中尊寺金色堂 小話① ~じゃじゃ麺~
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中尊寺金色堂 小話① ~じゃじゃ麺~

私のマイナー史跡巡りという行動は、現地に向かう前の事前調査も少なく、計画性も無く、行った先の史跡で「あ、そうなんだ!じゃあ、これはどこで起きたのかな?」と呟きながら、リアルタイムでググります。

すると、その史実に関しての知識と同時に、関連史跡も分かるので、次にその中で興味のある史跡へ移動します。

そこでまた「あ、そうなんだ!じゃあ、・・・」の連鎖により、段々分かってくるという感じです。

本当に最近はIT化で便利な世の中になりました。かなりマイナーな史跡でも、Google検索と、GoogleMapさえあれば、最短で到着できます。

スマホさえあれば、効率よく情報を探し、行動できる時代。最近は写真のように、車据え付けのカーナビよりも、GoogleMapのカーナビの方ばかり使います(笑)(写真①)
①車載のカーナビよりスマホのGoogleMapを使う

中学生の頃は、図書館で国土地理院の地図を開き、一生懸命その史跡を調べ、現地でも詳細の場所はどこか分からず、半日歩き廻り史跡を探すのが当たり前でした。

その頃に比べると隔世の感があります。

しかし、効率が良くなった分だけ、弾丸のような史跡訪問行程となり、今度は移動時間・食事時間が勿体なく感じてきました。
そこで日本全国何処に行っても、トイレ、公衆無線LANによる情報収集、美味しいコーヒー、朝飯・昼飯の利用、全てコンビニばかりとなってきております。

こればかりだとさすがに哀しく感じることもあります(笑)。

そこで、今回盛岡に行ったこともあり、せめてもの贅沢(大笑)として、盛岡名物じゃじゃ麺を食べました。(写真②)
②本場盛岡市で食べたじゃじゃ麵

◆ ◇ ◆ ◇
※以降の写真も全て食す前の写真ですので、ご安心して閲覧ください(笑)。

じゃじゃ麺、東京でもたまに社食等で昼に食べたりします。
汁気の無い麺は焼きそばでもなんでもそうですが、鉄板上でジャージャー音がしますから、この麺もその音で東北の人がこの名前を付けたのだろうくらいに思っていました。

Wikiで調べると、元々は中国の家庭料理の1つなのですね。じゃじゃも中国語で「炸醤麺(ジャージアンミエン)」から来ているとのこと。

③コンビニでゲットしたじゃじゃ麺
ただ、コンビニ等でも売っているじゃじゃ麺は、本場とは違って、砂糖などを用いたた甘みが強く、さらに唐辛子や豆板醤などで辛めの味付けがされているのだそうです。

また麺もラーメンなどと同じものが使われていることが多いのだそうで、それで私が「焼きそば等と同じ無水の麺」と感じたのだと思います。(写真③)

で、結局岩手県は盛岡市のじゃじゃ麺が、中国の家庭料理の伝統を一番継承しているとのこと。

私が食べたお店は、「不来方(こずかた)」というお店で、盛岡市内では3番目に古い、じゃじゃ麺の老舗ということで宿泊したホテルから紹介されました。(写真④)
④盛岡市の老舗「不来方」(こずかた)

夏休みとは云え、日曜日の夜だけあって、お店には人があまり居ない、というか私しか居ない状況でしたが、その分、ご店主から色々とじゃじゃ麺について教えて頂けました。

まず、じゃじゃ麺の麺ですが、先程、ラーメンのような無水の麺ではなく、平たいきし麺のような独特の麺を使うのが本場であり、不来方でも写真⑤ような平打ちうどんかきし麺のように感じられる独特の麺でした。(写真⑤)
⑤麺はきし麺のような独特の平麺

これに、特製の肉味噌とキュウリ、ネギをかけ、好みに合わせたトッピング(私の場合はチャーシューです)をします。(写真⑥)
⑥肉味噌とキュウリ、肉味噌の奥にネギ、
チャーシューのトッピングと右は薬味類

そして、これに、薬味としてラー油、お酢、おろしショウガやニンニクをかけ、グワーッと良くかき混ぜ、写真⑤のような状態にします。

この肉味噌とキュウリと麺等が良く絡んで、甘辛くとても美味しいです。ラーメンとも和麺とも違うこの食感は独特ですね。東京で食べるじゃじゃ麺とも違い、独特の盛岡らしさを感じます。

食べながら、ふと目に留まったテーブル上写真⑦左の”ちーたんたん”。
「これは何ですか?」とご店主に聞きましたところ、写真⑦の右側ようなものであることが分かりました。(写真⑦)
⑦ちーたんたん
うどん・そば等の和麺によくある「蕎麦湯」をベースにして卵で溶いたスープです!

