楠木正成の史跡巡り① ~金剛山方面~

今日は1日、楠木正成の(1)生誕の地(2)下赤坂城と棚田(3)上赤坂城(4)千早城を廻ってきました。

また、後醍醐天皇が楠(くすのき)の下に席を設けられた夢を見ることによって、楠木正成を召喚することとなった(5)笠置山にも行ってきました。

気温が高いので、どの場所も暑いですし、山道杖をついて登っているのは私しか居ない状況が続きました。

順番でなくて恐縮ですが、写真①は上赤坂城にアブが集る中、また熊が出そうな中を誰も居ない中、一人だけで登った末の絶景です。(写真①)

①上赤坂城址からの大阪平野絶景

大阪方面・神戸方面が全部見通せる素晴らしい景色は、それまでの苦労を吹き飛ばし、また「なんで楠木正成は、こんなところに城を築いたのだろう?」という疑問を払拭するのに十分な景色でした。

しかしこの時、更に不安にさせる防災放送が、眼下の景色から風に流されて聞こえてきました。

「こちらは富田林警察署です。~の犯人が逃走しております。身長163cm・・・・。入れ墨・・・・」

熊に襲われるのも怖いですし、途中ハチにも襲われそうだったり、ヘビが目の前横切ったりして恐ろしかったですが、凶悪犯が山登ってきたらどうしよう!163㎝ならおれの方が10cm以上大きいから、この杖で闘うか・・・。

等と怯えながら下山しました(笑)。

家に帰ると、結構ニュースで大々的に報道されているのですね。驚きました。
一刻も早く逃走犯が捕まることを祈ります。

2枚目の写真は下赤坂城の棚田(写真②)、3枚目は下赤坂城(写真③)。4枚目は千早城の急こう配過ぎる階段(一気に200m登ります)(写真④)。
②下赤坂城の棚田

③下赤坂城


④千早城の急こう配過ぎる階段

5枚目は、笠置山の巨岩たちです。(この直ぐ近くに後醍醐天皇の皇居がありました。)(写真⑤)

⑤笠置山の巨岩たち

休みの後半は神戸の湊川神社辺りの楠木正成を調査する予定です。

またいつか、楠木正成についても「マイナー・史跡巡り」に掲載したいと考えています。

中尊寺金色堂 小話⑪ ~東北調査紀行7~

前回、私が九戸(くのへ)城に到着したところまでを描きました。(前回のBlogはこちらをクリック

今回も、この九戸城について描きたいと思いますが、たった5千の兵で九戸城に立て篭もり、6万5千の豊臣軍と対抗した九戸政実(まささね)の乱の話は以前のブログ(「中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~」「中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~」)で詳細述べております。

ただ、この乱に至る経緯は、九戸政実や秀吉軍の石田三成らの視点を中心に描いています。

今回の訪問記では、この九戸城で政実を攻めた南部信直(なんぶのぶなお、以下信直)の視点で描いてみたいと思います。(絵①

彼はこの乱の後、晩年までこの九戸城で過ごしたのです。

1.南部家の発祥

南部氏は、平安時代末期の前九年・後三年の役で有名な源義家(よしいえ)の弟・義光(よしみつ)を開祖とする甲斐武田家の分派です。甲州(今の山梨県)の南部、富士川の西側一帯が所領だったので「南部」というのです。(地図②

◆ ◇ ◆ ◇
脱線しますが、昔大河ドラマの「獅子の時代」を見た私は、幕末の菅原文太扮する会津藩士たちが、会津戦争敗戦後に青森県下北半島に移住させられ、斗南(となみ)藩を建設したと知りました。(写真③

その話の中で斗南とは、「北斗以南の良い土地」という意味で、「南!」であると強調し、激しい寒さであることをネグレクトするような命名話が出て来たのを覚えています。

グリーンランドの命名経緯と似ているなあと思ったものです。グリーンランドもアイスランドの首領が、「西に行けば、緑が豊かな土地(グリーンランド)がある。」と入植者を募った時に、さも暖かそうな名前をつけて、極寒の地へいざなったことは有名です。

なので、てっきり南部氏についても、「斗南と同じく、また相当厳しい寒冷地にあっても、『ここは南部だ!』的な表現をして頑張っている一族なのだろう。」くらいに思っていました。

まさか甲州の南部が彼らの所領だったからとは思ってもみなかったですね。

◆ ◇ ◆ ◇

話を戻します。新羅三郎(しんらさぶろう)義光(源義光)から起きた甲斐源氏の一派、南部氏の開祖と言われるのが、南部光行(みつゆき)です。(絵④

この南部光行の絵も、旗が武田菱です。この時期の南部氏は甲州武田氏との縁が深そうです。武田と言えば、後に武田信玄が諸将を震撼させた「武田の騎馬隊」で有名なように甲州馬という名馬の生産でも有名ですね。

この南部氏も、この武田氏と同じ甲州で牧場により名馬の生産をしていたと思われます。

その後、1189年に奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、南部光行に、この九戸城を含む陸奥の国(岩手・青森県)一帯を与えます。(地図⑤※この辺り諸説あります)

南部光行は、名馬の生産管理に関し、かなり高い技術を持っていました。当時馬は、軍備として重要な機材ですから、この生産管理に高い能力を発揮できる武将が重宝された訳です。

実は今連載中の「いなげや」に出て来た工藤祐経の工藤氏や曾我氏も馬管理に高い能力を発揮した武将で、盛岡以北に一派が定住しました。(前々回の 「東北史跡巡り⑥ ~厨川柵~」にも陸奥工藤氏の建立した天昌寺の話が出てきます。)

奥州藤原氏時代にも、名馬を京の都へ献上していたのですから、南部氏がここの領有を頼朝から任されたのも、元々の名馬の産地を拡大(軍備拡大)して欲しいとの意識があったと想像します。

