中尊寺金色堂 小話⑨ ~東北調査紀行5~

さて、東北紀行2日目は盛岡市から始まります。
市内のホテルを8時に出て、まず向かったのは、厨川柵(くりやがわさく)。(写真①
①厨川柵の中心とされる天昌寺(てんしょうじ)外壁
この柵は、大変有名な柵で、1056年の前九年の役の総仕上げ時と、それから133年後、1189年の頼朝の奥州合戦の総仕上げ時の2回に渡り、「蝦夷(えみし)対 源氏」の構造が描かれることになる場所です。


奥州合戦では、既に平泉でこの合戦の勝利は分かっているのに、源頼朝は、この柵の地にまでわざわざ来て、既に死亡している藤原泰衡の首を柱に八寸釘で打ち付け、28万にも及ぶ追従する軍勢に奥州合戦完勝を印象付ける行動をしたのだろうか?

それが知りたくて、この地に来てみたのですが・・・。

1.厨川柵

あるのは写真②の看板だけなのです。(写真②

この看板の裏の白壁は、天昌寺(てんしょうじ)というお寺のもので、それ以外、それらしいものは何もありません。

②厨川柵疑定所に建つ看板
看板には、やはりここが厨川柵の一部であったことや、この白壁の天昌寺が、その時ここの所領を頼朝から貰った工藤氏と関係が深い事などが書かれています。

工藤氏と言えば、曽我兄弟の敵討ちで有名な悪役に工藤祐経(すけつね)という有名な伊豆地方出身の武将が居ますが、どうもその流れの傍流のようですね。頼朝と伊豆での挙兵時からの戦友だったのでしょう。その分派がこの盛岡の地に南部氏の臣下等になり、中世の間勢力を保っていたようです。

しかし、奥州藤原氏を倒した頼朝がわざわざ28万もの軍勢を従え、凱旋行事をした場所にしては、有名な史跡がある訳ではなく、場所も確定できないようなのです。

これはどういうことなのでしょうか?

この看板から白壁沿いにぐるーっと廻り、この白壁の中のお寺・天昌寺の正面口まで歩きながら考えました。(写真③
③天昌寺正面口
ここの石碑の脇にある天昌寺を説明した看板には、天昌寺の脇にある写真④が、当時の厨川柵の柵防跡のようなことが書かれていました。(写真④
④厨川柵の柵防跡?
当時の史料が非常に少ない等も原因なのでしょうが、いずれにせよ、どこからどこまでが明確に厨川柵だったのかは、歩き回って看板等で確認する限り、まだ特定できないようです。

2.征夷大将軍発祥の地

頼朝はここ厨川柵までやってきたことで、征夷大将軍となりました。

以後、武家の棟梁と言えば、征夷大将軍(秀吉は違いますが)が、明治維新になるまで700年も続く訳です。そのトリガーを引いた場所なのですから、この歴史的遺構が「何も無い」というのは、繰り返しになりますが、本当に不思議です。

それが逆に「どうしてそうなっているのだろう?」とあれこれと考えさせる動機になります。

そこで一つ思いついたことがあります。頼朝は実は「征夷大将軍」という役職をゲットすることに拘っていたのではなく、「将軍」という役職に拘っていたと云うものです。

絵⑤を見てください。
⑤陸奥鎮守府将軍として宴会をする頼義(右上)
出典:東京国立博物館所蔵「前九年合戦絵巻(摸本)」

この絵は、出典に描かれている通り、頼朝から133年昔にこの厨川柵で最後を迎えた「前九年の役」の頃の一巻を描いています。

この時、「まつろわぬ(蝦夷)である安倍一族」を征圧しようと朝廷は、源頼義(よりよし)を陸奥の国府多賀城(仙台)へ派遣します。

この絵は、多賀城へ着任した頼義とその息子義家(よしいえ:絵真ん中)らが、歓迎会を受けている場面を表しています。

絵中、右上にいる頼義の上に「将軍」と書かれているのが分かりますでしょうか?

これは、この当時頼義が「将軍」と呼ばれていたことを象徴しています。
彼が多賀城に赴任した時の役職が、「陸奥鎮守府将軍」というものでした。(表⑥
⑥源頼義と頼朝の比較表
頼義自身はこの官職にそんなに拘ったわけではありません。

ところが、140年後の頼朝は拘りました。彼は頼義の将軍の上を行く、大将軍になりたかったのではないでしょうか。なんか子供みたいですね(笑)。

表⑥全体に集約したことを読み取って頂けると嬉しいのですが、頼朝は全ての点において、140年前の頼義の上を行く源家の棟梁であると武士団に見せたかったのです。

よく、「頼朝は藤原泰衡(やすひら)らの奥州征伐をしたから、蝦夷(奥州)征伐で「征夷」となり、昔坂上田村麻呂が征夷大将軍になったことに因み、征夷大将軍になったのでは?」と聞かれることがありますが、それは少々誤解ではないかと思われます。

というのは、そうであれば、頼朝が征夷大将軍に任命されるのは奥州合戦の前、つまり1189年より前でなければなりません。ところが任命されたのは1192年。つまりこの厨川柵で奥州合戦の勝利を宣言し、戦が終った後なのです。

頼朝が欲しがった「大将軍」、これに該当する役職として朝廷側が候補にしたのは「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」等の複数候補が上がったようです。

「征東将軍」は源義経らに滅ぼされた木曽義仲が任官していたもの、「上将軍」は中国の古い役職としてはありましたが、この役職を含む律令制を採り入れた日本では、未だかつて使われたことの無い役職でした。

となると、残るは今迄良く使われてきた「征夷大将軍」のみ。

また、この役職が決まる時には、既に奥州合戦は終わっているため征服すべき夷(蝦夷)は存在しない、つまり「征夷」という「大将軍」の前の二文字は、現実的には意味が無く、ということは何か問題になるようなことも発生しないということなのです。
(現実的に「征夷」という言葉が問題となってくるのは、ここから約700年後の幕末の「攘夷」論からです。)

そこで、「征夷大将軍」を与えることに朝廷側で決定したという説が、最近有力になってきています。(出典:Wikipedia

3.厨川柵で頼朝が顕示したかったこと

結局、この厨川柵で、源頼朝が、後々、鎌倉武士団と言われる28万の猛者に見せたかったものは何だったのでしょうか?

