行き来にこの土地付近を通った事に関しては、かなり確度が高いようです。旧鎌倉街道が走っていますので。

ただ、そのような伝説が多い中でも、弁慶の最期・「立ち往生」だけは真実だと思いたいです。(絵③
③満福寺(腰越)の襖絵「弁慶の立ち往生」

さて、この弁慶のお墓から2km程度離れたところに、義経最期の地・高館はあります。

そこを目指して、トコトコ歩いていると、道端に写真④のような石碑を見つけました。(写真④
④卯の花 清水の碑
ここには、奥の細道で松尾芭蕉に同行した曽良(そら)の句がありました。

「卯の花に兼房みゆる白毛かな」

義経の部下と、藤原泰衡の軍勢がここで激しく交戦しました。
この句は、その中の1人、白髪を振り乱し勇猛果敢に戦った66歳の兼房(かねふさ)について詠んだものです。兼房は、義経らの最期を見届けた後、敵の大将と組討ち、火の中に消えて行ったと伝えられています。
⑤卯の花

卯の花は写真⑤のように、真っ白で、これがここに咲いていたのでしょうね。それを見た曽良は、兼房の白髪を思いだしたのでしょう。(写真⑤

「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」にも書きましたように、義経自身は、奥州藤原氏である泰衡への遠慮から、泰衡軍に対して、無抵抗のまま自刃しました。しかし、彼の部下たちは、主人である義経の不憫を想い、若干31歳だった義経に対し、66歳の白髪のご老人である兼房でさえ、見事な献身による最期を遂げています。

一部にはこれらは判官贔屓が生み出した伝説という見方もありますが、このような献身が出来る人物・義経を見出した兼房は、ある意味大変幸せな最期だったのかも知れないなと思いながら先を急ぎます。

◇ ◆ ◇ ◆

そこから、約10分くらいのところに、義経の高館はありました。(写真⑥
⑥高館の義経堂(左)と義経供養塔(右)
義経、最期はこんなに小さな持仏堂で奥さんと4歳の幼女を手に掛け、自刃をしたのですね。お堂の近くには義経の供養塔もありました。(写真左)

このお堂は、石段を登り切ったところに、ちょっと写っている写真が観光用に多用されているのを良く見かけます。(「マイナー・史跡巡り」の写真【ここをクリック】もそれです)

つまり、かなり高いところにあるため、北上川流域が綺麗に見える場所なのです。(写真⑦
⑦高館から北上川流域を臨む
この景色は、奥州王国と源家との争乱とは非常に対照的に、静かで美しく、目まぐるしく変わる人の業が馬鹿馬鹿しくさえ感じられるのは私だけでしょうか?

やはり私だけでは無いのですね。芭蕉のあの有名な句が、高館のこの景色が見える場所に建っています。(写真⑧

「夏草や、兵(つわもの)どもが夢の跡」

⑧芭蕉の名句の碑
この句は、何も義経の最期に対してのみを想定して、作られたものではないでしょう。ただ、具体的なイメージ無しではこのような名句は生み出せません。やはり句を生み出す景色が必要で、それはこの北上川流域の景色なのかなと思います。

更に、この高館を北上川方面に下ったところにある奥州藤原三代の御所があった「柳之御所」跡も、ここもまさに芭蕉の句を彷彿させる景色が広がっています。

柳之御所については、次回また訪問紀行文で取り上げますが、このように平泉には、芭蕉のこの名句を彷彿させる場所が数多くあることも、平泉が世界遺産へと登録された1つの要因ではないかと思いました。

最後に、この看板が気になったので掲載します。(写真⑨
⑨高館が義経北海道逃亡伝説の起点と明記のある看板
藤原泰衡が、この高館を襲った時に自刃したとされる義経は、実は影武者だったとあります。本物の義経は、弁慶らと一緒に、襲われる1年前に北を目指して旅に出たと言う伝説。この看板は、ここ高館が義経北行伝説の起点であるという訳です。

この後、東北地方の北から北海道に至るまで、各地に点々と残る弁慶と義経の伝説の数々や、最後義経はチンギス・ハーンとなり、中国大陸で「モンゴル帝国」を打ち建てた等、壮大な伝説まで残っています。

確かに、1年前にそっと脱出出来る可能性は大いにあるでしょうし、各地の伝説もそれを上塗りするだけの根拠になり得るでしょう。またモンゴル帝国の成立も1206年と、1189年にここ高館から義経が脱出してから17年後と時間的な整合性はあります。

ただ、私の家の周りにも数々ある義経・弁慶伝説や、それこそ腰越状、藤沢の白旗神社、須磨寺の「弁慶の鐘」に至るまで、全てに判官贔屓の介入が感じられることも確かです。

いずれにせよ、芭蕉の句は高舘を「夢の終焉の地」としています。それに対し、この「義経北行伝説」は同地を「夢のはじまりの地」としている訳です。

皆さんでしたら、どっちを選びますか?

勿論、写真⑦のような北上川は全てを知っていると思いますので、是非平泉は高館に行かれ、感じ取って頂ければと存じます。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。

上記、平泉3か所を以下の地図の青いポイントで提示します。