義経と奥州藤原氏の滅亡 小話③ ~江の島訪問記 その2~

源頼朝が奥州藤原氏の調伏を祈願した江の島。(詳細はこちらをクリック

今回の「Tsure-Tsure」は、その訪問記の第2段です。(地図①

是非、この江の島訪問記は、メインblogである「マイナー・史跡巡り」の記事「義経と奥州藤原氏の滅亡② ~江の島~」と併せてお読み頂ければ幸いです。(こちらをクリック
①前回は「10.辺津宮」まで来ました
1.奉安殿

1180年、石橋山合戦で敗れた後、千葉県は房総半島に逃れて来た頼朝が、ぐるっと東京湾を廻って、鎌倉入りした後、一番恐れた敵は平家ではなく、奥州藤原氏であったと拙著blogで描きました。(詳細はこちらをクリック

それは、平家打倒を源範頼(のりより)義経に任せ、自分は鎌倉から動かなかったこと、その後の奥州合戦には頼朝自ら28万の軍を動かして盛岡まで遠征したことからも明白だと思います。

世間では良く、「頼朝は石橋山合戦で敗北する等、義経程の戦上手ではないから、最強敵である平家打倒は義経らに任せた」と言われますが、決して彼自身は、そんな認識は無いと思います。
やはり奥州王国がある限り動けなかったでしょう。その証拠が1182年に、この江の島の弁財天に奥州藤原氏の調伏を祈願したことにも顕れています。

現在、その調伏祈願の弁財天さん、奉安殿という六角堂のようなお堂の中にあります。(写真②
②奉安殿
このお堂の中の撮影は禁止なので、Webから弁財天さんの写真をお借りします。(写真③
③江の島の弁財天像
弁財天の像は2つあるのです。左の白い弁財天は、皆さん一番馴染みがあるものではないでしょうか?結構新しいように見えますが、これでも鎌倉中期の傑作です。

実は江戸時代、江戸から行楽で江の島の弁財天にお参りする方が多かったようですが、それがこの女性らしく、やさしい感じの弁財天の方がお目当てだったようです。

調伏祈願した像は、右側の像です。白い嫋やかな左の弁天様と比較して、黒くて何やら強そうですね。八臂弁財天と言います。(ちなみに左側は二臂弁財天、八臂や二臂は腕の数です。)

「マイナー・史跡巡り」でも書きましたが、腕の数が右側の弁財天様は8つあります。阿修羅は6本の手ですし、水の神だけにタコを意識したのですかね?

8つの手に8つの技を持つのだそうです。
ちなみに「口八丁手八丁」、この八臂弁財天から来ている言葉だそうです。

つまり、頼朝は「口八丁手八丁」で奥州藤原氏を調伏したのです。具体的に彼がどうやって調伏したのかは「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡」をご笑覧ください。

2.奥津宮

そして、この弁財天は中津宮を経て、奥津宮へと続きます。(写真
④中津宮

⑤奥津宮
この奥津宮の鳥居が頼朝が寄進したものとの記載が吾妻鏡にあります。(現在のこの鳥居は2004年に再建されたレプリカですが。)

その時の様子を吾妻鏡で描いている場面では、頼朝のそうそうたる家臣団がこの江の島の調伏祈願に一緒に来ていることに驚きました。

頼朝は本気だったのですね。バーチャル国家である奥州王国の殲滅は。

3.義経の首

さて、頼朝の奥州藤原氏を調伏し、奥州王国を滅ぼすことが成功した1189年。奥州王国が滅びるちょっと前に義経の首は、この江の島の対岸に当たる腰越の浜に打ち捨てられました。

そこから、本当に首が境川を遡ったのかどうか分かりませんが、写真⑥のように現在の藤沢の国道1号沿い辺りの首洗井戸で、洗われたとあります。(写真⑥
⑥義経首洗い井戸

また義経は、この首洗い井戸の近くの白旗神社に祀られました。(写真⑦
⑦義経を祀った白旗神社

これが史実なのですが、問題は江の島海岸から6㎞も境川を、首が遡ることが出来るかということです。この神社のHPにも、首が遡って来たと書かれています。
私も「マイナー・史跡巡り」では、「どんぶらこ、どんぶらこ」と遡ったと書きました。

しかし、幾ら満潮時でもこの急流な境川を6㎞も遡れるとはとうてい考えられません。

どうしてなのでしょうね?また判官贔屓のなせる技なのでしょうか?祀られている白旗神社が旧東海道沿いであることから、後世、江戸時代の江の島観光目当ての人々が、観光名所としてアクセスしやすい場所にするためではないかと勘繰りたくなってしまいます(笑)。

この件は、もうレジェンドの領域を出ることは難しそうです。

そこで、もう一つ私が感心したレジェンド、江の島のトンボロ形成と話を併せたのが、「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」のエンディングに描いた物語なのです。(詳細はこちら

4.江の島のトンボロ形成について

トンボロ(tombolo)とは、イタリア語で、元々海だった場所に波が運ぶ砂が溜まって、陸地になることを言います。フランスのモンサンミッシェルが有名ですね。

江の島もまさにその現象があります。(写真⑧
⑧江の島のトンボロ
干潮時、1時間程度は、このトンボロの上を歩くことが出来ます。私も昔、海水浴にこの海岸に来て居た時、干潮時に昼寝をしていたら、徐々に東西両側から波が押し寄せ、あっという間に水浸しになった経験があります(笑)。

江の島があれば、トンボロが出来たこと自体はなんらレジェンドではありません。出来る仕組みは図⑨のように、波と砂の力学的な仕組みも解明されていて、実験的にトンボロを発生させることも出来るようです。(図⑨
図⑨ トンボロの出来る仕組み
※江の島水族館ご提供資料より抜粋
レジェンドなのは、江の島でこれが出来たのが1216年と記録にあります。何でよりによって鎌倉幕府が出来たばかりの頃なのでしょうか?1189年に義経の首がこの辺りを漂っていてから27年後です。

江の島自体は2~8万年前には出来ていたようですので、1216年という八臂弁財天を勧請し調伏祈願してから34年後、奥州藤原氏滅亡から27年後にこのトンボロが出来、現在まで800年間そのトンボロは存在し続けているのです。

江の島が出来て、数万年スパンの中で、義経の首が江の島前を通過してから数十年後というタイミングで本土と繋がったという事実は、地質学的に偶然の一致という言葉だけで済ますことが出来ないように感じるのは私だけでしょうか?

なので、「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」のエンディングに描いた物語のように、義経を殺し、奥州王国の殲滅に導いた江の島弁財天と義経の首が和解した象徴として、このトンロボが出来たという新しい伝説が出来ても不思議ではないと思いませんか?(詳細はこちら

江の島から白旗神社に来た私と娘はそんな事を話しながら、この白旗神社から帰路についたのでした。(写真⑩
⑩白旗神社の義経公鎮霊碑前にて
最後までお読み頂き、ありがとうございました。

江島神社、義経首洗井戸、白旗神社の地図はこちら↓