つれつれ鎌倉③ ~大姫の鎮魂・岩船地蔵堂~

前回は、足利尊氏の墓所のある長寿寺をご案内しました。(こちらをクリック
そこから扇ガ谷方面へ亀ケ谷坂という切通しを歩いていきます。(写真①
①亀ヶ谷坂
今回はこの続きからです。


1.亀ケ谷坂

この坂は山之内地区と扇ガ谷(おうぎがやつ)地区を結ぶ坂なのですが、鎌倉では「坂=切通し」なのです。(360°写真②)

Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
 ②亀ヶ谷坂
 ※両脇に切り立つ崖

鎌倉に陸路から入るには、かならずこのような崖と崖の間にある狭隘な「切通し」を経由しなければなりません。当然崖の上から矢などで狙われてしまえば、切通しを通る人はひとたまりもありません。

この切通しを経由しないと鎌倉へ入れない仕組みが、強力な鎌倉防衛の味方なのです。

地図③を見て下さい。これは私の別ブログ「マイナー・史跡巡り」の新田義貞の鎌倉攻めの解説に使った地図です。
③新田義貞の鎌倉攻め地図
この地図からも分かるように、鎌倉は3方を山に囲まれ、南側1方が海という地形を巧みに利用しています。このような外敵から守りやすい要塞のような場所を武家の中心的都市として選んだ源頼朝はやはり凄いですよね。

この地図を少し解説させてください。新田義貞はこの鎌倉を4つの切通しから攻めました。白い⇒で示された箇所です。北側から巨福呂坂(こぶくろざか)、化粧坂、大仏坂、極楽寺坂となります。

この4つの切通し、いずれも先のような防衛性に富んだものとなっているため、当初新田義貞はこれらの4つの切通しを総計10万の大軍で攻めても落とせなかったのです。

結局、「太刀投げ」で有名な海側の稲村ケ崎を経由して鎌倉内に突入した義貞を含む遊撃隊が、極楽寺坂を守備する鎌倉幕府軍を後ろからも攻めることで、やっとこの切通しを落し、そこからなし崩し的に鎌倉を落すのです。しかしながら北側の巨福呂坂と化粧坂は最後まで落ちなかったと聞いています。(写真④
④化粧坂
⑤上杉家2つの家争い
さて、亀ヶ谷坂は、山之内と扇ガ谷を結ぶ切通しなのですが、この2つの地名を上げると思いだしてしまうのが上杉家。
図⑤

山之内上杉の本家が北鎌倉の北側という鎌倉の中心から外れた場所にあったのに対し、扇ガ谷上杉は、かなり鎌倉に近いのです。この間を結んでいるのがこの亀ヶ谷坂であることを考えると、両家の間に切通しがあること自体、やはり同じ上杉家でも対立するはずだよと思ってしまいました(笑)。

勿論、この亀ケ谷坂を両家が武力抗争に使ったことはありません。ただ、皆さん良くご存知の太田道灌、扇谷上杉の分家の方の執事として活躍します。当時山之内上杉の執事である長尾景春の乱を抑えに、新横浜付近にある小机城にも軍を出したのは有名です。(写真⑥
⑥鶴見川からみた小机城(新横浜)
※手前の橋は亀の甲橋で太田道灌がこの橋の袂
(右)にある亀の甲山に小机城攻撃陣を敷いた

2.岩船地蔵堂

さて、そんなことを色々と妄想しながら、亀ヶ谷坂を扇ガ谷方面へ降りていくと、道の分岐点となる場所に写真⑦のような瀟洒な六角堂が見えてきます。(写真⑦

この建物は岩船地蔵堂と呼ばれ、源頼朝と政子の娘・大姫を供養する地蔵堂なのです。
⑦岩船地蔵堂
大姫をご存じの方は多いと思いますが、今一度復習をしましょう。

⑧大姫 藤野もやむさんの「ひとさきの花」から
※大姫の絵は昔から沢山ありますが6歳の幼女に
見えるものは少ないです。私のイメージはこれ
大姫ー頼朝と政子の間に出来た最初の子(長女)です。(絵⑧