一説には、一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)という「戸」という地名は、南部氏が馬の牧を管理する単位として作ったとの説もあります。
この辺り色々と説が出るのは、戦国時代以前の公文書の類が、三戸城と共に焼失してしまったため、良く分かっていないのです。
その説も大変説得力はありますが、各戸が奥州藤原氏時代からあったのではないかと私は想像しています。

通説では光行の息子6人は、それぞれ長男から順に一戸氏、三戸氏、八戸氏、七戸氏、四戸氏、九戸氏を継いだようです。


何故二戸、五戸、六戸が無いのでしょうね?また、1から順ではないですよね?どなたかお詳しい方お教えください(笑)。

本領である甲斐南部領は据え置きのまま、陸奥の国も与えられた南部氏、一部はしばらく
甲斐南部領に残りました。光行の三男・実長(さねなが、上記八戸氏の開祖)は、流罪を解かれて佐渡から戻った日蓮甲斐南部領身延山へ招いたことから、あの日蓮宗の総本山である久遠寺が、この地にあるということなのです。(写真⑥
⑥身延山久遠寺

このような平安末期からの南部氏の流れの中で、その血縁関係の分派から、色々な縁戚武将が出来てしまいました。
九戸氏を始めとする上記各戸がつく分派に加え、大浦氏、久慈氏、石川氏、北氏等も分派した縁戚武将です。

なので、九戸城に立て籠もった九戸政実も南部氏、包囲軍の中に居た津軽為信(つがる ためのぶ)も、津軽に改名前は大浦為信といい、南部氏の縁戚武将なのです。

つまり九戸政実の乱は、ほとんど南部氏内の縁戚争いと言っても過言ではないのです。

2.南部信直と津軽為信

さて、その南部光行から400年弱の1546年、南部氏中興の祖とされる南部信直は生まれます。

彼はまた南部氏縁戚の石川氏の庶子(側室の子)なので、南部氏の血縁者としては、かなり傍流になるのですが、この人が第25代南部家当主になります。

先代(第24代)の南部晴政(はるまさ)には男子が出来なかったのです。そこで血縁者の中から優秀な信直を見つけ、晴政の長女の婿となり養嗣子(ようしし、家督相続する養子)として、ここ九戸城より北北西へわずか13kmの三戸城に迎えられるのです。(地図⑤の三戸城写真参照



⑦津軽為信(作画:ザネリさん)
このワイルドな感じ。
為信のイメージにピッタリです
ところがこの決定の後、晴政に男子が誕生します。よくあることですが晴政は信直が邪魔になってしまうのです。

この構図の代表例は同時代の豊臣秀吉と関白秀次(ひでつぐ)の関係です。

秀次は、秀頼が生まれると、秀吉に疎まれ殺されてしまいますが、信直は違います。やはり運も含めて強い漢(おとこ)は生き抜く力があります。

ただ、晴政に疎まれる時期は、信直もかなり精神的には辛かったと思います。その辛さに拍車をかけるのが津軽為信です。(絵⑦

為信は、信直の実父を、石川城にて攻め滅ぼしてしまうのです。(地図⑤⑨参照
同じ南部氏の血縁ながらですよ。

しかも工事を装って城攻めをするという騙しに近い方法で実父を自害へ追い込んだのです。
晴政にも疎まれ、自分自身の命もいつ無くなるか分からない状況において、縁戚の為信に実父を騙し討ちされた信直。こんなつらい状況でも彼は懸命に明日をつなぎ留めて行くのです。

3.南部家お家騒動

結局、信直は、先代の晴政との対立を避けるために、養嗣子たる立場を辞退して三戸城から引き下がるのです。

ところが、信直が謀反を企んでいると睨んだ晴政は、機会があれば信直を殺害しようとします。

身の危険を感じた信直は、他の南部氏の縁戚(八戸氏や北氏)に、支援や仲介してもらうことで、なんとか晴政と和議を結ぶのです。

しかし、実子が可愛いのは秀吉も晴政も同じです。やはり、一発触発の状態だったのでしょう。些細な事で晴政が信直に攻め掛かります

⑧南部信直と九戸実親(作画:ザネリさん)
信直側は、主に鉄砲で応戦するのですが、晴政を狙わずその馬を射貫き、また当時南部家No.2の九戸実親(さねちか:九戸政実の弟)も、鉄砲で負傷させると、流石に晴政側は撤退します。(絵⑧

しかし、これで身の危険を感じた信直は、八戸氏に匿ってもらうことになります。

そうこうするうちに、晴政が病死をします。
この辺りから、なんとなく信直の反撃が裏で開始されている感じがします。

そして晴政の継承者の実子は、晴政の葬式直後に何者かによって暗殺されるのです。(毒殺との説もあります。)
かなり怪しくないですか?

事実は良く分かっていません。匿ってもらうまでの信直は常に受け身で、義父・晴政に歯向かうことが出来ない立場を貫いているように見えますが、信直にとって、この晴政とその実子2人の死は、それこそ関白秀次にとって、秀吉と秀頼が亡くなったようなものです。

もし、こんな豊臣家のシチュエーションが発生したら、石田三成が黙っていませんよね。同じ様に黙っていなかったのが、南部家No.2の九戸氏です。

4.九戸政実との対立&津軽為信との駆け引き

九戸氏の長である九戸政実は、南部晴政のNo.2であった弟の実親を南部家の当主に推します。(絵⑧
彼らからすれば、信直は被害者面(づら)しているが裏で汚いことをやっている自己中心的な人物であり、そんな奴にはこの蝦夷(えみし)の国を任せられないというスタンスです。