それは、過去の源氏の中で一番だった頼義を頼朝は越えたぞ!!頼義が討ち漏らした安倍一族の末裔を、頼義が安倍一族を討ち滅ぼしたつもりになっていたこの厨川柵という聖地で、140年後にこの頼朝自身が討ち滅ぼしたぞ!俺は頼義より偉いだろう?歴代の源氏の中でピカ一だろう!頼義らは将軍ではあったが、俺は更に上行く大将軍になってやる。
ではないかと想像しました(笑)。

頼朝は、平家打倒で伊豆で挙兵してから、直ぐに石橋山の合戦ここをクリック)で、関東の平家側鎮圧軍に敗れ、以降戦での完全勝利の経験はありません。富士川の戦いここをクリック)では勝利しましたが、これも戦を仕掛ける前に、水鳥の音で平家軍が逃げ出すという状況ですから、頼朝の武勇を喧伝するには、少々力不足です。その後は弟の義経や範頼らが、平家を西へ西へと追い落とし、最後は山口県下関の「壇ノ浦」で殲滅する訳です。

勿論、頼朝が鎌倉に残ったのは、戦下手だからではありません。奥州藤原氏上総(茨城県)の佐竹氏らの抑えとして、鎌倉に鎮座することにしたのです。

また頼朝は、義経のような戦の現場で状況に応じ臨機応変に戦い方を変え、華々しく平家を追い落とす、いわば戦術肌の人材ではありません。じっくり何年も先を見越して布石する、いわば戦略の人なのです。

なので、頼朝が軍を動かすときにはほぼ勝利は決まっている訳です。

平家打倒の戦略も、頼朝は用意周到に、伊豆の流人生活を送っていた17年間に関東武士団を味方につけるという布石を行っていました。
挙兵し、石橋山で敗れはしたものの、大局的には大軍を組織できると踏んでいたのだと思います。あとは平家を滅ぼすために、部下や自分の親族等から誰か戦術に長けた者を戦現場の指揮官として使えばよいと考えていたのでしょう。

奥州合戦も同じです。先のBlogで述べたように、義経追捕の全国手配をした時から、奥州藤原三代の作った奥州王国を潰す算段は完成していたのでしょう。何も頼朝自ら、岩手県は盛岡市の厨川柵まで遠路はるばる来なくても、奥州王国はつぶれたのです。

ただ、奥州合戦でも現場指揮官を立てると、平家を滅ぼした義経のように、その戦功により朝廷側から反頼朝勢力として使われるリスクがあります。
また頼朝自身がこの合戦で自分が如何に凄い大将なのかを、武士団に示しておいた方が、盤石な鎌倉政権を築くことになると踏んだのだと思います。

数十万の武士団が見守る中、槍を持って頼朝は泰衡と一騎打ち、一寸の差で頼朝が勝ち、高々ととったばかりの泰衡の首級を掲げ、数十万の武士団を前に大音声で勝利宣言をする

なんてことは、哀しいかな戦略の人である頼朝には出来ません。全て論理で殺していくのです。敵である藤原泰衡は、部下によって頼朝が厨川柵に到着前に暗殺。その首級は頼朝に引き渡されます。

そこで彼は表⑥にあるように、140年前の「前九年の役」の頼義の真似をして、既に死亡している泰衡の首級を八寸釘で木柱に打ち付け、晒し首にすることで、28万の武士団への示威行動としたのです。
そして、頼義の「将軍」より偉い「大将軍」を朝廷へ所望するという理屈なのですね。

4.蝦夷(えみし)の人々の気持ち

では、そのような記念すべき鎌倉政権盤石化の礎石となるべき厨川柵に何も無いのはなぜか?

以前、このBlogのシリーズで私は奥州藤原氏の最後の当主である泰衡を以下のように断じてしまいました。(詳細はこちらを参照

「泰衡は、自分たちに起きている事象を、単なる事象としてしか捉えておらず、その裏にある頼朝の深慮遠謀等、全く想像も出来ない人物である」

上記厳しい評価も根拠レスでないことは、こちらのBlogを読んで頂ければ分かるとは思いますが、一方で、実は泰衡は平泉を築いてきた奥州藤原氏の4代目に相応しい文化的慧眼を持った人物だったのかも知れません。

この厨川柵で幼少の頃敗北を味わった藤原(安倍)清衡(きよひら)が平泉に中尊寺を建立して以来、毛越寺・無量光院等、奥州藤原家代々に渡り築いてきた黄金楽土の平泉を、泰衡は頼朝軍によって焼失させる訳にはいかないと考え、あえて腰抜けの汚名を被る覚悟で、平泉から北へ逃亡したという説があります。そして部下の裏切りにより殺害され、頼朝に差し出された首は前九年の役の故事にならい、八寸の釘により木柱に打ち付けられるのです。

もし、これが本当なら、軍略では才の無い泰衡も、精神世界の中では頼朝より上を行く人物だったのかもしません。
いずれにせよ、一つ言えるのは、泰衡は部下に殺害されますが、決して人望の無い人物では無く、その後彼の首は、彼を慕う人々によって、そっと平泉は中尊寺へ戻され、先の奥州藤原三代と対等にミイラ化されるのです。ただ、鎌倉幕府に気を使い、彼の首が入っている首桶には弟の「忠衡(ただひら)公」と書かれることによって、カモフラージュされますが・・・。(写真⑦
⑦奥州藤原氏三代のミイラが入った棺(左)四代目秀衡の首桶には弟の「忠衡」との銘
昭和25年(1950年)の遺体調査では、泰衡の首には縫合された跡があり、手厚く葬られていたことが分かっています。(写真⑧

⑧秀衡の首(ミイラ化)
A:八寸釘の跡 B,C:縫合痕

これらの事実を基に、この厨川柵が何故遺構として残っていないのかを考察しますと、やはり、東北は蝦夷(えみし)の人々にとって、厨川柵で頼義と頼朝、両源氏の棟梁が行った行為は、無理無体な迫害としてしか映らないのではないでしょうか。
いくら武家政治の基盤の始まりなどと言っても、蝦夷にとっては、迫害以外の何ものでも無く、それらは蝦夷にとって消し去りたい記憶の1つなのではないか。だからこそ、この厨川柵の史跡は殆ど無くなり、この土地を頼朝に与えられた工藤氏は、敗者である安倍・藤原一族のために天昌寺を建立していたのではないか。更に言うなら、泰衡の首を忠衡と偽るのと同様、天昌寺をその目的のためとは表向きは言えない雰囲気があったのではないかと想像してしまいます。

