つれつれ鎌倉① ~のぼうの寺・東慶寺~

最近、楠木正成を「マイナー・史跡巡り」で特集していることもあり、太平記の時代を基軸に、鎌倉の由緒ある場所に行くことが数回ありました。

ご存知のように鎌倉は、折り重なるように様々な時代の史跡が密集しております。目的の鎌倉時代末期から建武の新政、室町幕府設立までの頃をターゲットに現地へ行っても、それ以外の時代の史跡にも多々出くわします。

①東慶寺は横須賀線北鎌倉駅から3分
横須賀線は円覚寺の境内を横断している?
それらを私の備忘も含め、連々(「れんれん」ではなく、あえて「つれつれ」と読みます)と紀行文のように記していきたいと考え、このシリーズを立ち上げます。

お付き合いいただければ幸いです。

1.円覚寺の参道

最初に取り上げるのは、東慶寺です。円覚寺ではないです(笑)。

横須賀線の北鎌倉駅を降り、歩いてわずか3分程で、このお寺に着きます。(地図①

高校の頃は、このあたり比較的学校から近かったこともあり、毎週のように学校の後、自転車等で、東慶寺の前を通っていました。

その頃は、東慶寺についても「ああ、駆け込み寺ね。女の人がストーカーに狙われたら逃げ込むお寺でしょ?」くらいの認識しかありませんでした。

むしろ、北鎌倉と言えば、円覚寺!というくらい、ここの庭園等を散策するのが好きで、何度も境内に足を運んだものです。ところが、今回東慶寺に行く途中、円覚寺について初めて認識したことがあります。(写真②
②円覚寺石柱の向こう側をJR線が走る
つまり円覚寺参道をJRが横切っている?
何度もこの石柱の前の県道21号線を行き来しましたが、全然気が付きませんでした。確かに地図①でも円覚寺の白鷺池の北東側をJRが横切っています。

どうやら、これは現在の横須賀線が日清戦争前に急ピッチで造られたことと関係があるようです。

そこで思い出した話があります。文明開化で鉄道が敷かれ始めたころ、その敷設に1つのルールがあったようです。

「海沿いの路線は、敵の艦砲射撃の的になりやすいので極力避けるようにする」

特に横須賀などは軍事基地がある場所。そこへの補給線となる横須賀線には敷設に軍事的な気遣いをかなりしたことが想像できます。

それが即、円覚寺の参道横切り敷設に結び付いたかどうかは、もう少し調査する必要がありますが、円覚寺境内を横切るだけでなく、鎌倉駅付近では、沿岸を避けるため、鶴岡八幡宮若宮大路の段葛(だんかずら)を寸断して線路が敷設されたようです。

横須賀線が開通してから5年後に日清戦争は勃発しました。(1894年)

と想像にかられながら県道21号沿いに歩くこと3分。東慶寺に到着しました。(写真③
③東慶寺山門

2.東慶寺

境内は、鴬等の鳴き声も麗しく、また写真④のような菖蒲畑や、寒雲亭の門(写真⑤)等も美しいだけでなく、落ち着いた雰囲気の日本庭園となっています。
④東慶寺で有名な菖蒲畑の菖蒲


⑤寒雲亭
穏やかな雰囲気に包まれ、奥の墓苑に到着します。

夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることが出来なかった時代に駆け込めば離縁できる女人救済の寺として知られるこの東慶寺。

元寇に対処した名執権・北条時宗(ときむね)の奥さんが建立しました。(1285年)

その後、後醍醐天皇の皇女・用堂尼(ようどうに)が兄・護良親王の供養のために入寺され、「松岡御所」と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せるようになったのです。(写真⑥

護良親王の鎌倉での暗殺は、拙著マイナー・史跡巡り:「首洗井戸③ ~雛鶴姫 その1~」にご紹介しておりますので、ご笑覧ください。

当時、鎌倉を支配・管理していた足利尊氏の弟・直義(なおよし)が、部下に命じて護良親王の暗殺を実行しました。

ただ、その計画には後醍醐天皇ご自身が、阿野廉子の讒言により決めた- いや直義が独断で- いやいや尊氏が決めた-等等 護良親王暗殺に関しては噂や議論が百出するのです。
⑥左:用堂尼のお墓は高い場所に
 右:やぐらの中でちんまりしていらっしゃいます


用堂尼が純粋に兄のことを想い、ここで静かに尼として過ごされたことは、やはり後醍醐天皇を含め、天皇家側で護良親王をどうこうしようと画策したのではなく、足利一族内で、室家に相談無く暗殺を決めたのではないかと、私は用堂尼のお墓に参詣して思いました。(写真⑥