このように南部家No.2の九戸氏との対立を余儀なくされる一方で、信直の頭痛の種は、津軽為信でもあったのです。

津軽為信は、信直の実父を石川城で殺害し、津軽地方における南部氏の勢力を弱めると、客将として津軽の抑えとして南部氏が招へいした奥州の貴種・浪岡北畠氏を浪岡城(御所)にて滅ぼしてしまいます。(地図⑨

⑨津軽氏の勃興
そして、当時一番の実力者である豊臣秀吉に対し、津軽地方の領有を認めさせてしまえば、「南部信直がどうほざこうとも津軽は俺たちのモノ」と言わんばかりに、津軽為信自ら京へ上洛しようとするのです。

最初は船で日本海側から海路を取るも、暴風雨に合い失敗。次に陸路、秋田県側を通って行こうとしますが、これも出羽浅利氏(南部氏と同じ源氏名家)の妨害にあい失敗。

最後は「えーい、ままよ。2000人連れての強行突破じゃ!」と南部氏版図を突っ切ろうとしますが、信直にあえなく撃退。そして、しつこくまた秋田県側からチャレンジしますが秋田氏により撃退。最後は、この秋田氏と和睦し、なんとか部下数人を京へ送り込むことに成功。石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上することで、津軽の所領を安堵してもらうのです。凄い執念です(笑)。

これに焦った信直。地図⑨を見ても分かるように、南部氏の所領の1/4以上が奪われてしまう事態となり、南部家ご先祖様に顔向けできません。信直も中央政権への工作を開始します。

縁のあった前田利家を通じ周旋します。各武将間の私戦を禁じる秀吉の「全国惣無事令」違反として津軽為信を訴えます。

これを前田利家には聞き届けられますが、あとは小田原征伐で東上する豊臣秀吉に直々に謁見することで地図⑨津軽氏版図とされる地域も南部氏版図であると秀吉に認めてもらうために1000の兵を連れて南下するのです。

⑩九戸城の二の丸発掘現場から本丸方向を臨む
※九戸政実の乱で「撫で斬り」となった
二の丸で発掘が進められていました
ところが、この1000の兵を連れての信直の行動を津軽為信は察知します。為信慌てて、若干18名の隠密行動で、スタコラ・スタコラと信直1000の行列を追い越し、秀吉が小田原に入るギリギリ一歩手前の沼津にて謁見する事に成功するのです!

そこで地図⑨の津軽氏版図の本領安堵を秀吉から直々に取り付けてしまうのです。(*≧∀≦*)

一方信直は、予定通り小田原入りした秀吉と謁見します。

「おお、信直殿、ここに入るちょっと前にご縁戚の為信殿が来ましての。津軽の本領安堵を願ったので、そこはご一門仲良くやってくだされや。南部氏の版図は安堵いたす。」
「ははっ!」

と平伏した南部信直。素直に平伏する姿とは裏腹に腹の中は煮えくり返っていたことでしょう。

⑪九戸城・二の丸
※この広い敷地に食糧や鉄砲・弾薬を小屋を
建て、相当量貯め込み始めたとのことです
これ以降300年間、津軽氏版図は津軽藩となって生き残り、南部氏の版図は、この時を持って完全に切り取られてしまったという訳です。

5.九戸政実の乱

信直、この津軽為信の謀略に負けて、へこんでいる暇はありませんでした。

南部氏の本拠である三戸城に帰ってきた信直に反旗を翻したのが、九戸政実です。

南部氏の後継者争いは、信直か?九戸実親か?の結論が統一されないうちに、信直がさっさと秀吉という巨大勢力に媚びに行き、後継者のお墨付きを貰ってしまったとの認識なのです。

「そのような卑怯な当主に従えるか!」とばかりに、彼らは三戸城の目と鼻の先にある九戸城に食糧や武器・弾薬を貯め込み始めました。(写真⑩⑫参照

6.終りに

⑫本丸と二の丸の間の空堀
※後に南部信直の居城として活用時
には水濠にしたようです

長くなりましたので続きはまた次回描きます。

また冒頭に申し上げた以前のブログ「中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~」に、続きに近い話が描かれていますので、是非ご笑覧頂ければと存じます。

更に「中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~」については、九戸政実の乱に至る経緯が秀吉や石田三成側の視点で描かれており、南部信直の視点である本稿とは違った楽しみ方が出来ますので、これもお時間があれば是非ご笑覧ください。

このように、信直は縁戚武将たちに翻弄され、これらをピシャっと抑えるだけのカリスマ性のある当主ではなかったのが辛いところだったのでしょう。しかし、翻弄されているように見える彼の中にも、1つ芯が通っていたようです。大事な場面では取り巻きが救ってくれていますし、何といっても明治まで続く南部氏の中興の祖となれたのですから。

長文ご精読ありがとうございました。次回も是非お読み頂ければ幸いです。


<つづく>

ザネリさんのリンクをもっと見たい方

【ザネリさんのPixivリンクへ】

【甲斐南部領】山梨県南巨摩郡南部町
【身延山久遠寺】山梨県南巨摩郡身延町身延3567
【九戸城】岩手県二戸市福岡城ノ内146−7
【三戸城】青森県三戸郡三戸町梅内城ノ下34
【石川城】青森県弘前市石川大仏下1−3
【浪岡城】青森県青森市浪岡大字浪岡五所14−1

諏訪大社(下社)

昨日、妻の実家の西宮に、家族5人と二匹で帰省しました。

諏訪に立ち寄りたかったので、いつも使う東名高速ではなく、中央自動車道で西に向かいます。
流石山間を通る高速道路だけあって、雲も神々しいですね。(写真①
①中央自動車道から見える夏の空
小仏峠前後の大渋滞を通過し、諏訪インターで降りると、「小作」のほうとうで腹を満たします。(写真②
②小作のほうとう