5.おわりに

昭和25年(1950年)の遺体調査で、泰衡の首桶から80粒ほどの蓮の種が見つかったのだそうです。
その種は平成10年に発芽し、「中尊寺ハス」として有名になっています。(写真⑨
⑨中尊寺ハス
泰衡の首級と一緒にこの蓮の種を首桶に入れた、800年以上前の名も知れぬやさしい蝦夷の方は、泰衡の真の理解者だと思います。

その方は、泰衡が後世、臆病者と誤解され続けても、数百年後、数千年後に、この蓮の種を蒔き、美しい蓮の花が咲くのを見た人の中に、きっと泰衡の心根のやさしさを、真に理解してくれる人が現れることを期待して種を入れたのかも知れませんね。



長文最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。 

神奈川湊の浦島太郎伝説

①神奈川駅
さて、前回の拙著「マイナー・史跡巡り:神奈川台場 ~横浜港の誕生秘話~」では、神奈川駅のあたりの幕末を中心にお話をしました。(写真①

この場所の調査を一通り完了し、帰路ベイブリッジ方面へ向かっている最中のことです。

以下のような交差点の看板を発見しました。(写真②

「浦島町って、あの浦島太郎伝説の?あれ?浦島伝説って岡山じゃなかったっけ?」(私)
「それは桃太郎でしょう?」(おつえ)
「えーっ、じゃあ浦島太郎は神奈川湊だったの?」(私)

ということで、子供のころから慣れ親しみ、最近は、桐谷健太さん演じる「浦島太郎」が、浜辺で歌う歌「海の声」も記憶に新しいところですが、まさかその場所がこことは?(写真③

これは大変とばかりに、史跡巡りの枠外ですが、時代も史実も良く分からない浦島伝説の調査を少々しました(笑)。
②東海道にある浦島町の看板

■浦島太郎伝説
浦島太郎の話については、皆さん良くご存知でしょうから、ここで最初からお話をするのは控えます。

この伝説、日本全国津々浦々にあり、またストーリーも大枠50種類もあるようです。(つまり神奈川湊がオリジナルという根拠は無いということでした。)

竜宮城という海底基地は出てくるし、乙姫様という美人は出てくるし、玉手箱というタイムワープ的な話も出て来ることから、ある意味「かぐや姫」と並んで、日本のSF事始めの感のある名作ですね。

一方で、日本書紀や万葉集にも出て来るこの伝説、かなり古くからあることが原因なのでしょうが、後世色々と突っ込みが入ります。

実はSF事始めではなく、官能小説事始めだとか・・(笑)。
③桐谷健太さんの「浦島太郎」

まあ、確かにタイやヒラメの踊りを見るだけで、時が経つのも忘れるような子供っぽい男も居ないでしょうから、浦島太郎と乙姫の艶っぽいストーリーも沢山展開されています。

ただ、大方の通説になっているのは、他の御伽噺(おとぎばなし)にも良くあることですが、「神隠し」にあった子供や若者への追悼的な話から出来たのだろうと、いうものです。

浦島太郎も、以下のような事実が変形したものなのかもしれません。

ある日「浜に行ってくる!」と言った息子、または旦那が、何時まで経っても帰ってこない。心配して家族や近隣の人と懸命に捜索するも、全くの消息不明。生きているのか死んでいるのかも分からない。唯一最後の目撃証言は、浜で遊んでいた子供たちが「あのお兄さんなら、僕たちからカメを買ったよ。」というものだけでした。
④浦島公園

いかがでしょうか。

特に海辺や漁の最中は、海難事故にあった人も多かったでしょうし、行方不明になる要因は今も昔も変わらず色々あったことでしょう。

昔は、今のように監視カメラ技術がある訳でもないので、原因が分からず仕舞いということが遥かに多く、それらは一言「神隠し」で片付けられてしまうケースが多かったのです。

しかし、当時の行方不明者の家族は、やはり「神隠し」の一言ではなかなか済まされない感情でしょう。

そこで色々と考えられる現象に尾ひれ葉ひれが付いて出来たお話が浦島太郎伝説ではないかと。

そんなことを考えながら、先ほどの交差点から京浜急行の線路側を歩いていると、写真④のような場所に出ました。(写真④

⑤この公園周辺は「亀住町」
最近は、パソコンやスマホ、御習い事etc.・・・で忙しい子供が多く、我が家の近くの公園では、子供が元気に遊びまわっている姿が昔ほど見られないなあと思っていました。

しかし、この公園は寒いというのに、子供が元気に走り回っていました。やはり子供が元気に遊ぶ公園って良いですね!!

と、その時、横の電柱を見ると(写真⑤
なんと、ここは、あの浦島太郎を竜宮城へ連れて行ったカメが住んでいた町!

ということは、千年前くらいにも、この辺りは海岸で、今と同じ様に子供たちが元気に走り回って遊んでいる中に、ここに住んでいたカメを弄り遊ぶ子供らが居たということですね(笑)。(絵⑥

なにやら写真④浦島公園が、当時の海辺の砂浜のように見えてきました。

今でこそ、海岸は東側に1km程も離れていますが、それは近年の埋め立てであり、浦島太郎の話がいつの時代の時の事なのかは分かりませんが、当時はここが砂浜であったとしてもなんら不思議は在りません。

■日常生活とタイムスリップ物語
⑥この公園の辺りで子供がカメを弄っていた?
この物語のミソは、竜宮城で淫蕩生活をしていた太郎が、「これではいけない!」と一念発起して元の浜に戻ると、廻りの様子は全く変わっていて、かつ誰も知った人が居ない。ついつい開けてはいけないと乙姫から貰った玉手箱を開けると、煙がたって白髪のお爺さんになるという場面ですね。

このようなタイムスリップもの、昔から日本人は好きだったのでしょうか。

それも仰々しくSFものにするというよりは、上手く日常生活に溶かし込んでいる話が多いように思います。先のかぐや姫等もそうですし。

一方、同様に近年では、日常生活に溶かし込む、特に恋愛ものにタイムスリップを応用した物語が多いと思いませんか?(絵⑦

⑦最近思いつくタイムスリップ恋愛モノの例
恋愛物語の基本は「すれ違い」にあり、タイムスリップ(タイムリープ等呼び方は様々)は、この「すれ違い」を引き起こすのに丁度良いというのも多用される一つの要因だとは思いますが・・・。

いずれにせよ、浦島太郎等の日本昔ばなしとの共通性は、このような非日常を日常に溶かし込んで面白くするストーリー展開ではないでしょうか?浦島太郎の頃から、このような話の作り方が日本人好みだったのだと思います。

■ウラシマ効果
このタイムスリップものの物語として捉えた場合に、浦島太郎伝説は奥が深いです。

というのは、アインシュタインの相対性理論が発表された後、この玉手箱をあけると御爺さんになってしまう浦島太郎話は、
⑧「ウラシマ効果」の説明

「凄い!既に万葉集や古事記の時代に相対性理論を予測した物語が描かれていた!

