名木探訪記シリーズ③ 禅寺丸柿の原木

 名木探訪シリーズ第3弾は禅寺丸柿の原木について紹介します。(写真①)

①王禅寺境内にある禅寺丸柿の原木

私が住んでいる最寄りのバス停にいつも来るバス。「柿生(かきお)駅行き」と書かれていて、引っ越してきた時から、この地名がずっと気になっていました。
②新田義貞の鎌倉攻めルート地図

柿と関係がある場所なのだろうか?

調べましたところ、答えはYesでした。室町時代初期から昭和40年代に至るまで、ここは甘柿の産地として有名でした。しかも、日本最古の甘柿の品種なのだそうです。

では、この甘柿が出来た経緯と柿生の歴史についてお話します。

1.新田義貞の王禅寺焼払い

以前、私は太平記で新田義貞の鎌倉攻めについて書きました。(ここを参照

新田義貞は自領(現在の群馬県太田市新田)の生品(いくしな)神社にて1333年5月8日に旗揚げをすると、途中、小手指ヶ原、久米川、分倍河原、関戸等で鎌倉幕府軍と戦いながらも、電光石火の勢いで、10日後には鎌倉に迫ります。(地図②参照)

このルートの途上にある王禅寺も鎌倉側の寺社として焼かれてしまいます。

王禅寺は当時、西の高野山、東の王禅寺と呼ばれるくらいの大規模な寺院でした。鎌倉五山とも連携した学問所だったようですので、当然鎌倉幕府よりとされ焼かれたのでしょう。

しかし、鎌倉幕府もかなりの抵抗を見せ、まず鎌倉の第1防衛線である多摩川を背水の陣として戦った分倍河原の戦いでは、一時新田義貞軍を押し返す程の勢いを見せます。

ただ、幕府軍の中の裏切りで内訌が起き、結局、新田軍に多摩川を渡河されてしまいます。そして渡った先の関戸で幕府軍は惨敗すると、もうその後は第2防衛線である鎌倉の外側を窯(かま)のように囲んでいる山々を頼りに奮戦をするのです。

奮戦空しく5月22日にはその防衛線も破られ、鎌倉は火の海と化し、鎌倉幕府は滅びます。

王禅寺周辺にもいくつか新田軍に抵抗した痕跡らしいものがあります。

写真③は、進軍してくる新田軍と鎌倉幕府軍が衝突し、死者を沢山出したとされる白山神社。この麓の谷間は、はかな谷(はかの谷)と呼ばれるとの伝承があります。

③新田軍と幕府軍が戦った白山神社

また、これは伝説ですが、この神社より新田軍が700m進軍した先には 「籠口の池」があります。そこで白龍が現れ、新田軍を呪ったとのことです。(写真④)
④籠口の池

2.禅寺丸柿と柿生

この有名な鎌倉攻めが、甘柿生産とどう関係があるのでしょうか?
⑤王禅寺額と原木になる禅寺丸柿
(出典:麻生観光協会)
この時焼かれた王禅寺を復興せよとの朝廷の命により、等海(とうかい)上人という僧がこの寺の再建にやってきました。

建材探しに王禅寺の山中に入りますと、そこに見たことも無いような丸くて赤い柿がなっていたので、一口食べてみると、非常に甘くて美味しかったのです。

日本最古の甘柿、発見自体は1214年ですが、発見から鎌倉攻めまでの間は王禅寺の僧の間でのみで自生している柿を適当に食べていたようです。(写真⑤)

等海上人は、王禅寺周辺の村々が新田軍の食料強奪で田畑が荒らされたことによる窮状を憂いていました。そこで思い付いたのが、この柿木の枝を折って持ち帰り、早速村人に接木(つぎき)をさせて栽培を広めるということです。
⑥出荷時の禅寺丸柿
(出典:麻生観光協会)

等海上人の想定通り、この柿をこの土地の名産として売り出すと、瞬く間に有名となりました。

世間では「王禅寺丸柿」と呼んで爆発的に売れましたが、そのうちに「王」が取れて「禅寺丸柿」と呼ぶようになったそうです。

この甘柿の人気はかなり長く続きます。

江戸時代になると、江戸という大消費地域を近隣に控えたこともあり、生産量は更にうなぎのぼりとなります。

そして村総出で禅寺丸柿を栽培するこの土地を、(禅寺丸)まれた場所ということで、いつしか「柿生(かきお)」と呼ぶようになったのです。

明治末から昭和初期がピークで出荷量は、最大938トン(大正10年)。

明治天皇にも献上されたようです。

昭和初期には、柿生地区で9000本の禅寺丸柿が栽培されていました。(写真⑥)
この禅寺丸柿の原木が、今でも王禅寺の境内にあるという訳です。(写真①)

3.禅寺丸柿ワインケーキ

ところが昭和40年代に入り、種が少なく実が大きく、甘みの強い富有という新品種が出回るようになると、禅寺丸柿の生産は急速にしぼんでいきます。
⑦禅寺丸柿ワイン
(出典:麻生観光協会)

現在は柿生地区での柿の木は2000本程度まで減っているのです。

ただ、柿生地区では、何とかこの伝統ある甘柿を残そうとする懸命な努力が続けられています。

甲州ワイナリーに委託して、禅寺丸柿ワインを製作したり、この柿を使ったお菓子を作ったりしています。

加工することで大きさや種の多さ等、富有に劣る欠点を無くし、甘さだけでなく酸味等も上手く使ったお酒やお菓子にすることで、優位な点を伸ばしているのです。(写真⑦)

◇ ◆ ◇ ◆

私も早速、柿生駅前の洋菓子屋さん「ミツバチ」で、写真⑦の禅寺丸柿ワインを使った「禅寺丸柿ワインケーキ」を購入しました。(写真⑧)
⑧禅寺丸柿ワインケーキを売っているお店「ミツバチ」
※真ん中の看板に「禅寺丸ワインケーキ」と出てますね

禅寺丸ワインケーキの包装はやはり柿色の和紙。洋菓子でありながら、和風な感じが美しいです。(写真⑨)
⑨禅寺丸ワインケーキ包装

中身は自家製パウンドケーキなのですが、丁寧に写真⑦の禅寺丸柿ワインを染み込ませてあり、最低1週間は寝かせているようです。(写真⑩)

⑩禅寺丸ワインケーキ

⑪分倍河原駅に立つ鎌倉攻めの新田義貞像
パウンドケーキ特有の滑らかなくちどけが楽しめると同時に、柿の香りとワインのさわやかな風味を楽しむことができます。

4.まとめ

新田義貞の鎌倉攻めで苦しむことになった王禅寺とその周辺の村人たち。(写真⑪)

しかし、かえってそれが禅寺丸柿の生産のきっかけとなった訳ですから、まさに「禍を転じて福と為す」ですね。

この禅寺丸柿の原木のある王禅寺は住宅街にありながら、緑豊かな山の奥という雰囲気を醸し出しています。是非一度禅寺丸柿のお菓子やワインを購入がてら、この原木を見に来て頂きたいと思います。(写真⑫)
⑫王禅寺山門

ご精読頂き、ありがとうございました。