「この季節にほうとう?」
と思われる方、結構いけますよ。暑くても!カボチャ半分くらいアツアツで入っていますけど(笑)。

途中、諏訪湖の浮き城と言われた高島城に立ち寄りました。(写真③
③諏訪湖の浮城 高島城
そして念願の諏訪大社(下社)に参拝。(写真④
④諏訪大社(下社)

諏訪大社は、かなり歴史が古いようです。
多分古代の自然崇拝の施設などが、段々と今のような形となってきたのでしょうね。

そして、更に西に向かって中央道路を過ぎ、名神高速道路を走ります。(写真⑤
⑤西日を追いかけて運転する娘
西日を追いかけてのドライブは目に厳しいので、娘に運転させました(笑)。

今は無事、西宮でこれを描いています。

ConnectLive2018活動報告① ~Hangout Session7月~

さて、本日、来る10月のConnectLive2018に備えて、Hangoutによるビデオ会議を使ったSessionがありました。

たまたま、昨日3日間の集会の会場となるサンフランシスコのアコモデーションを調べようとHangoutで、今回来る150人が登録するグループと話をしていたら「Tsukuru,明日Sessionだから出席してはどう?」と声を掛けられ、何の準備もせずに参加してしまいました。
Hangoutビデオ会議で使用した機材


イタリア、インド、オーストラリア、ケニア、バングラディシュ等、非常に多岐に渡る国籍の方々が参加し盛り上がりました。
自己紹介等から、Googleマップにおけるローカル・ガイドとしての活動について色々と情報交換をしました。


ところが、私のヒアリング能力が低く、殆ど何を言っているか分かりません(-_-;)。
更に悪いことに、写真①のように2011年に購入したiPad3(左)をHangoutのビデオ会議用にしたのですが、これが古すぎるせいか、音がガンガン割れるのです。

正直、サンフランシスコの米国の方やオーストラリアの方がお話下さる分には多少分かっても、アジア・アフリカの方がお話される少々訛りのある英語はさっぱりでした。しかし参加された他の皆さまは、どの方が話してもしっかり分かっていらっしゃる様子。
②Session中の私

 これはまずい!次回のSessionはまた8月、9月と本番前に2回ありますので、この辺りまでには英会話を挽回して、本番までにはちゃんと出来るように精進せねば(笑)。

ちなみに写真②は、Session中に、インドの方が自分のモニターに写っている私をキャプチャーし、私にお送りくださったものです。懸命に横のPCに書かれたあんちょこ見ながらしゃべっているのがバレバレですね(笑)。

しかし、このようなSession、ほんと気軽に出来る時代になりましたね。ITガジェットフリークの私としては嬉しくてたまりません。こういう機会をガンガン若い人にも提供すれば、お金を掛けなくても世界はもっと近いものになると思うのですが、如何でしょうか?

「時をかける少女」

今週金曜日に放映されていました細田守監督の「時をかける少女」見られた方、いらっしゃいますか?

「未来でまっている」
「走っていく」
の名セリフ(写真①
①名セリフシーン

私的には細田監督の一番好きな作品の中の一番好きなセリフです。

私事で恐縮ですが、「一番好きな歴史小説家は誰ですか?作品は?」と聞かれたら「筒井康隆の『筒井順慶』です!」と答えたくなる程の筒井康隆フリークです。

(勿論、筒井康隆さんは歴史小説家とは分類されていません。ただ、「筒井順慶」は立派な歴史小説。つまり彼は何でも書けるのです。このような素晴らしい恋愛小説も含めて)

司馬遼太郎さんでも、新田次郎さんでも、伊東潤さん、浅田次郎さん、永井路子さんでもなく、筒井康隆さん。中坊から高校に掛けての思春期に読みまくりました。大体彼のショートショートはエロくてまとまりがない(笑)作品ばかりなの(失礼!)ですが、本当に深淵です。

その中で、この「時かけ」も、私が中学生の時読んで感動したのですが、作品自体連載されたのは私が生まれた年なのです。

既に中学生の頃読んでも少々古い感じはしましたが、細田監督の映画を見た時、「ああ、この感覚、中学生の頃読んだ古臭い本と同じだ!」と強く筒井康隆さんの作風を感じたのを覚えています。

それだけ筒井康隆さんのこの作品、時代が変わっても普遍的なものを持っているということですよね。

今回、夕飯食べながら何気に見ていました。
もう3回目になるので、あまり期待していなかったのですが、シナリオに関する新しい発見があったのでご報告します。(既にご存知の方多いでしょうが・・・)

この中に出て来る「魔女おばさん」(写真②
②魔女おばさん(左)
どうしてタイムリープを知っているのかの謎が解けました。

最近、写真③の筒井康隆氏の作品の文庫本を買い直して、読み直しました。(写真③
③筒井康隆氏の原作本
この表紙の絵と、この映画に出て来る写真立ての中の「魔女おばさん」の高校時代の写真(写真④)。
なんと一致しているのです。
④写真立ての中の高校時代のおばさん

なるほど!この細田監督の「時をかける少女」は筒井康隆氏の「時をかける少女」の続編だったのですね!