とちょっと日本のSF小説界ではセンセーショナルな話となります。
あのドラえもんでも取り上げられています。(絵⑧

ドラえもんのスネ夫の説明の通り、相対性理論では、運動している物体は、静止しているものに比べ時間の流れが遅くなる、この理論を「ウラシマ効果」と日本のSF業界では呼んでいるようです。

もう少し分かりやすく「ウラシマ効果」を描くと絵⑨のようになります。(絵⑨
⑨浦島太郎伝説と相対性理論
ちなみに、この絵の中で書かれている3年と700年については、浦島太郎の50種類ある伝説の中でも、割と有名な話から引用しました。ストーリーの概要は以下の通りです。

【絵⑨の3年、700年の根拠となる浦島太郎ストーリー】
浦島太郎が竜宮城で乙姫と淫蕩生活をしているのが3年、海辺へ戻ってみると700年が経っており、太郎が玉手箱を開けると、太郎本人700歳以上になるのですが、人間のままでは、白髪の御爺さんになっても生きられる歳ではないので、たちまち千年は生きられる鶴に姿を変えるよう玉手箱には仕組んであったのです。
太郎を乗せて来たカメは、実は乙姫が姿を変えたものであり、カメは万年生きられるから、残り300年は、鶴の浦島太郎とカメの乙姫は幸せに暮らしたとさ。めでたし、めでたし。
⑩ワープに入る宇宙戦艦ヤマト

さて「ウラシマ効果」の相対性理論の堅い話に戻ります(笑)。

一応、私も理系の端くれですので、絵⑨の前提で、カメがどれ位の速度で移動していたかを計算しますと29万9千9百97.2km/s、光速の99.9991%ということになりました(笑)。

まあ、光速と同じ移動速度だと時間の経過は0(時よ止まれ!)となるのですから、これくらいの速度が出ていないと700年と3年の間のギャップは埋められないでしょうね。

では、宇宙戦艦ヤマトのワープは??
1年掛けてイスカンダルへ行って帰ってきたら、「ウラシマ効果」で既に人類は滅亡し、ガミラスが占拠し繁栄している数百年後の地球になっていた(笑)。

どんどん非現実的な話へと、それこそ話がワープしてしまいそうです(笑)。(絵⑩

※個人的には、宇宙戦艦ヤマトの作者である松本零士氏は、「ワープ」という「光速を超える」と言う現在の物理学では全く説明の付かない概念を持ち出すことで、これらの不要な議論に蓋をするよう仕組んだのではないかと思っています(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇
ところが、最近この「ウラシマ効果」を実測するために、東京大学や理研が光格子時計なるものを開発し、我々の実生活の中での時間の流れの差を測定するというニュースがあちこちに流れていました。(写真⑪
⑪光格子時計の実験室の様子

先の話のような非現実的な話とは違い、こちらは、高さ5㎝の標高差による地球の遠心力の差分による時間差まで測定できる能力があるそうです。

まあ、その測定の結果、高層マンションに住んでいらっしゃる方の方が、戸建てに住む人より若くして居られるなんて結論が出るとも思いませんが・・・、測定結果が何に使われるのでしょうか?楽しみです(笑)。

◆ ◇ ◆ ◇
と、そんな妄想を膨らませつつ、また公園の子供たちが遊んでいる姿に目を移すと、もしかしたら、浦島太郎が居なくなってから、700年は丁度今日かもしれない。この公園に急に浦島太郎が現れる場面を想像し、思わず一人でニヤリとしてしまいました。(写真⑫
⑫カメは虐めませんが今日も浦島公園で遊ぶ子供たち
※つえのあたりに浦島太郎の姿が・・・(笑)



長文最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

鎌倉 青砥橋(あおとばし)

先日、とある歴史関連のFBグループのオフ会が鎌倉で開催されたので、「いざ!鎌倉」とばかりに、朝比奈切通しを経て鎌倉に入る「東ルート」を車で走っていました。

《青砥橋》

もうすぐ集合場所の鎌倉宮だなと思い、車を走らせていると、「青砥橋」という名前が視界にちらっと入ってきました。(写真①
①青砥橋
もしかして、この橋が、小学生の頃、逸話を聞いた有名な橋???
慌てて路駐し、その橋に駆け寄りました。

駆け寄ってよく見ると、その橋には大変失礼な言い方ですが、何の変哲もない、我が家の近所にもありそうな橋です。(写真②
②10m程度の何の変哲もない橋
※橋の左側にゴミの日用のネットも置いてある(笑)

実際、近くに石碑があったので確認すると、写真②の橋が、逸話としてメジャーなあの「青砥の10文銭」の史跡であることが確信できました。(写真③

③青砥橋を渡った直ぐのところに
立つ「青砥藤綱邸史蹟」

《青砥の10文銭》


逸話「青砥の10文銭」のおさらいをします。

今から800年前の13世紀のちょうど真ん中頃、鎌倉時代中期・第5代執権北条時頼(ときより)の鎌倉幕府に、青砥藤綱(あおとふじつな)という賢い御家人が居ました。

青砥藤綱は非常に優秀な官吏で、権威に全く捉われない公平なものの見方が有名でした。

その彼が、家の近くを流れる滑川(なめかわ)で10文銭を落としました。

政所(まんどころ)での執務の帰り道、もうとっぷりと日が暮れていた時の遺失事故です。

彼は従者に松明(たいまつ)を購入させ、その明かりの元、滑川に落とした10文銭を探したのです。(絵④
④滑川で10文銭を探させる青砥藤綱
※50文で買った松明を持っています

その松明(たいまつ)購入に掛かったコストが50文。

この話を聞いた世間の人たちは噂をします。

10文探すのに、50文出すとは、損な話ですの。

この人々のうわさを同僚から聞いた青砥藤綱は、笑いながら言います。

「確かに青砥個人としては40文の損だ。ただ、掛かった50文の代金は、その後天下の回り物になる。更に見つかった10文もまた、天下の回り物となる。つまり天下から見ると、今回の件で60文も回り物となっており、公(おおやけ)には1文たりとも損をしていない訳だ。」
「これを探さず遺失したままでは、青砥個人としても、公の天下としても10文の損をしたことになる。」

有名なこの話、松明買わずに、翌日明るくなってから探せばいいやんという素朴な疑問を持たれる方用に、50文は松明代ではなくて、川に入って探す人足代であったというストーリーもあります(笑)。