用堂尼のお墓は、皇女のお墓ということで、宮内庁管轄になっております。そのため、他のお墓群とは囲いによって分けられています。(360度写真⑦参照:白いTシャツを着た方が立っているやぐらが用堂尼のお墓、隣のやぐらは東慶寺を建立した時宗の妻の墓)

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 ⑦東慶寺の高徳な方々のお墓群

3.甲斐姫のお墓

さて、このお墓群の中で、最近ネットで話題に挙げられているのが、映画「のぼうの城」で有名になった甲斐姫のお墓です。

⑧映画「のぼうの城」の甲斐姫
この映画では、榮倉奈々さんが甲斐姫の役を演じております。(写真⑧

拙著:マイナー・史跡巡りでも「のぼうの三成 ~忍城水攻めに見る石田三成~」で概要は取り上げておりますので、そちらもご笑覧いただけると嬉しいです。

豊臣軍の小田原攻めで、現在の埼玉県は行田市にある忍城を石田三成が2万の兵で攻めます。守る「のぼう」こと成田長親や、この甲斐姫ら忍城側の兵力は500。この寡兵を持って大軍を迎え撃つのに、のぼうや甲斐姫らが奇策でもって立ち向かうという痛快劇であると同時に、真のリーダーとは何かを考えさせられる作品となっているものです。(写真➈

この映画の中で、石田三成に当初降伏する予定だった「のぼう」が突如「戦いまする!」と翻意したことの一因が、「甲斐姫を秀吉の側室として召し出す」という三成側の条件を「のぼう」が飲めないと判断したんだと甲斐姫は思い込み、「のぼう」を信頼して意気揚々と戦います。
⑨映画「のぼうの城」
Wikiによると、この甲斐姫、「東国無双の美人」と評される一方で、非常に勇猛果敢な女武者振りから「男子であれば、成田家を中興させて天下に名を成す人物になっていた」との評価もあったと伝えられますので、映画の役柄も伊達では無いのかも知れません。

ところがところが、忍城は落ちずに小田原征伐の終戦を迎えると、「のぼう」は甲斐姫を秀吉の側室に出してしまいます。榮倉奈々もガッカリです(笑)。実はこれには「のぼう」の大きな甲斐姫に対する愛があったのですが、甲斐姫は理解できたかどうか・・・。

さて、失意だったかどうか定かではありませんが、豊臣家に入った甲斐姫、一説には淀殿の信任を得て豊臣秀頼の養育係を務め、武勇を生かして隠密的な役割を果たしたと言う事です。

そして、秀頼と側室との間に生まれた娘(後の天秀尼)の養育係を務めたとの説があるのです。大阪夏の陣の時に、この秀頼の娘は、甲斐姫の大きな支援のお蔭で、男性であっても困難な大阪城という戦場からの脱出行をし、かつ甲斐姫が、家康の孫娘・千姫に対して助命嘆願の支援をしたことで、命を取り留めるのです。

そして甲斐姫は、この秀頼の娘と共に、ここ東慶寺に入るのです。
その後、死の間際まで、天秀尼となった彼女を甲斐姫は守り続けたのだろうといわれています。(写真⑩
⑩天秀尼の墓(右写真の右の丸い墓石)の横には
従者のものと見られる宝篋印塔(写真左)がある
これが甲斐姫のお墓との説が有力になってきている
上記、360度写真⑦で、私はこの甲斐姫の宝篋印塔の目の前に立って撮影しています(笑)。
⑪東慶寺御朱印

ただ、残念ながら、このお墓が甲斐姫のお墓であるとの史料は東慶寺には何も残っていないのだそうです。

4.おわりに

様々な状況証拠を鑑みると、やはり甲斐姫がこの東慶寺で天秀尼と共に暮らしていたのは事実のようです。

こんな平和なお寺でどんな余生を暮らしていたのでしょう?

高校生の時にいつもこのお寺の前を通るたび、「縁切寺、駆け込み寺、つまりここに逃げて来る人は弱い立場で可哀想な女性ではないか」とステレオタイプ的に想像していましたが、甲斐姫のような強くて戦国時代の戦場を駆け抜けて来た女武者もいたことを想うと、流石800年の長きにわたる東慶寺の奥深さを、この雰囲気の良い日本庭園の中で、感じることができました。(写真⑪

《つづく》

ご精読ありがとうございました。次は足利尊氏のお墓のある長寿寺から、大姫に関係の深い岩船地蔵堂を特集します。

【東慶寺】〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内1367