そして、筒井康隆さんの「時かけ」の主人公「魔法おばさん」は、「未来でまっている」彼氏を待って未だ未婚。

ということは、今回の主人公も・・・。

3回目の鑑賞ですが、また色々と考えさせられてしまいましたよ。細田監督!(笑)。

中尊寺金色堂 小話⑩ ~東北調査紀行6~

盛岡の厨川柵を後にした私は、ここから北へ70km程移動を開始します。

今回、中尊寺から始まった東北史跡巡りの第1の目的は、前九年の役後三年の役、その100年後の奥州合戦等、武士の地位が高まり武家政治が始まる関連史跡をめぐることです。

それ以外にもう1つ、戦国時代が終わる中世武士の終焉の地である九戸(くのへ)城を見たいと考えていました。

ただ、この場合、第1の目的から500年もの差があるので、頭の切り替えができるのだろうか?と考えていましたが、この東北・蝦夷(えみし)の国は、500年経っても一つの信念で貫かれていることを知り、感動しました。

では、厨川柵から70km移動した先に何があるのかを一緒に見ていきましょう。

《前回までの東北紀行文リンク集》
中尊寺金色堂 小話① ~じゃじゃ麺~
中尊寺金色堂 小話② ~かわらけ~
中尊寺金色堂 小話③ ~納豆~
中尊寺金色堂 小話④ ~御霊神社~
中尊寺金色堂 小話⑤ ~東北調査紀行1~
中尊寺金色堂 小話⑥ ~東北調査紀行2~
中尊寺金色堂 小話⑦ ~東北調査紀行3~
中尊寺金色堂 小話⑧ ~東北調査紀行4~
中尊寺金色堂 小話⑨ ~東北調査紀行5~

1.イーハトーブの世界

厨川柵から九戸城のある二戸市まで、国道4号線を使います。この国道、IGRいわて銀河鉄道と、もろに宮沢賢治に関係しそうなネーミングの鉄道の直ぐ横を並走しています。(写真①

ネーミングだけでなく、この沿線はまさに宮沢賢治の世界、山と雲が東京とは違うことに感動しました!
牧歌的というのも、田舎的というのも、ちょっとニュアンスが違うのです。
どの表現もピタッとは来ず、強いていうならこの地域独特の創作童話のような何ともいえない世界が拡がっているのです。

逆に宮沢賢治も、どの一般的な表現もピタッとこの景色に填(は)まらないので、この地域をイーハトーブという仮想的なおとぎの国とする造語を作ったのではないかとまで、想像してしまいます(笑)。(写真②

そんなことを考えながら、のんびりと車を走らせると・・・。

2.弓弭(ゆはず)の泉

国道4号を40㎞位北上したあたりでしょうか?

急に道路右側に「源義家(よしいえ)公ゆかりの地」のような看板が出てきました。

前九年の役の厨川柵を見たばかりの私は、
えっ、ここにも義家関連史跡があるの?でも確か前九年の役で、北進した頼義・義家の軍は厨川柵が終着点だったのだから、それより北のこの地点に何かゆかりの地があるとは考えづらいなあと思い、時間の関係もあるので、パスしてしまいました(笑)。

後で調べるとどうやら、以下のような伝説の地だそうです。

北上川の源泉のようです。なんでも義家が前九年の役の時に、弓のはし(弓弭(ゆはず))で杉の根本を掘ると清水が出て、それが、あの北上川の源流になっているとのこと。(写真③
でもどうなんでしょう?あの悠久の北上川は今から1000年前から流れ出したものではないですし、また八幡太郎義家(源義家)伝説は、日本全国にありますから、やはりこれは伝説なのでしょう。

ただ、宮沢賢治のイーハトーブの概念によって、つい別世界のように感じるこの辺りにもしっかりと武士勃興期の伝説があり、やはりここは日本だなぁと感じながら車を北上させます。

3.九戸城

さて、一戸町を経て、二戸市に入ります。一戸~九戸など「〇戸」は昔の牧場番地を現します。この辺りは奥州名馬の産地なのです。

なので八戸市ですら、現在では工業と物流(港)として有名ですが、命名された頃はやはり名馬飼育のための牧場番地だった訳です。

二戸市なのですが、ここに九戸城があります。(写真④
城が近いと思い車を走らせていると、いきなり大きな堀のような跡が出てきました。(写真⑤
堀の横に立派な上り坂があったので、これを登ると駐車場があるのかなと思い、車で駆け上がると行き止まりでした。

車を降りて、坂を上った先には、本丸っぽい、平な芝生が広がっています。ところどころまだ発掘が進められているらしく、綺麗に採掘された土の跡が露出していました。(写真⑦左

すると「こんなところに車止めちゃ、ダメだよ。」と、ちょうどそれまで昼休みだったらしく、午後の発掘に来られた地元(?)の方々から、声を掛けられました。

「あの~、九戸城見たいんですけど、どこに駐車すれば宜しいでしょうか?」
と聞くと、

⑥九戸城俯瞰図
※三の丸は左上、今いる大手門は中央右下
「三の丸の方に駐車場あるから、そっち廻って。」(俯瞰図⑥

三の丸?三の丸ってどこにあるのだろう(笑)。という私の表情を読み取って頂けたのか、次のように言ってくれました。

「ここは大手門だよ。三の丸は、この坂くだって右折して、城山沿いに行けば『九戸城エントランス広場』って案内出て来るから」

「ありがとうございます!」

と挨拶し、バックで大手門への坂から車を出すと、すぐ横に立つ「史跡 九戸城跡」の石柱をパチリ。(写真⑦右

九戸城は、九戸政実(くのへまさじつ)という南部氏の一有力武将が、豊臣秀吉の軍6万5千に対してたったの5千の兵で反乱を起こした城として有名なのです。

⑦九戸城発掘現場と史跡石柱
さて、三の丸の駐車場を見つけ、車を止めると、駐車場前に写真⑧のようなプレハブが建っています。
どうやら、この建物が九戸城エントランスの案内所のようです。
⑧駐車場前のプレハブ(九戸城案内所)
窓に貼ってある城縄張りの絵や、九戸城攻めの時の豊臣軍の配置図等を、暑い中外側から眺めていると、中から初老の方が出て来られました。