これもなかなかでした。「蕎麦湯」って栄養価が高いと言われていますよね。やはり盛岡じゃじゃ麺も独特とは云うものの、和麺と同じような製作方法で、その茹で汁は栄養価が高く、スープにするのですね。

この盛岡じゃじゃ麺、ご店主のお話ですと、戦前の旧満州で、中国人たちが寒い冬等に良く食べる家庭料理の味が忘れられず、終戦後、盛岡に復員されてきて、日本の麺等の食材を使って屋台を始めたのが始まりだそうです。

そして盛岡の人たちの舌に合うようにアレンジを繰り返し、「じゃじゃ麺」としての独特の味を形成したのだそうです。

宇都宮餃子と同じような経緯ですね。

面白いのは、宇都宮餃子も満州でのスイトンから。このじゃじゃ麺も満州。

満州は冬場はかなり寒いのです。

盛岡等東北も宇都宮もかなり寒い土地で満州に似ています。そういう気候の共通性もあるので、親しみやすい料理となったのではないでしょうか?

◆ ◇ ◆ ◇
「不来方(こずかた)」って洒落た名前をお店につけたなあと、この時は思いましたが、翌日見て廻った市内の「盛岡城」は、地元の南部氏に盛岡と名付けられる前570年間は「不来方城」と呼ばれていたことを初めて知りました。(写真⑧)
⑧盛岡城は570年間「不来方城」だった

また、岩手を代表する石川啄木の詩に
⑨盛岡城にある啄木の詩

不来方(こずかた)の
お城の草に寝ころびて
空に吸はれし十五の心

というのがありましたね。(写真⑨)

この不来方という地名、お店でちょっと洒落ているなあと感じたのは、「来ない方」なんて、山下達郎の大ヒット曲「クリスマス・イブ」の中の「きっと君は来ない」の歌詞を彷彿させるじゃないですか。恋愛チックでロマンスがあるなあと思ったのです。

ところが、由来を調べると福島県いわき市の勿来(なこそ)と同じで、「来ないで欲しい方」、勿来も「な来(こ)そ」すなわち「来るなかれ」。

これは、当時京にあった朝廷から「こっち(京)へ来るな!」と言われていた地名ということです。酷いですよね。

「マイナー・史跡巡り」の中尊寺金色堂シリーズで描いていますが、結局朝廷は力があるけど従わない東北の蝦夷(えみし)を敵視すること甚だしい歴史の傷が、この「不来方」という名前にあるのです。

全然ロマンチックでないですね。それで南部氏は、この城の名前が良くないと考え「盛岡城」にしたようですよ。

また長くなりました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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中尊寺金色堂 小話③ ~納豆~

後三年合戦の「その3」楽しんで頂けましたでしょうか?

「沼柵」での戦いは、清衡家衡(きよひら・いえひら)の勝利。秋田県特有の豪雪が強力な味方だったようです。
源義家(みなもとのよしいえ)は、この戦ほど惨めに負けたことは無かったようで、めちゃくちゃ悔しがったようです。

さて、その沼柵での敗戦における有名なエピソードに、この戦が納豆発祥の元となったというものがあります。(写真①)

この戦中、どのような経緯で納豆が発見されたのか?次のようになっています。

「マイナー・史跡巡り」でも描きましたように、「沼柵」を攻めあぐねた義家・清衡軍は、冬将軍が来るまで、この場所に停滞することになります。2m以上の豪雪と家衡らのゲリラ戦法により、義家らの本拠多賀城からの補給路は絶たれ、病人続出、戦闘続行は不可能な状況になりつつあります。(写真②)