6歳の時、同じ源氏同士でありながら、対立していた関係の解消のため、鎌倉へ送られてきた源(木曽)義仲の11歳の長男・義高と婚約することになります。

つまり、義高は人質として頼朝のところに送られた訳です。これは後に徳川家康の孫・千姫が7歳で秀吉の息子・秀頼に嫁いだのと似ています。

義高は11歳にしては背丈が伸び、大人びたイケメンだったようです。

自分が人質として鎌倉に来たことを自覚し、その憂いを含んだ立ち居振る舞いは、周囲の大人からも「いじらしい」と感じられたのです。

一方、大姫は自分の「お婿さん」が来たというので有頂天(笑)。

「義高さま、今日はお寒いので、この服をお召しになって」

「義高さま、黒豆は体に良いのですよ。残してはなりませぬ。」

等々、まるで政子が頼朝に話しかける様子を真似します。いや、それ以上に義高に甲斐甲斐しく尽くそうとするのです。義高もこの「おままごと」のような大姫からの扱われ方に苦笑しつつも、やはりどこか自分は人質だからという諦観もあったのでしょう。苦笑の後に、ふと寂しげな表情を一瞬見せるのです。大姫はわずか6歳といいながらも、そんな義高の表情を見逃してはいなかったのです。

このように大姫に合わせて遊んでいる義高も、時々男の子らしく、馬を引っ張り出し、由比ガ浜や七里ガ浜を駆けまわったり、裏山へ登って故郷の木曽で遊んでいた時のように、木に登ったりする時もあるのでした。

ある時、木から降りる途中、誤って滑ってしまい、小枝に親指をずぶりと刺してしまいました。血をしたたらせて屋敷に帰ってきた義高を見た大姫は火のついたように泣きだします。まるで自分が怪我でもしたかのように「あーん、あーん」と幼い泣き方をするのです。むしろ戸惑ったのは義高でした。

「何でもないよ。ドクダミでもつければすぐに治る」
「だめ!ダメよ!」
大姫は泣きながらもすぐに侍女を呼びつけ、碗に水を汲んでこさせました。それからやわらかい布で義高の傷口を洗い始めるのですが、いくら拭っても、血はあとからあとから湧いてきて止まりません。するとやにわに「かぷ」と大姫が義高の親指を口にくわえたのです。「あ!」と義高は驚きました。大姫はまだ泣きじゃくっています。それはまるで獣が傷口を舐めて癒そうとするかのように。その泣きながら指をくわえ血を止めようとする大姫の姿を義高は不思議なものを見るように黙って見ていました。

この事件があってから、義高の大姫に対する態度が変わりました。

それまでは大姫のいいなりに遊び相手をしていたのですが、逆に義高から大姫を誘うようになったのです。浜遊びや山歩きに大姫を連れて歩くようになったのです。彼らが一番良く行ったのは海の見える小高い丘の上でした。
潮風にふかれながら、義高は長い間、黙って海を見つめているのです。

「何をみていらっしゃるの?」
大姫が訊くと、義高はふりむきもせずに答えます。
「海の上の空」

「え?海ではなくて?」と大姫。
「木曽の空とは青さが違う気がして・・・」
「どんなふうに違うの?」
「うーん、上手く言えないなあ」
「わたしも見たいな。木曽のお空。義高さま、今度私も連れて行って」

義高は大姫の顔を覗き込むように見ました。そのキラキラ光る大きな瞳は、苦しいと思っていた人質生活の中で唯一の宝物のように感じられたのです。彼は無言で懐から1つの黒い小さなネズコ(木曽材)でできた小さな地蔵を取り出し、大姫に渡します。

「それは僕が小さい頃、木曽の山で拾った木を削って作ったものだよ。木曽の匂いがするんだ。本当は木曽の山の誰も知らない祠に入れておいたんだけど、こちらに来るときに持ち出して、それ以来毎日、僕が木曽に帰れますようにと、このお地蔵さんに祈っていたんだ。でも決めた!今度大姫と一緒に木曽に行って、二人で祠に戻そう!」