「今、中でビデオを流してあげるから、是非中へお入んなさい。エアコンもつけてあげるよ。」

とご親切に誘導してくださいます。

4.九戸政実の人気ぶり

⑨九戸政実物語
※クリックするとダウンロードページへ飛びます
中で見たビデオは、やはり中世武士(とりわけ戦国時代)の終焉となった最後の豊臣秀吉軍との戦(いくさ)が、ここ九戸城で起きた「九戸政実の乱」であることを懇切丁寧に解説してくれていました。

詳細は拙著Blog「中世終焉の地・九戸城① ~豊臣軍の奥州侵攻~」および「中世終焉の地・九戸城② ~九戸城の攻防~」をお読み頂ければ、嬉しいです。

このお城で起こった「九戸政実の乱」が
想像していたより奥が深いものであることが分かりました。

ここに来る前は、戦国の世情に疎い一武将である九戸政実が、中央政権から遠いこの地で地元の民を焚き付け、反乱を起こした 程度にしか、想像していませんでした。

しかし、決して九戸政実が世情に疎かったのではなく、彼は強い信念を持ってこの乱を起こしたことを知りました。そして、その信念に基づいた彼の生き様・死に様に地元を中心に多くの人が感動したということが良く分かりました。

その生き方がカッコよく、地元の人が「自分達だけが知っていれば良い話でなく、全国に是非九戸政実について広めたい」という活動が盛んな訳なのです。

案内人の方がくださったパンフレットの中に絵⑨のような漫画の小冊子がありました。漫画で短くまとめてあり、非常に分かりやすく描かれていますので、是非ダウンロードしてお読み頂ければと思います。(地域振興センターが展開しているもので違法ではありませんのでご安心ください。絵⑨をクリックするとダウンロードページに飛びます。ちなみにダウンロードはPDFファイルです。)

この漫画に出て来る政実、20代でしょうか?若くてカッコいいですよね。ところが史実では50代も後半の円熟した御爺さんなのです(笑)。決して若気の至りで、血気盛んに乱を起した訳では無いのです。

この絵に象徴されるかのように、日本史というと我々のような中高年のファンが多い中にあって、九戸政実のファンは、比較的20~30代の若い人が多いように感じます。

この漫画も岩手大学の学生さんが描かれたようです。

私もBlogに九戸政実の話を掲載してから、Twitterなどに、多くの若い日本の歴史を描く漫画家さんとの交流が生まれました。

絵⑩は、私と懇意にしてくださるザネリさんという方の九戸政実のイラストです。

⑩九戸政実(作画:ザネリさん)
どうですか?私はCool Japanの1つと言われる「日本のアニメ」と日本史が融合し、一つの日本美的なものが表現されているこれらのイラストを高く評価しています。

ちなみにこの九戸政実の友であり、最後は、この城で敵対することとなった南部信直(なんぶのぶなお)についても、
ザネリさんは以下のイラストを描いています。(絵⑪
⑪南部信直(作画:ザネリさん)
勿論、こちら南部信直も実際にはかなりの高齢です。

どうして、九戸政実や南部信直等、東北武将らは若い人たちにも人気があり、このように若く描かれることが多いのでしょうか?

⑫九戸政実と南部信直の生き方の違い
を表現した樹があります(次回解説)
次回以降、この課題についても、検証したいと思います。

この城や、ここから離れた九戸村にある政実の首塚、更には南部氏の盛岡城を訪問する中で、段々と分かってきましたので。(写真⑫はご参考

ご精読ありがとうございました。

<つづく>

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【厨川柵】岩手県盛岡市前九年1丁目4
【弓弭(ゆはず)の泉】岩手県岩手郡岩手町御堂
【九戸城】岩手県二戸市福岡城ノ内3−3

中尊寺金色堂 小話⑨ ~東北調査紀行5~

さて、東北紀行2日目は盛岡市から始まります。
市内のホテルを8時に出て、まず向かったのは、厨川柵(くりやがわさく)。(写真①
①厨川柵の中心とされる天昌寺(てんしょうじ)外壁
この柵は、大変有名な柵で、1056年の前九年の役の総仕上げ時と、それから133年後、1189年の頼朝の奥州合戦の総仕上げ時の2回に渡り、「蝦夷(えみし)対 源氏」の構造が描かれることになる場所です。


奥州合戦では、既に平泉でこの合戦の勝利は分かっているのに、源頼朝は、この柵の地にまでわざわざ来て、既に死亡している藤原泰衡の首を柱に八寸釘で打ち付け、28万にも及ぶ追従する軍勢に奥州合戦完勝を印象付ける行動をしたのだろうか?

それが知りたくて、この地に来てみたのですが・・・。

1.厨川柵

あるのは写真②の看板だけなのです。(写真②

この看板の裏の白壁は、天昌寺(てんしょうじ)というお寺のもので、それ以外、それらしいものは何もありません。

②厨川柵疑定所に建つ看板
看板には、やはりここが厨川柵の一部であったことや、この白壁の天昌寺が、その時ここの所領を頼朝から貰った工藤氏と関係が深い事などが書かれています。

工藤氏と言えば、曽我兄弟の敵討ちで有名な悪役に工藤祐経(すけつね)という有名な伊豆地方出身の武将が居ますが、どうもその流れの傍流のようですね。頼朝と伊豆での挙兵時からの戦友だったのでしょう。その分派がこの盛岡の地に南部氏の臣下等になり、中世の間勢力を保っていたようです。

しかし、奥州藤原氏を倒した頼朝がわざわざ28万もの軍勢を従え、凱旋行事をした場所にしては、有名な史跡がある訳ではなく、場所も確定できないようなのです。

これはどういうことなのでしょうか?