この時、この食料不足をなんとかしなければならないと考えた義家の部下らは、近くの農民から食料の供出を頼みます。

しかし、ちょうどこの沼柵攻略時の出羽(秋田県)は凶作で、供出できるものと言ったら、大豆くらいしかありませんでした。

そこで、義家軍の兵士たちは、農民にその大豆で大量の煮豆を作らせます。

ところが、この供出作業中、また家衡らのゲリラ戦による食料補給妨害が始まってしまうのです。

時間がないので、焦った義家軍は、農民の作った煮豆を藁(わら)で作った俵に入れて、陣に戻ります。義家の軍は、源氏らしく馬が中心だったと「マイナー・史跡巡り」に書きましたが、この時もその俵を馬の背に負わせて、戦で盗られては叶わないと、全力で走り戻ったのでした。(絵③)

さて、このように集めた大量の煮豆を陣中に納めるのですが、2,3日経つとなんと、この煮豆が匂いを放ち、糸を引くようにになっていました。

どうやら、逃げ帰る時に馬が汗をかいたせいで、煮豆を包んだ藁内の菌が増殖し、発酵したのでしょう。

「しょ、食料が皆腐っている!!」

義家軍はショックです。ただでさえ、補給が上手くいかないのに、現地調達した食料まで腐ってしまうとは、なんとお粗末な兵站計画。もうこの煮豆が食べられないのであれば、撤退しかありません。

でも腐っているなら仕方がありません。さっさと捨てましょうとばかりに俵を持ち上げたある兵士、俵から漏れてくる匂いを嗅ぐと、その悪臭で気分が悪くなるかと思いきや、なにやらこの匂…

B to B to C について

何かの省庁の記事で、あるキャリア企業では、もうBtoCのビジネスモデルは終わり、これからはBtoBtoCのビジネスモデルで食っていくという話が出ていた。

BtoBtoC
なにやら英語っぽくてカッコいい表現だが、要は他人の褌で相撲を取るあれだ。
文字で書くと分かると思うが、論理的には、

BtoC
BtoBtoC
BtoBtoBtoC

のように、幾らでもCの前のBを続けることが出来るが、これが、一昔前の下請け、再下請けのように見られる向きがあった。つまり一番大きな力を持つ企業は、Cへサービスを提供するB、つまりCの直前のBであって、その後のBは全て、このC直前のBに対して言われた通り、発注の通りに製品なりサービスなりを提供するというものであり、C直前のBに比して顧客に対して大きな影響力を持って居ない、いわば黒子というのが、従来の構造のような気がする。

その原因が製品やサービスの特性に対する情報というものを支配している顧客ニーズを把握できる企業がC直前のBであるからという理由が大きいというのが、一番単純化された理由であろう。

ところが、最近IoT等によりこの傾向が変わりつつある。

顧客ニーズというのは、つまり顧客がその製品・サービスに対しての一番のセンサーであったということ、クレームにしても、使い方のアンケートにしても、顧客以上のセンサーは無かった訳である。

ところが、IoT社会は、製品自体のセンシングや、製造ラインのセンシングが可能となったため、顧客へ製品・サービスを提供している企業以上に、製造している企業の方が製品に対する顧客のニーズ等が分かるようになってきたという次第である。

例えば、米国のGEは飛行機のエンジンを作る。エンジンはボーイング等の会社を経て、各航空会社へ提供される訳であるが、このGEが飛行会社に対し、

「お宅のどんなに優秀なパイロットよりも自分達の方が、燃費の良い飛行機の飛び方や飛行経路が分かりますよ。」

と提案したら、どうであろうか?

彼らは航空エンジンのデータを、製品完成後にもセンシングを膨大なデータベースにより、取得・集計しているのである。

これらのデータは、当然、その時の飛行機の飛び方や燃料効率のデータ等と併せて取得されるため、飛び方や経路等とどのような相関関係があるのかが分析され、先の提案のような事が言えるのである。

また、この運用中のセン…

中尊寺金色堂 小話② ~かわらけ~

今回、後三年合戦を調査するにあたり、一番の激戦地となった横手市は金沢柵に建っている後三年合戦金沢資料館の学芸員の方に、色々とご指導を頂きました。(写真①)

この学芸員の方、ご丁寧に後三年合戦の史料をコピーして下さる等、本当に良くして下さったので、何か恩返しをしたいと思いましたが、こちらは何もお返しできるようなものは持って居ません。

ふと、資料館受付の横にある土産もの(と言っても3点しかありませんでしたが)に目を止めると、珍しいものが目に留まりました。

「後三年かわらけ」と書かれた綺麗な箱です。箱の表に描かれているのは後三年合戦絵巻。まだ「マイナー・史跡巡り」には描いていませんが、義家が、潜んでいる家衡のゲリラ部隊を雁の飛び方で発見し、掃討する場面が描かれています。(写真②)