しかし、ひねくれものの私は、更にこれも「翌朝、人足雇わず自分で探して見つければ、10文は10文のままで個人的にも天下的にも損しないのでは?」
と青砥橋の上から、この小さな滑川を見ていて思いましたが、そういうけち臭い突っ込みはどうでも良いことなのでしょう(笑)。(写真⑤
⑤青砥橋から滑川水面を見る
結局、金銭の多寡は関係なく、大局観を持った大物の考えることは違うという意味合いで、この話は語り継がれて来た次第です。

《現代の青砥藤綱はいないのか》

さて、この10文銭事件、これだけリアリティのある青砥橋から落した滑川を眺めていると、ついつい現代のリアルではないサイバーの世界を考えてしまいました。

そう、580億円以上が、コインチェック社から20分以内に送金されたという仮想通貨不正送金事件です。

青砥藤綱、江戸時代以降、大岡越前守と並んで高く評された正義感のある官吏が、現代に居たら、この事件にどう対処するでしょうか?

彼の10文銭とは規模感が全然違いますが、お金はお金です。

きっと彼のことですから、10文銭(580億円)を滑川(ネット)から、すくい上げるのに、5倍の50文(2900億円!)を使ってでも、やるのでしょう。

「580億円をネットの水底に沈めておくわけには行かない!」という信念の基に、2900億円のコストを掛けるくらい気概のある現代の青砥藤岡さんはいらっしゃらないのでしょうか?

このようなマイナー史跡でも色々考えさせられるとは、さすが鎌倉は奥が深いと関心しながら、路駐の車に改めて乗り込み、皆が集まる鎌倉宮へと走らせました。




《おまけ》

鎌倉宮で、無事皆と合流できた私ですが、鎌倉宮では、写真⑥のように、皆さまのワンちゃんを預かって、境内に入らず待っていました。
⑥ワンちゃんと鎌倉宮の入口で待つ筆者
既に私は見ている鎌倉宮のある有名なものを、なるべく多くの人に見てもらいたいので、この写真⑥状態でその人達が見て帰ってくるのを待っているのです。

その見てもらいたいものは、下記のBlogリンクにありますので、宜しかったらご笑覧ください(笑)。

今回も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。



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中尊寺金色堂 小話⑧ ~東北調査紀行4~

東北調査紀行は平泉の中尊寺等、奥州藤原氏の関連史跡を見た後、時代は前後しますが、前九年の役で、源頼義(よりよし)によって滅ぼされた安倍氏の史跡を見て廻りました。(絵①
①衣川柵で安倍貞任(さだとう)を追う源義家(よしいえ)
「マイナー・史跡巡り」で、前九年の役について2話のシリーズで取り上げました。
(シリーズ前半はこちらをクリック、後半はこちら

シリーズ中の登場人物が複雑で分かりづらいというご指摘を多々頂きました(笑)。

このTsure-Tsureは、日本史理解が主眼ではないのですが、やはり分からないより分かった方が読み進めやすいことから、前九年の役の相関図を図②に再掲しておきます。これから読み進める上で人名がこんがらがった時に、この相関図の中に人物名を探してみてください。そうするとグッと中身が分かって面白いですよ。
②前九年の役(1056年~1065年)人物相関図
1.並木屋敷(衣川柵)

さて、平泉中尊寺から車で20分も走ると、並木屋敷(衣川柵)という場所に到着します。相関図①安倍頼時の政庁があった場所です。

奥州藤原氏初代清衡(きよひら)が平泉に開いた「柳之御所」は前回の紀行文でも掲載しましたが、北上川の岸辺の広大な土地を使った奥州王国に相応しい規模感がありました。(こちらの写真を参照

ところが、これとは対照的に安倍頼時の政庁跡は、殆ど影・形がありません。(写真③
③安倍氏の政庁があった並木屋敷(衣川柵)
ちなみに上の写真で、私が立木を支えているのは、この立木、根本が腐って、この場所でゴロンと倒れていたからです。一生懸命持ち上げて押さえながら写真に納まったものです。愛情を込めて言いますが、流石マイナー史跡ですね(笑)。

ちなみに、この写真左側にある看板の説明を以下に掲載します。(説明看板④
④並木屋敷(衣川柵)の説明看板
正直、この時点の私には、ここに書かれていることが、どういうことなのかさっぱり分かりませんでした。このマイナー史跡が、日本史のメインストリームにどう絡むのかを、私のようなあまり知識の無い人にも分かりやすく説明して頂けると助かるのですが・・・(笑)。

勿論、帰宅後一通りBlogを描くために調査した後である今は分かりますので、解説させてください。

この看板には奥州王国の「前九年の役」で討たれた安倍氏の話と「後三年合戦」で討たれた清原氏の話の2つが1度に書かれています。

まず前半の文章、図②に出て来る安倍頼時、彼の死後は息子の安倍貞任(さだとう)が治めていた18年間、前九年の役で、ここを貞任が撤退しなければならない時まで、政庁だったことが書かれています。

また、看板後半の文章は、前九年の役が終り、安倍氏が滅んだ後、1083年に始まる後三年合戦に入る頃までの20年間、清原氏嫡流の居城だったようです。

図⑤は、後三年合戦に出て来る人物を超簡単に書いたものですが、看板に出て来る清原武則(たけのり)は一番上、前九年の役で最後安倍氏と対立する代表者で、看板に出ている武貞(たけさだ)は、その息子、平泉中尊寺を建立した藤原清衡の継父です。そして、やはり看板に出て来る真衡(さねひら)は、その継父の長男です。
ちなみに後三年合戦では、この真衡、清衡、家衡(いえひら)の3兄弟(清衡だけ父違いですが)が争うのです。(詳細はこちらのシリーズ
ちなみに、2番目の清衡は岩手県江刺市に住んでいました。また家衡は秋田県横手市です。皆バラバラなのですね。
⑤後三年合戦を中心とした人物相関図(再掲)
そして、看板の最後に書かれている衣川柵が安倍氏の時代は必要無かったが、清原氏の時代は必要で、衣川柵と呼んだと書かれていますが、これは結局前九年の役で滅ぼされた安倍氏の残党がまだこの辺りに残っていて、ゲリラ戦等を清原氏に仕掛けてくるため、柵が必要だったと言いたいのだと思います。個人的にはこの記述は、この看板では不要ではないかと思いますが・・・。