この看板から白壁沿いにぐるーっと廻り、この白壁の中のお寺・天昌寺の正面口まで歩きながら考えました。(写真③
③天昌寺正面口
ここの石碑の脇にある天昌寺を説明した看板には、天昌寺の脇にある写真④が、当時の厨川柵の柵防跡のようなことが書かれていました。(写真④
④厨川柵の柵防跡?
当時の史料が非常に少ない等も原因なのでしょうが、いずれにせよ、どこからどこまでが明確に厨川柵だったのかは、歩き回って看板等で確認する限り、まだ特定できないようです。

2.征夷大将軍発祥の地

頼朝はここ厨川柵までやってきたことで、征夷大将軍となりました。

以後、武家の棟梁と言えば、征夷大将軍(秀吉は違いますが)が、明治維新になるまで700年も続く訳です。そのトリガーを引いた場所なのですから、この歴史的遺構が「何も無い」というのは、繰り返しになりますが、本当に不思議です。

それが逆に「どうしてそうなっているのだろう?」とあれこれと考えさせる動機になります。

そこで一つ思いついたことがあります。頼朝は実は「征夷大将軍」という役職をゲットすることに拘っていたのではなく、「将軍」という役職に拘っていたと云うものです。

絵⑤を見てください。
⑤陸奥鎮守府将軍として宴会をする頼義(右上)
出典:東京国立博物館所蔵「前九年合戦絵巻(摸本)」

この絵は、出典に描かれている通り、頼朝から133年昔にこの厨川柵で最後を迎えた「前九年の役」の頃の一巻を描いています。

この時、「まつろわぬ(蝦夷)である安倍一族」を征圧しようと朝廷は、源頼義(よりよし)を陸奥の国府多賀城(仙台)へ派遣します。

この絵は、多賀城へ着任した頼義とその息子義家(よしいえ:絵真ん中)らが、歓迎会を受けている場面を表しています。

絵中、右上にいる頼義の上に「将軍」と書かれているのが分かりますでしょうか?

これは、この当時頼義が「将軍」と呼ばれていたことを象徴しています。
彼が多賀城に赴任した時の役職が、「陸奥鎮守府将軍」というものでした。(表⑥
⑥源頼義と頼朝の比較表
頼義自身はこの官職にそんなに拘ったわけではありません。

ところが、140年後の頼朝は拘りました。彼は頼義の将軍の上を行く、大将軍になりたかったのではないでしょうか。なんか子供みたいですね(笑)。

表⑥全体に集約したことを読み取って頂けると嬉しいのですが、頼朝は全ての点において、140年前の頼義の上を行く源家の棟梁であると武士団に見せたかったのです。

よく、「頼朝は藤原泰衡(やすひら)らの奥州征伐をしたから、蝦夷(奥州)征伐で「征夷」となり、昔坂上田村麻呂が征夷大将軍になったことに因み、征夷大将軍になったのでは?」と聞かれることがありますが、それは少々誤解ではないかと思われます。

というのは、そうであれば、頼朝が征夷大将軍に任命されるのは奥州合戦の前、つまり1189年より前でなければなりません。ところが任命されたのは1192年。つまりこの厨川柵で奥州合戦の勝利を宣言し、戦が終った後なのです。

頼朝が欲しがった「大将軍」、これに該当する役職として朝廷側が候補にしたのは「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」等の複数候補が上がったようです。

「征東将軍」は源義経らに滅ぼされた木曽義仲が任官していたもの、「上将軍」は中国の古い役職としてはありましたが、この役職を含む律令制を採り入れた日本では、未だかつて使われたことの無い役職でした。

となると、残るは今迄良く使われてきた「征夷大将軍」のみ。

また、この役職が決まる時には、既に奥州合戦は終わっているため征服すべき夷(蝦夷)は存在しない、つまり「征夷」という「大将軍」の前の二文字は、現実的には意味が無く、ということは何か問題になるようなことも発生しないということなのです。
(現実的に「征夷」という言葉が問題となってくるのは、ここから約700年後の幕末の「攘夷」論からです。)

そこで、「征夷大将軍」を与えることに朝廷側で決定したという説が、最近有力になってきています。(出典:Wikipedia

3.厨川柵で頼朝が顕示したかったこと

結局、この厨川柵で、源頼朝が、後々、鎌倉武士団と言われる28万の猛者に見せたかったものは何だったのでしょうか?

それは、過去の源氏の中で一番だった頼義を頼朝は越えたぞ!!頼義が討ち漏らした安倍一族の末裔を、頼義が安倍一族を討ち滅ぼしたつもりになっていたこの厨川柵という聖地で、140年後にこの頼朝自身が討ち滅ぼしたぞ!俺は頼義より偉いだろう?歴代の源氏の中でピカ一だろう!頼義らは将軍ではあったが、俺は更に上行く大将軍になってやる。
ではないかと想像しました(笑)。

頼朝は、平家打倒で伊豆で挙兵してから、直ぐに石橋山の合戦ここをクリック)で、関東の平家側鎮圧軍に敗れ、以降戦での完全勝利の経験はありません。富士川の戦いここをクリック)では勝利しましたが、これも戦を仕掛ける前に、水鳥の音で平家軍が逃げ出すという状況ですから、頼朝の武勇を喧伝するには、少々力不足です。その後は弟の義経や範頼らが、平家を西へ西へと追い落とし、最後は山口県下関の「壇ノ浦」で殲滅する訳です。

勿論、頼朝が鎌倉に残ったのは、戦下手だからではありません。奥州藤原氏上総(茨城県)の佐竹氏らの抑えとして、鎌倉に鎮座することにしたのです。

また頼朝は、義経のような戦の現場で状況に応じ臨機応変に戦い方を変え、華々しく平家を追い落とす、いわば戦術肌の人材ではありません。じっくり何年も先を見越して布石する、いわば戦略の人なのです。