3.義高の死

さて、義高が大姫と出会ってから1年経った1184年卯月(4月)、突然義高は屋敷から姿を消してしまうのです。大姫は泣き顔で探し続けます。

◇ ◆ ◇ ◆

この1年の間、大姫と義高が仲良くなっていったのとは対照的に、二人の父親・頼朝と義仲の仲は急速に悪化していったのです。義高を人質に出した後、義仲は怒涛の如く都に向い進撃を開始します。義仲は倶利伽羅峠(くりからとうげ)で、牛の角に松明を付けて敵陣に突進させるという奇策で、平家の大軍を打ち破ります。(写真➈
➈倶利伽羅峠の戦い
※牛の角に松明を付けています

引き続き、都目指して進撃してくる義仲軍に恐れおののいた平家は、安徳天皇を奉じて兵庫の新造の都・福原へ落ち延びるのです。この時巧みに平家から逃げ出した後白河法皇は入京してきた義仲に期待するのですが、「木曽の山猿たちが都の食糧を漁りに来た」と悪口を叩かれるくらい、京における義仲の軍律は乱れに乱れ、略奪は当たり前の状態でした。

また、戦は強くても、政治的手腕は皆無に等しい義仲は、1か月も経たないうちに京の持て余し者になっていました。早くも後白河法皇は彼を見限り、頼朝に義仲追討を命じるのです。頼朝は早速、弟の範頼・義経を大将に鎌倉から軍勢を出し、宇治川の戦いで義仲軍を破ります。粟津にいた義仲は北陸に脱出しようとするも顔面に矢を受けて敗死するのです。

父・義仲の死によって、鎌倉にいる義高の立場は急速に危うくなります。頼朝は自分が平清盛に14歳の時に命を助けてもらったことが、平家の甘いところだと強く認識しているのです。つまり、ここで義仲の遺児・義高を生かせば、あの時の自分が生かされたのと同様、きっと父・義仲の仇である自分を討ちに来るに違いないと確信しているのです。

これを最初に察知し、顔色を変えたのは妻・政子でした。彼女はこの1年間で、すっかり素直で優しい義高がお気に入りになったばかりでなく、大姫の義高への慕い方が異常なまでに激しいことを知っていたからです。

政子は侍女たちに義高を密かに女装させ、屋敷を抜け出させたのです。

◇ ◆ ◇ ◆

「ねえ、義高さまはどこにいるの?いつお帰りになるの?」

大姫は手あたり次第に侍女たちに聞きまわり、皆を困らせました。侍女も侍女で、逃がしたとは言えず、上手く説明できないのです。大姫は大声で義高を呼んだり、不機嫌になって周りに当たり散らしました。

屋敷の中の緊張感もにわかに高まりました。というのは頼朝が義高の脱出を知ったのです。御所からこの屋敷に使いが来ては、「どこに逃がした!」「知りませぬ!」との激しい応酬が繰り返されます。
物々しい取り調べの武士たちが捜査に乗り込んできていたのですが、唯一、不幸中の幸いだったのは、幼いからなのか、義高だけに心を奪われていたからなのか、大姫には周囲の喧騒は聞こえなかったようです。

ただ、大姫の駄々は日1日1日と激しくなっていきました。

⑩大船にある義高の墓
ところが、このような状態が続いた6日目の朝・4月26日、白熱した喧騒の渦もピタっと止まりました。さえずる鳥の声さえも聞こえてきません。静寂した冷たい空気が屋敷の中に流れ、人々は沈黙したのです。

義高の死の知らせが屋敷に入ったのです。政子の配慮の甲斐もなく、頼朝の命を受けた御家人の郎党により、義高は入間川の河川(埼玉県)に追い詰められ、無残な最期を遂げたのでした。(写真⑩