かなりややこしい看板ですね(笑)。

2.安倍氏と安倍首相

さて、実はこの前九年の役で滅ぼされてしまった安倍一族、現在の安倍晋三首相と繋がっています。

⑥安倍貞任
と申しますのは、安倍首相ご自身が、2013年7月の参院選で岩手県入りした演説の中で「安倍貞任(さだとう)の末裔が私になっている。ルーツは岩手県」と話しています。(絵⑥

安倍首相は、前九年の役の後半の首謀者(前半は貞任の父・頼時であるが戦死)として戦死した貞任の末裔と言っていますが、貞任ではなく兄の宗任(むねとう)の子孫だろうと言う人がいます。(図②参照、ここをクリック

というのは、前九年の役を生き延びた宗任は、役の後、京に連行され、後に伊予(愛媛県)に流されます。安倍首相は山口県の一族ですから、この伊予に流された宗任の子孫の誰かが、長州(山口県)に落ち延び、安倍首相の先祖になったのではないかという説です。

ただ、真相は分かりません。首相が演説で言うのですから、やはり首相安倍家の言い伝えで貞任の末裔なのかもしれません。

貞任は、180cmを越える大柄な体躯の持ち主で、概して東北の蝦夷人は中央の人よりも体躯は大きいようですが、その中でも特に大きかったようです。安倍首相も体大きいですよね。絵⑥で見ると、心なしか表情が安倍首相に似ているような気もします(笑)。

3.戦中における雅(みやび)な句のやりとり

前九年の役で、この衣川柵を攻める源頼義の息子が、源氏伝説のヒーロー、義家(よしいえ)です。

前九年の役の後半戦、頼義・義家は激しくこの衣川柵を攻めたてます。耐えきれなくなった安倍貞任、北の厨川(くりやがわ)柵に向けて、敗走を始めます。

まだ20歳前後の義家、総大将の貞任の逃走に追い縋り、馬上から大音声(おんじょう)で以下の下の句を貞任へ投げかけます。(絵①参照
「衣のたて(館)はほころびにけり」

すると、貞任は、同じく馬上でニッと笑い、
「年を経し糸の乱れの苦しさに」
と上の句を返して来るのです。

義家は驚きます。京の武人の中にも、連歌のような雅(みやび)な振る舞が出来る人は少ないのに、この蝦夷の地で、この戦況の中、機微と優雅さに満ちた武人に会えるとは。(写真⑦ 絵①参照
⑦ねぶたでの貞任と義家の衣川柵追撃シーン
※返り血を浴びた貞任は鬼になります
とても雅な感じの貞任ではないです(笑)
敵味方の2人で作った上下の句を併せると以下のようになります。

年を経し糸の乱れの苦しさに、衣のたて(館)はほころびにけり

衣川の館(たて)衣類の縦(たて)糸をかけて「衣のたてはほころびにけり」と義家は詠んだのですが、それに対して貞任は、組織の乱れと、衣類の乱れが見苦しいとかけて返句したのです。

つまり
「経年劣化で糸が悪くなってくると、衣類はほころんでくるものよ」
と言う表層的な解釈の裏に
「安倍一族という組織も何年も経つと乱れて来て、とうとう衣川柵は今日ほころんでしまった」
という意味深な内容を込めた歌が完成したのです。

流石、安倍首相のご先祖ですね。多分、安倍首相はこの歌を心に刻んで組閣をしていることと思います(笑)。

4.厨川柵(盛岡)へ

さて、見るべきものが少なくても、想像は果てしなく広がる衣川柵の私ですが、既に18時を廻っていました。(写真⑧
さて次にどこに行こうか? 宿すら予約していない弾丸旅行です(笑)。
⑧衣川柵で次は何処に行こうか
考える私(笑)
やはり、貞任が逃げる先、厨川柵だろうと考え、厨川柵がどこにあるのかググります。
すると、それはここから100㎞は離れた盛岡の北側にあることが分かりました。

早速、Webで盛岡市内のシティホテルに予約を入れ、近くのガソリンスタンドで、給油してから東北道を盛岡へと走らせました。

20時過ぎには、盛岡市内のホテルに到着。(写真⑨
その後、じゃじゃ麺を食べに市内に出ますが、その時のじゃじゃ麺のレポートは既に、このBlogに掲載しております。興味のある方はこちらをご笑覧ください。
⑨盛岡市内は「ホテルエース」という
シティホテルに宿泊しました
次回、東北紀行2日目は、前九年と奥州合戦の史跡・厨川柵から始まり、次に一気に戦国末期の九戸城へと時代が飛びます(笑)。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。次回をお楽しみに。



初詣 ~白幡八幡大神~

あけましておめでとうございます!!

少々体調を崩しまして、寝てばかりの正月です(笑)。

年末・年始の食べ過ぎ、飲みすぎの重い体を少しでも動かさなければと思い、近所のスーパー「いなげや」に買い出し、ついでに初詣ということで、何の予習もなしに来たのが、「白幡八幡大神」です。(写真①
①白幡八幡本殿

しかし、なーんもこの神社、由緒に関する看板が立っておらず、写真②のように「平(たいら)地区の氏神様となります。」とあるだけ・・・・唖然((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル(写真②
②非常に簡素な説明看板

源氏の象徴旗である白幡の大神ですよ!!そして地区の名前が平(たいら)、これで何も無い訳ないでしょう!?(笑)

と、買い出しから帰り、Wikiで調べると、やはりありますねー(笑)。
世間の神社は、どうしてこういう歴史を自社の看板として建てないのでしょうか?大方の人は興味がないから?宗教と由来は別問題だから?

少々哀しくなります。マイナーでも、立派な史跡なのですから、やはり建てた時の歴史を看板でも石碑でもいいので、語って欲しいですよね。

今回訪ねたこの史跡は、前九年の役と関係が深いようです。源頼義(よりよし)です。(絵③
③酒を酌み交わす源頼義
※拙著blog「かわらけ」の中の写真⑦の抜粋

詳細は是非、拙著Blogの「前九年の役」をお読みください。息子の義家(よしいえ)後三年合戦を起します。また義家はこの前九年の役の時、18歳で頼義の負け戦の時に鬼神の活躍をし、後に軍神としてのレジェンドを作り上げます。

また、源頼朝(よりとも)も、奥州合戦で奥州藤原氏4代目の泰衡の首を八寸釘で打ち付ける所作は、頼義が前九年の役で安倍頼時に対して施した故事に倣ったとされています。つまり頼義は、奥州王国と源氏との100年以上に渡る確執の端緒を切った漢(おとこ)なのです。

で、この頼義が鶴岡八幡宮に、この奥州征伐について戦勝祈願をしました。

そして鶴岡八幡宮から10里(約40㎞)毎に幣(ヌサ)を地に突き刺して仙台にある多賀城入城を果たしたようです。
幣はご神体を顕すとしています。良く家を建てる時に、地鎮祭の時に見かけます。(写真④
④幣(ヌサ)
この白幡八幡大神の地は鶴岡八幡宮から奥州王国へ向けて一番最初の幣刺し地点となります。確かにちょうど鎌倉から旧鎌倉街道を使って40㎞くらいに、私の家やこの神社があります。この次の地点は、以前Facebookで取り上げた大宮八幡宮かな?