なので、頼朝が軍を動かすときにはほぼ勝利は決まっている訳です。

平家打倒の戦略も、頼朝は用意周到に、伊豆の流人生活を送っていた17年間に関東武士団を味方につけるという布石を行っていました。
挙兵し、石橋山で敗れはしたものの、大局的には大軍を組織できると踏んでいたのだと思います。あとは平家を滅ぼすために、部下や自分の親族等から誰か戦術に長けた者を戦現場の指揮官として使えばよいと考えていたのでしょう。

奥州合戦も同じです。先のBlogで述べたように、義経追捕の全国手配をした時から、奥州藤原三代の作った奥州王国を潰す算段は完成していたのでしょう。何も頼朝自ら、岩手県は盛岡市の厨川柵まで遠路はるばる来なくても、奥州王国はつぶれたのです。

ただ、奥州合戦でも現場指揮官を立てると、平家を滅ぼした義経のように、その戦功により朝廷側から反頼朝勢力として使われるリスクがあります。
また頼朝自身がこの合戦で自分が如何に凄い大将なのかを、武士団に示しておいた方が、盤石な鎌倉政権を築くことになると踏んだのだと思います。

数十万の武士団が見守る中、槍を持って頼朝は泰衡と一騎打ち、一寸の差で頼朝が勝ち、高々ととったばかりの泰衡の首級を掲げ、数十万の武士団を前に大音声で勝利宣言をする

なんてことは、哀しいかな戦略の人である頼朝には出来ません。全て論理で殺していくのです。敵である藤原泰衡は、部下によって頼朝が厨川柵に到着前に暗殺。その首級は頼朝に引き渡されます。

そこで彼は表⑥にあるように、140年前の「前九年の役」の頼義の真似をして、既に死亡している泰衡の首級を八寸釘で木柱に打ち付け、晒し首にすることで、28万の武士団への示威行動としたのです。
そして、頼義の「将軍」より偉い「大将軍」を朝廷へ所望するという理屈なのですね。

4.蝦夷(えみし)の人々の気持ち

では、そのような記念すべき鎌倉政権盤石化の礎石となるべき厨川柵に何も無いのはなぜか?

以前、このBlogのシリーズで私は奥州藤原氏の最後の当主である泰衡を以下のように断じてしまいました。(詳細はこちらを参照

「泰衡は、自分たちに起きている事象を、単なる事象としてしか捉えておらず、その裏にある頼朝の深慮遠謀等、全く想像も出来ない人物である」

上記厳しい評価も根拠レスでないことは、こちらのBlogを読んで頂ければ分かるとは思いますが、一方で、実は泰衡は平泉を築いてきた奥州藤原氏の4代目に相応しい文化的慧眼を持った人物だったのかも知れません。

この厨川柵で幼少の頃敗北を味わった藤原(安倍)清衡(きよひら)が平泉に中尊寺を建立して以来、毛越寺・無量光院等、奥州藤原家代々に渡り築いてきた黄金楽土の平泉を、泰衡は頼朝軍によって焼失させる訳にはいかないと考え、あえて腰抜けの汚名を被る覚悟で、平泉から北へ逃亡したという説があります。そして部下の裏切りにより殺害され、頼朝に差し出された首は前九年の役の故事にならい、八寸の釘により木柱に打ち付けられるのです。

もし、これが本当なら、軍略では才の無い泰衡も、精神世界の中では頼朝より上を行く人物だったのかもしません。
いずれにせよ、一つ言えるのは、泰衡は部下に殺害されますが、決して人望の無い人物では無く、その後彼の首は、彼を慕う人々によって、そっと平泉は中尊寺へ戻され、先の奥州藤原三代と対等にミイラ化されるのです。ただ、鎌倉幕府に気を使い、彼の首が入っている首桶には弟の「忠衡(ただひら)公」と書かれることによって、カモフラージュされますが・・・。(写真⑦
⑦奥州藤原氏三代のミイラが入った棺(左)四代目秀衡の首桶には弟の「忠衡」との銘
昭和25年(1950年)の遺体調査では、泰衡の首には縫合された跡があり、手厚く葬られていたことが分かっています。(写真⑧

⑧秀衡の首(ミイラ化)
A:八寸釘の跡 B,C:縫合痕

これらの事実を基に、この厨川柵が何故遺構として残っていないのかを考察しますと、やはり、東北は蝦夷(えみし)の人々にとって、厨川柵で頼義と頼朝、両源氏の棟梁が行った行為は、無理無体な迫害としてしか映らないのではないでしょうか。
いくら武家政治の基盤の始まりなどと言っても、蝦夷にとっては、迫害以外の何ものでも無く、それらは蝦夷にとって消し去りたい記憶の1つなのではないか。だからこそ、この厨川柵の史跡は殆ど無くなり、この土地を頼朝に与えられた工藤氏は、敗者である安倍・藤原一族のために天昌寺を建立していたのではないか。更に言うなら、泰衡の首を忠衡と偽るのと同様、天昌寺をその目的のためとは表向きは言えない雰囲気があったのではないかと想像してしまいます。

5.おわりに

昭和25年(1950年)の遺体調査で、泰衡の首桶から80粒ほどの蓮の種が見つかったのだそうです。
その種は平成10年に発芽し、「中尊寺ハス」として有名になっています。(写真⑨
⑨中尊寺ハス
泰衡の首級と一緒にこの蓮の種を首桶に入れた、800年以上前の名も知れぬやさしい蝦夷の方は、泰衡の真の理解者だと思います。

その方は、泰衡が後世、臆病者と誤解され続けても、数百年後、数千年後に、この蓮の種を蒔き、美しい蓮の花が咲くのを見た人の中に、きっと泰衡の心根のやさしさを、真に理解してくれる人が現れることを期待して種を入れたのかも知れませんね。



長文最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。