「かわらけ」と言えば、なにやら土器のようなものくらいの知識しかありませんでしたが、兎に角、学芸員殿への御恩返しとばかりに購入することにしました。600円だから全然御恩返しにはなっていないと思いますが・・・(笑)。

さて、家に持ち帰り開けてみますと、変哲の無い「かわらけ」1皿と資料館からの解説書が1枚。(写真③)

解説書によると、「かわらけ」は平安時代から近年まで、主に宴会用の使い捨て容器として利用されてきました。

見た通り素焼きで、釉(うわぐすり)を塗っていません。(写真④)
これは、使い捨ての器であることから、釉塗布のコスト等を掛けずに、安く作成できること、捨てた後、土に還りやすい等、環境にも優しいという利点があります。

つまり、現代の紙皿とほぼ同じ位置づけなのですね。(勿論、紙皿は土に還りやすいのでなく燃やしますが)

では、何故この平安の紙皿である「かわらけ」が後三年合戦のお土産として売られる程、重要なのかと言うと、この後三年合戦のメイン舞台となる秋田県横手市にある清原一族の拠点から、大量にこの「かわらけ」が出土しているのです。
しょっちゅう宴会が開かれており、それが清原氏の勢力の大きさを表しているということです。

なので「かわらけ」は、単なる平安時代の紙皿というだけのモノではなく、出土する量に等よって、その一族の勢力を計る一つのバロメータなのです。

ちなみに、この「かわらけ」は、素焼きであるがため、お酒を飲む前に水に浸けて水分を含ませないと、お酒が器に染み込んで勿体無いことになるだけでな…

為朝の矢 小話① 源平パイ合戦

皆さん良くご存じの歴史に名が残りそうな(?)2つのパイの話をさせてください。 我が家は子供たちを含め、結構この2つのパイが好きです。(写真①) なんとなく、これらの菓子をバリバリ食べながら思いつくことがありましたので、Tsure-Tsureなるままに書いていきます。
1.源氏パイ

発売された1965年の翌年の大河ドラマが「源義経」だったので、それにあやかり作りました。 大河ドラマがきっかけとは、ちょっと軽くないでしょうか?

ただ、大河ドラマがTVで放映されはじめたのが、この「源義経」の2年前の1963年で、放送自体が始まったばかりでした。

グラフ②を見て下さい。(グラフ②)

「源義経」が始まる前の2年間(1964、1965年)は、平均視聴率がなんと30%以上です。
ピーク時には50%を超えていたそうです。

これだけ視聴率が高いと、次のドラマ「源義経」にも俄然期待が掛かり、お菓子メーカーが、その上り調子にあやかり、「源氏パイ」と命名する気持ちも分かります。

そして、あのハート形の菓子の形状ですが、この理由が、那須与一が屋島の戦いで射抜いた扇の形なのだそうです。(写真③)


50年以上の伝統あるこのお菓子、意外にも単純な命名経緯に、義経も頼朝もびっくりしたことでしょう(笑)。

しかし、世間は「源氏パイ」程、甘く(?)はないのですね。「源義経」はグラフ②にあるように23.5%と20%代に落ちてしまいました。
2.平家パイ

流石に50年前だと、源氏パイのような、今ではちょっと考えつかないような命名経緯になってしまうのかなあと思ったのですが、じゃあ平家パイは?と調べますと、2012年の大河ドラマが「平清盛」だったので、それにあやかったそうです。(;'∀')

50年間、命名の考え方に全く進歩が無い事自体驚きです(笑)。

しかも「平清盛」の視聴率は、大河ドラマ始まって以来最低の12.0%。

それも2008年の「篤姫」以降3年連続で視聴率が落ちているのですから、とても50年前のように「大河ドラマにあやかる」とは程遠い状況だったように見えるのです。
と、これ以上命名について批評するのは控えます。私も一時、今あるサービスの命名で1か月以上議論していた無益な経緯を知る者の一人ですから、きっとこのお菓子の命名についても何人もの苦労された方がいらっしゃるだろう事に同情の念を禁じ…

戸田湾 小話②:駿河湾の海流の流れ

前回伊豆半島の地形に関する火山の話をしましたので、今回は地形と気候に関する海流の話です。

静岡県道17号線を走ると、井田という山間と海に囲まれた、西伊豆らしい小さな村を見下ろせる風光明媚な場所があります。(写真①)