この白幡神社の建立の1つの説に、1056年にこの頼義が幣を刺したところに、133年後の奥州合戦の時に頼朝が神社を建てたというものがあります。『新編武蔵風土記稿』

私は、この説を支持したいですね。というのは拙著blogでも書きました通り、頼朝は100年以上前の前九年と後三年を徹底的に研究し尽して、ご先祖、頼義・義家が完全には倒せなかった奥州王国を完全に潰そうとしたのです。そして、この2人のご先祖が実施したこと以上の事を全てにおいて実施しようとした行動パターンが見られるのです。(詳細はこちらを参照

そう考えると、頼義が幣を刺して簡易に神様を奉る場所に、頼朝はちゃんと神社を建てて頼義らよりも、しっかりと奥州討伐をしたいと考えてもおかしくないと思いませんか?(写真⑤
⑤白幡八幡大神の看板

あと、写真④の看板上部に「稲毛惣社」と書かれているのが分かりますか?

この稲毛が、初詣前に私が買い物をしたとお話した、スーパー「いなげや」と関係が深いのです。(写真⑥
⑥いなげや 
※小金井本町店
このスーパー、東京、神奈川の北部に住んでいる方なら、結構知っていらっしゃるのではないでしょうか?

稲毛氏は、生田緑地にある升形城の主なのですが、長くなりますので、また別のTsure-Tsure特集とさせて頂きたいと存じます。

もし、皆さまの廻りにも「村の鎮守です。」とか、「地区の氏神です。」としか書かれていないような神社・仏閣があれば、是非史実を掘り返してみてください。

すると意外と歴史のメインストリームと繋がっている場合があります。今回もそうですが、それらが見つかると、まるでダイヤの原石を見つけたように嬉しいものですよ。

是非、この初詣の時期に、近所の初詣先についてちょっと調べてみませんか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました!!



中尊寺金色堂 小話⑦ ~東北調査紀行3~

今回は、中尊寺金色堂から始まった東北調査紀行の第3弾です。
※第1弾、第2弾はこちら⇒東北調査紀行1東北調査紀行2

前回、平泉の中尊寺を訪問した後、義経の最期の地とされる高館を訪問しました。(写真①
①高館義経堂から歩いて「柳之御所跡」へ向かう
そして、写真①の場所まで戻ると、そのまま南東方向へ歩き出し、奥州王国の政庁があった場所、「柳之御所(やなぎのごしょ)跡」に向かいました。

今回は、ここから話を続けます。

1.柳之御所跡

さて、今回見て廻った場所の見取り図です。(写真②
②高館から柳之御所へ
※歩いたコースは黄色い点線です
出典:柳之御所資料館模型
写真①の高館義経堂の入口を起点に黄色い点線に沿って2㎞程歩くと、柳之御所跡に着きます。

そもそも平泉は、写真③の解説にもありますように、奥六郡(看板地図中、紫に塗られた東北内陸部)の玄関口(中央政権の派出所である仙台 多賀城から見て)に、藤原清衡(きよひら)が造った中核都市なのです。(写真③
③奥六郡(奥州王国)と平泉
出典:柳之御所資料館
私が盛んにblogで「奥州王国」と言っているのは、この奥六郡のことです。

勿論、奥六郡も中央政権下に存在する一地方郡ではありますが、奥州藤原氏は、この郡からの税収だけでなく、奥羽で取れる金や名馬から上がる利潤を上手く活用し、仮想的な蝦夷(えみし)の半独立経済圏、いわばバーチャル王国を作り上げていたのです。

なので、その概念的な意味合いも含めて、私はあえて奥六郡のことを奥州王国と呼んだ訳です。

逆の視方(みかた)をすれば、古(いにしえ)の奈良時代に律令で決めた行政機能は、平安時代の藤原摂関政治の基、荘園制度等の発展により、グダグダに崩れ始め、このような京の都から遠い地方では、バーチャル王国の存続を許してしまうような、複雑な国に日本はなってしまったのです。

このような制度の限界を感じ、奥州王国を日本という国の中の大きな腫瘍のように感じ、これを潰さなければ真の統一社会は出来ないと考えた漢(おとこ)がいました。

源頼朝ですね。

彼は、高館にて義経を討ち、その首を差し出した奥州藤原氏4代目の泰衡(やすひら)を赦すどころか、28万もの大軍を持って、自ら平泉へ攻め入ります。これを奥州合戦と言います。

泰衡は、勝ち目なしと踏んだのか、平泉の柳之御所に自ら火を掛け、灰と化して、平泉を放棄し北方の厨川柵(くりやがわさく)へと逃げて行きます。

頼朝軍は、1189年の8月にその何もかも無くなった平泉に入城します。

多分季節も私が訪問した時期と同じ頃ですから、灰こそありませんが、景色としては写真④のような、だだっ広い政庁跡を見たのかも知れません。(写真④
④何もない(東側から見た)「柳之御所跡」
また歩いている途中、写真⑤のような池等も多く見られましたが、この辺り、池を持つ邸宅や高屋(たかや)と呼ばれる倉庫が立ち並ぶ通りだったようです。(写真⑤
⑤池を持つ邸宅跡
実は何もかも無くなったと思っていた、ここの倉庫に唯一残されていたものがあります。

」です。しかも大量に。

これを見つけた頼朝軍は大変驚きましたが、頼朝は全く動じません。
彼はこれがあるからバーチャル王国である奥州王国は潰すべきと、ずーっと構想していたのですから。

2.泰衡からの書状

さて、平泉に入城した頼朝の宿所に、書状が投げ込まれたと『吾妻鏡』にはあります。泰衡からの書状です。概要は以下の通り。(Wikipediaから)

「義経を討ち取ったのは、罪ではなく勲功ではないでしょうか?そもそも義経を平泉に招き入れ、保護したのは亡父・秀衡であって、私はなんらそれらに関与していません。罪無くして成敗されるのは不本意です。現在累代の在所(柳之御所のことか?)を去り、山中を彷徨い、大変難儀しています。出来れば私も頼朝殿の家来の一人として頂けませんか?せめて遠流として欲しいです。」

