ヘダ号 小話① 蒸気船

さて、今回の「幕末の日露交渉② ~ヘダ号の進水~」で、Facebook仲間のある方から「日本は、黒船のような蒸気船等の自律型の艦船の造船技術は相当欲しかっただろうけど、帆船であるヘダ号はそうでも無かったのでは?」というご質問を頂きました。(写真①
蒸気機関が1番欲しい技術だったというのは、その通りだと思います。

やはり黒船で一番ショックだったのは、大砲以上に、あの蒸気によるタービンの回転です。

ある意味帆船は形こそ違えど、日本の千石船と同様、風による受動的な動きしかできませんが、タービンは能動的にどこにでも行き、大砲をぶっ放せる。これは圧倒的ですよね。

実はヘダ号とほぼ同時期に出来た蒸気船があります。薩摩藩が作った雲行丸です。(絵②
②雲行丸
ところが、やはり蒸気圧を抑える釜等は、産業革命を経験してきている欧州とは違い、なかなか上手く出来ず、かなり蒸気漏れがひどく、殆ど馬力の出ない試作品レベルだったようです。

でも、こういうトライ&エラーが大切ですよね。指示した島津斉彬公は流石だと感心します。

実用蒸気船は、黒船来航の翌年には、蒸気船の国産を目指す方針を決定した佐賀藩は鍋島閑叟公が、成功しております。

ただ、この日本で最初の実用蒸気船 凌風丸(りょうふうまる:絵③)を動かすのは1865年、ヘダ号が出来てから10年も後の事になります。
やはり、このタイムスパンで考えると、蒸気船を造る技術が欲しいと考えていた日本側でも、現実的には「まず蒸気機関を搭載する母体である西洋式船の筐体設計技術の習熟を早期に完了する」と考えてもおかしくないですね。それを多分意識したのは、やはり先見の明があった江川太郎左衛門英龍だったのではないでしょうか?

日清・日露戦争では、日本は当時重要な輸出品である生糸を売った資金で、イギリス等から軍艦を買うという所作を繰り返していたのですから、自力で世界に誇れる戦艦を造れるようになったのはまだまだ先の話のようです。

ここからは蛇足です。
この当時の黒船に追いつき追い越したいという日本人の宿願は、バルチック艦隊を破った連合艦隊の三笠のような、その時代の最先端の大砲巨艦を造りたいという思いに変わり、国産の戦艦大和・武蔵の建造するのではと思います。(ちなみに三笠はイギリス産です。)
これが出来たことで、とりあえず宿願は果たせた筈なのですが、残念ながらそれでも黒船の本家米国には、時代が変わっていて勝てなかった。

かなり飛びますが、もしかすると、宇宙戦艦ヤマト(絵④)人気は、日本が黒船に追いつき追い越した筈で、大活躍して欲しかった戦艦大和に対する憧憬が作り出しているのかもしれませんね。
④宇宙戦艦ヤマト
今なら、蒸気機関よりワープ機関?長文失礼しました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


※マップ内の「ヘダ号進水の地」はGoogleマップ様に承認頂き、以下のBlogを公式Blogとして史跡登録したものです。


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