井田には明神池という、海流が湾に砂洲を作り、ついには湾を埋めて出来た池があるようです。

この位置からは、明神池を綺麗に撮ることが難しかったので、海側から撮影された写真をWebから失敬してきました。(写真②)

この明神池と例の戸田湾の砂洲、伊豆半島の西端である大瀬崎(写真③、県道17号線から写しました)の3か所が、駿河湾の海流が造った砂嘴なのです。(写真④)
話脱線しますが、海流による砂の移動で出来た明神池や大瀬崎の砂洲の中の丸い池は、何故か淡水です。

話戻って、写真④で一つ気になったのは、海流の方向が南から北ですね。どうしてこの方向なのでしょうか?Webで色々調べると、どうやら黒潮の流れが西から東なので、その一部が伊豆半島の西側にぶつかり、そこから西伊豆沿岸を北上するのですね。

となると、前回の小話①で述べました伊豆半島の達磨山は夏いつも霧が出ていたとか、読者の方から「天城山の語源は雨木であるくらい、雨が良く降る」というコメントを頂いたのも、なるほど!と理解できます。

伊豆半島は、黒潮のもたらす湿った空気が、半島の達磨山や天城山等の高い山に登ると冷却されて霧や雨になるのでしょう。また、この南からの海流による保湿・保温した空気のお蔭で、伊豆半島は比較的暖かい気候という訳なのでしょう。

この理屈で言うと、千葉の房総半島も同じなのでは?と考えてしまいますが、いかがでしょうか?

---マイナー・史跡巡り関連ブログ(幕末の日露交渉① ~戸田湾へ向かうプチャーチン~)
http://tamaki39.blogspot.jp/2017/02/blog-post_19.html

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日本三大悪人 道鏡 小話②

道鏡について「マイナー・史跡巡り」で描きましたが、それについて、熱心な皆様から、沢山のコメントをFacebookの方に頂きました。

 さて、前回のK氏に続いて、今回の小話はA氏のコメントです。

【A氏コメント】◇ ◆ ◇ ◆ ◇

道鏡巨根伝説は鎌倉初期に成立した歴史物語「水鏡」くらいから登場するようです。

「水鏡」では道鏡が権力が欲しいと一生懸命如意輪観音にお祈りしていたのにぜんぜんご利益なかったので頭にきて小便を引っ掛けていたらどこからともなく虫が飛んできてチクリと刺されてたちまち腫れあがって巨根化、それをきっかけに孝謙天皇(称徳天皇)に気に入られて出世階段を駆け上っていく…という読んでいて眩暈がしてくるような展開でした(笑)。

古典文学の中で道鏡をネタにしている部分を取り上げた本を読んだことがあったのですがそのほとんどが下ネタがらみの笑い話系、金精峠(写真①)のエピソードも含めて昔の人はやはり大悪人というよりギャグキャラクターのような位置づけでとらえていたような気がします。

大悪人扱いされるのは明治以降とか、かなり後になってからなんじゃないでしょうか。

ちょっとまじめな話ですご~く長くなってしまうのですが、奈良時代末期にはまだ天皇制がどのような形で成り立って受け継がれていくのかまだはっきりとした形ができあがっていなかったのだと思います。

天武天皇以来の皇親政治は血族結婚の弊害が出てきて、なかなか健康な後継者が出てこない。

そのために母が藤原氏出身の聖武天皇が即位、さらにその聖武天皇の皇后にはやはり藤原氏出身の光明子が人臣初の形で立后、しかも男子の跡取りがなかなか生まれず阿倍内親王(後の孝謙天皇)が女性で初の立太子…異例尽くめの展開をなし崩し的に既成事実化していた時期ですね。

一方で当時は仏教が大隆盛、大仏はできるわ鑑真は来るわトップに立っているはずの天皇は「わたしは三宝の奴」とか言い出して仏教を持ち上げます。

そんな中で仏教における師弟関係が擬似的な親子関係として位置づけられる「法脈」という流れが出来上がっていき、やがてそれが血縁関係による流れ「血脈」と同等の扱いを受けるようになっていく。

なので師弟関係の道鏡と孝謙天皇は法脈のうえからすると親子と同等の関係にある。そして天皇家はかつて奈良時代の直前に文武天皇→元明天皇という息子から母親という継承パターンがあった…