理が通った話のように感じます。しかし、頼朝は、100年前の後三年合戦源義家(よしいえ)が慈悲をかけた清衡(きよひら)が、結局は裏切り、奥州王国を打ち立ててしまうことを知っています。そう、奥州藤原氏はやはり根絶やしにしなければならないのです。

また、泰衡は、自分たちに起きている事象を、単なる事象としてしか捉えておらず、その裏にある頼朝の深慮遠謀等、全く想像も出来ない人物であるということをこの書状で赤裸々にしてしまっています。

これでは頼朝は、泰衡は傑出した人物だから、殺すのは勿体無いとは思わないでしょう。
理不尽ですが、現代もこの時代も、その辺りの匙加減は同じですね。結局泰衡は、逃亡中に部下から殺害され、その首を頼朝軍に差し出されてしまいます。

◆ ◇ ◆ ◇

このシリーズの「~東北調査紀行1~」で、金色堂には奥州藤原3代のミイラがあるとお話しました。(ミイラの写真はここをクリック

4代目の泰衡の首もあるのです。しかし公式には3代のみということになっていました。(写真⑥右
⑥奥州藤原氏3代の棺(左)と
「忠衡公」と書かれた首桶(右)
何故でしょうか?

それは泰衡の御首が入れてある棺に書かれている名前です。(写真⑥左

忠衡(ただひら)公」と書かれています。

忠衡とは泰衡の弟で、最後まで亡父・秀衡(ひでひら)の遺言を遵守し、義経を守ろうとした人物です。

長い間、この首桶に書かれた文字を信じ、この首は弟の忠衡のものだと信じられてきました。

いや、信じる以前に忠衡のものか、泰衡のものかの客観的な判断が出来ない程、この首は損傷していたようです。16箇所の切創や刺創、さらには鼻と耳を削がれ、眉間から鼻筋を通り上唇まで切り裂かれた痕跡があるという凄惨なものです。(写真⑦

なので、言い伝えのように忠衡としていたのですが、1950年代のX線調査等により、この首の頭蓋骨部分に18㎝以上の釘を貫通させた後が見つかったのです。(写真⑦のA、B,Cは削がれた部分)
⑦泰衡の首
「マイナー・史跡巡り」の「義経と奥州藤原氏の滅亡③ ~高館(たかだち)~」でも書きましたが、頼朝は奥州合戦で、平泉を無血開場した後、北へ逃げた泰衡を追いかけ、現在の盛岡市にある厨川柵まで駒を進めます。

この厨川柵、実に133年前の1056年、前九年の役の帰結として、当時の陸奥国守の源頼義(よりよし)が安倍氏征伐を行い、当主安倍頼時(よりとき)の首を八寸釘で打ち抜いて柱に打ち付けたのです。
この故事に倣い、頼朝は泰衡の首を同じ八寸釘で同様に打ち付けたとの記録が吾妻鏡に残っているのです。

その記録と頭蓋骨の貫通跡が一致します。それ以来、この首はやはり奥州藤原氏4代目泰衡のものと鑑定されたのです。

ではどうして首桶に「忠衡公」と書かれているのでしょうか?

奥州王国が滅びても、中尊寺は残った訳であり、当然その中核である金色堂、さらにはそこに安置してある藤原氏のミイラ等は、鎌倉幕府から注目される訳です。

残された奥州王国の人々は、何とか4代目泰衡の首も、3代目までと同様に残してあげたい。しかし、奥州合戦における頼朝軍の敵のトップたる泰衡を、他の3代と同様に堂々と残すことは、鎌倉幕府が続く限りは出来ないのです。
⑧私のためだけに再度開館してくださった柳之御所資料館

そこで、奥州王国の人々は一計を練り、弟の「忠衡公」の首と称して、泰衡の首を3代と一緒に葬ることで、幕府からの訴追を逃れたという訳です。

◆ ◇ ◆ ◇

以上の話全て、「柳之御所資料館」(写真⑧)で知りました。しかし、この資料館に到着した時には、閉館時間である17時を10分程度過ぎており、館員の方々が車で帰宅されようとしていたところを、無理に頼んで、態々私だけのために、資料館をまた開けて下さるというご負担を強いました。この場を借りて感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。(写真⑧

3.無量光院(むりょうこういん)跡

さて、平泉も駆け足で見て廻り、中尊寺駐車場へ向かう私の視野に美しい池が飛び込んできました。(写真⑨
⑨無量光院跡
ここは、無量光院跡と呼ばれる場所で、3代目藤原秀衡が、宇治の平等院鳳凰堂を模して、建てた寺院の跡です。(写真②で地理的な位置もご参照ください

写真⑨の真ん中にある看板を読むと、なんと平泉市がVR(バーチャル・リアリティ)の取組みをしており、写真⑩のような院の建設当時の想像図が、特設ゴーグルを掛けることで、この場所で見えるとのことでした。(写真⑩

確かに平等院鳳凰堂によく似ていますね。

ちなみに、写真⑩の右側の写真にありますように、私が訪れた8月には、ちょうどこの平泉の金鶏山(きんけいさん)の山頂と本堂等の建造物の中軸線上に夕日が沈むのを見られるのだそうです。(残念ながらこの日は日没頃曇ってしまい見えませんでした。)
⑩無量光院のVR写真

4.おわりに


1代目清衡は中尊寺を、2代目基衡(もとひら)毛越寺(もうつうじ)、3代目秀衡無量光院と、ここ平泉を、奥州王国の京の都とすることに一生懸命だったようですが、多分その蝦夷(えみし)の国家形成が、バーチャル(仮想)なだけに「儚(はかな)い」ものであることを奥州藤原氏3代は予想していたのではないでしょうか?

⑪何も無い(南から見た)柳之御所跡にて
※左手の小山が高館義経堂
と考えたのは平泉は、この奥州王国の入口に位置することは先に述べました。(写真③参照

普通そのような都市であれば、王国への敵来襲に備えて、城砦を築く等、武力による防禦建造物で固めるべきですよね。

ところが、奥州藤原氏3代は、ここに寺院等、スピルチュアルなもののみで固めており、またその建造物には、末法思想が色濃く出ているのです。

私はバーチャル国家とは?という疑問に一つの答えを奥州藤原氏から貰っているように感じました。

皆さまはどう感じられますか?

最後までお読み頂き、ありがとうございました。