侍女たちが顔を蒼白にして沈黙した時、不思議と大姫はむずかることを止めました。
そして、義高の名さえ口にしなくなったのです。

それから2日後、大姫は政子の妹・阿波局(今若、阿野全成の妻)から全てを聞き出します。

「義高さまはお逃げになったのです。でもやっぱり駄目でした。入間川のほとりで掴まって、ずたずたに斬り裂かれて、転げまわって、首を刎ねられ・・・」

4.10年後の大姫

大姫はその日から一切食事を取らなくなりました。そして翌日から大熱を発し、近づこうとするものは母・政子であっても子供とは思えないような力で跳ね飛ばします。

政子は大姫に話をした妹や、義高を殺した頼朝を恨みました。そして2か月後、義高を斬った御家人を梟首(きょうしゅ)にしたのです。やっとその頃、床を離れた大姫に政子は言います。

「お父様(頼朝)のご命令を聞き間違えて、義高を殺した悪いやつらはちゃんとお仕置きしましたからね。姫、これで気が済んだでしょう?」

しかし、大姫は、うつろな目で一点を見つめているだけです。

ー6,7歳の子供のことだ。そのうちけろりと忘れてしまうだろうー

と言った頼朝の言葉を政子は思い出します。政子も周囲の大人も大体そう思ったのです。

それが誤りだったと人々が悟るのは10年も先のことなのです。その時7つでしかない大姫がまさか17、18歳の女と同じ心情にあるとは誰も想像できないのです。

この日以来10年間、大姫はついに普通の健康体には戻りませんでした。体のどこが悪いという訳ではないのですが、10年の傷心が徐々に体を蝕んでいったのです。

17歳になった大姫はそれはそれは美しいのですが、咲きながら命を失っている花の残骸を見るようで、頼朝も政子も心を痛め、自分たちがしたことの業の深さを思い知るばかりでした。

加持祈祷による健康回復祈願は勿論、頼朝の姉の息子である一条高能(いちじょう たかよし)との縁談を進めようとしたこともありました。

この時も大姫は
「母上、おやめください。私の心は義高さまが斬られた時に死んだのです。」
とぞっとするような静かな笑みを湛えながら言うのでした。

それでもあきらめきれない政子は、1195年に上洛した折、後鳥羽上皇の女御(にょうご)として入内させようとしました。女として最高の地位につくことによって、義高のことを忘れるのではないかと期待したのですが、実現する前に大姫は1197年、最後の灯が消えるように、はかなく命を終えるのです。

5.地蔵堂内のお地蔵様

この哀れな死を悼む北条、三浦、梶原氏などの多くの人々が、この地蔵堂のある扇ガ谷に野辺送りにする時、大姫の手にぎゅっと握られていたものがあることに気が付きました。

そう、黒い小さなお地蔵さんです。それは決して綺麗でも完全でも無く、唯々黒くて小さな木片に過ぎなかったのですが、その材質が木曽材であることを知った時、人々はまた泣きました。

この木片であるお地蔵さんは大姫と一緒に埋めることにしたのですが、その場所に木片を模して木造地蔵尊を供養のために安置しました。(写真⑪
⑪岩船地蔵堂にある木造地蔵
勿論、今のこの像は再建されたものですが、良く見ると口紅を付けた可愛らしい女性のお地蔵様であることが分かります。

大姫と義高との悲恋の物語は諸説あり、私の今までのお話も永井路子さんの小説の一部をアレンジして創作したものです。ただ、私は岩船地蔵堂を覗き込んで、この紅をさした綺麗なお顔のお地蔵さんを見た時、大姫とこのお地蔵さんと義高の繋がりについて、色々と妄想が始まりました(笑)。そして史実を曲げない範囲でこんな悲話を描いてみた次第です。

皆さんはどう思われますか?

今回も長くなりました。鎌倉巡りは続きますが、ここでまた、一度筆を置きます。
ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【亀ケ谷坂】神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目10 Unnamed Road 亀ケ谷坂切通
【化粧坂】〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目14−7
【木曾塚(木曽義高の墓)〒247-0056 神奈川県鎌倉市大船5丁目15−19
【岩船地蔵堂】〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目3