映画「ダンケルク」

映画「ダンケルク」を見てきました。(写真①)

あまり前評判も知識も無いまま、NHKジャーナルのPodCastを聞いた時に、そこそこの評価がされていたのでチョイスしたのですが、これが想像以上に面白かったです。


「陸・海・空」の3つの恐怖というかハラハラドキドキが楽しめる、とは云うものの、戦争アクションにありがちなドンパチドンパチという訳では無く、かと言って、もう一方でよくある悲惨な感じもない、つまり説教臭くないのです。

また、そこで起きている事象については、陸海空それぞれの視点で描かれているので、時間的に遡ったり、先に進んでいたり、映画の途中で、「あ、さっきの映像は、この話の今上映しているこの場面を空から見たものだったのだな。」等の話の戻りが何もナレーションも無く進みます。これも話にメリハリを付けているので、最初から最後まで話に飽きが来ないようになっています。

そして、この手の戦争映画は長いことが多いのですが、1時間45分と比較的短いです。

是非、お薦めします。

ただ、私は、見た後に知ったのですが、ダンケルクについて、以下の基礎知識がある方が映画の背景が分かり、理解が進みやすかったなあと反省しています(笑)。

これから見に行かれる方で、「ダンケルクって何だ?」と思われる方は、是非ご一読下さい。

◆ ◇ ◆ ◇

第2次世界大戦初期の1939年の西部戦線、ドイツ軍は戦車、航空機等の新しい兵器等を最大限活用した戦法、電撃戦を編み出し、英仏軍をヨーロッパ大陸から駆逐し始めます。(写真②)

初期のドイツ軍は凄いですからね。何が凄いかと言うと技術力です。

フォルクスワーゲンを開発した技術、アウトバーンのような高速道路も大戦前に作っていますし、航空機、戦車、Uボート、大概の近代兵器は非常にレベルの高いものを作り出しました。(写真③)

戦争初期は、それらの技術を駆使した兵器を総動員して、ヨーロッパ大陸内の英仏軍に宛てたのですから、それは英仏軍はどんどん追いやられる訳です。

1940年には、ベルギー・フランス国境を突破し、英仏軍をフランスの国境の街、ダンケルクに追い込みます。(地図④)

ダンケルクはフランスの最北端の街であることから、ドーバー海峡を渡れば仏兵士たちはイギリスへ逃げることが出来ます。

ただ、ここに40万人もの兵士が追い込まれたのです。40万人一気にドーバー海峡を渡ること…

クロアゲハ羽化2

今日、妻から昼休みにLINEがあり、「もう1匹、カボスにクロアゲハの大きな幼虫がいるから確保しようか?」と相談して来ました。

実は、既に我が家には写真①のような大きな幼虫2匹がいるのですが、これが凄い大食漢。庭のカボスの葉の供給力の限界に来ているのです。


前の記事でも書きましたが、奴ら産み付けられた木の葉しか絶対に食べないのです。柑橘系の木(みかん、カボス、山椒も)なら、アゲハは何でも卵を産み付けますが、幼虫の方は、卵が付着した木の葉や茎しか絶対に食べません。同じ種類の木だから大丈夫だろうなんてあげても、何故か飢えても食べずに死んでいくのです。それだけ親であるアゲハを信頼しているのですかね?親が「ここなら大丈夫!」といって産み付けた木の葉なら育つことが出来ると・・・。

ちょっとの間、そんな事を考え、ちらっと禿禿になるカボスを想像しました。
しかし、ここは人命救助(幼虫命救助?)の観点から、「そうだね。鳥に食べられないうちに確保してあげないとね。」と返信しました。

次の妻のリプライは、「カボスにもう居ないや。既に鳥にさらわれたみたい。」

私「・・・」

◆ ◇ ◆ ◇

実は2週間前、前回の記事でご報告した後、また1匹、写真②のように蛹(さなぎ)になりました。以前のレポート時の時の蛹は茶色だった(ここをクリック)のですが、今回の蛹は緑色をしていました。



なので、「ん、これは前回のクロアゲハとは違う種類のアゲハだな。きっと。」と思って羽化を心待ちにしておりましたところ、何と出て来たのは写真③のように、やはりクロアゲハ。ちょっとがっかり、みたいに思いつつも、前回同様に庭で放しました。
ところが、なんとコイツ、飛べないのです。ちょっと飛ぶのですが、直ぐに落ちてバタバタします。どうやら右側の羽が伸びきらないで、少々皺のままなのが原因のようです。

かわいそうに、蛹から孵る時に、羽を上手く蛹のカラから出せなかったのでしょう。
自然界だったら、また即、鳥の餌食です。
もしかしたら、ずっと飛ぶことは出来ないかもしれません。そこでしばらく脱脂綿に砂糖水を作って、ケースの中で飼おうということになりました。

◆ ◇ ◆ ◇

やはり、先にお話ししたちょっと見ぬ間に食べられてしまった大きな幼虫も、このアゲハもそうですが、我々はヒラヒラ飛んでいる蝶を見ると、卵から幼虫を経て、蛹から蝶へと華麗な転身を…

クラーク・カレー

今日のお昼は、Facebook友達からのご紹介もあったので、隣にある「学士会館」にて「クラーク・カレー」を食べました。(写真①)
クラーク、そう、あの「Boys, be ambitious!」で有名な、北大(当時の札幌農学校)の初代教頭、明治初期の招聘外国人、クラーク博士です。(写真②)
なんで、東京大学の会館である学士会館にクラーク博士のカレーがあるの?って思っていたのですが、私の大間違いでした。 
学士会館は、旧帝大系全ての会「学士会」の会館だったのですね。なので北大も入る訳でした。
写真①を見て頂くと分かるように、野菜類が大変豊富。
かつライスは十穀米です。
これは、当時あまりお金が無く、苦労しながら勉強する北大の学生さんらに、農学校でしたから、北海道の農産物をふんだんに取り入れた料理を食べて元気付けようと、クラーク博士が考案したカレーのようです。
大変ヘルシーですし、辛さもマイルドで、食べやすく、美味しかったです。
この食材ならインテリジェントに午後は仕事できそ(笑)。
1,230円です。(苦学生が支払うには・・・)


ちなみにこの話と直接は関係ないですが、あの新島襄の生誕記念碑が会館横にありました。(写真③)
上州安中藩の板倉伊達守の江戸藩邸が、ここ(?神田?)にあったようで、そこで生まれたのだそうです。
同志社大学ですか。

やはり、この辺り、何かアカデミックな土地の匂いがします。
聡明に仕事をしなくては・・・プレッシャー(T-T)

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首洗井戸 ~雛鶴姫~ 小話

さて、ちょっと話が戻りますが、現代のJKがタイムスリップして雛鶴姫となり護良親王と恋愛をする。これまた今の流行りのようにタイムスリップ恋愛もので作り上げた「キミノ名ヲ。」(絵①) 名前まで、かの有名なタイムスリップものの恋愛アニメ映画と似ていますが、こちらの方が作られたのが古く、なんらパクリはありません。 それどころか、時代考証が意外としっかりしています。
今回拙著のブログの中では、全く出てこなかった北畠顕家がこの小説では重要人物として描かれています。(絵②)
実はこの美男子が、かなり雛鶴姫に横恋慕し、雛鶴姫の心を乱すと同時に、時の有力者の子なので、最強のパトロン的支援をします。
小説の中では、護良親王をはじめ、皆から肌が女のように白いから、「真白」(ましろ)とあだ名で呼ばれていましたが、実際過去の文献でも「真白」と呼ばれていたとの記述がありました。
へーそーなのー、面白ーいと思っていたら、もう一つ上手く史実と話を溶け込ませたエピソードがありました。
それは、現代からJK雛鶴姫と一緒にタイムスリップしてきた弟くんが、彼と孫子の兵法について議論をするのですが、それで孫子のあの「風林火山」を旗にすることをほのめかします。小説の中で明確に武田信玄の「風林火山」だとは言っていませんが、どうも現代から来た弟くんは良く知っている「風林火山」を真白に教えたようなくだりがあるのです。

史実、「風林火山」の旗印を初めて使った武将は、武田信玄ではなくて、北畠顕家となっています。(写真③) 上手いですよね。こういう描き方。分かる人にしか分からない。
ということで、皆さんも是非「キミノ名ヲ。」を読まれ、これらの伏線も楽しまれてはいかがでしょうか?
---マイナー・史跡巡り関連ブログ(首洗井戸③ ~雛鶴姫 その1~) http://tamaki39.blogspot.jp/2017/03/1.html

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