尼崎城

2020年 あけましておめでとうございます!

元旦に、尼崎城を訪問しました。(写真①
①尼崎城

昨年3月にオープンするお城として、一昨年前の「お城EXPO」(パシフィコ横浜で開催)で大々的に宣伝していたのが印象的でした。妻の実家から近いこともあり、オープンしたら早々に行きたいと思っていました。(
写真②
②一昨年前の「お城EXPO」では、オープン前
から既に尼崎城再建は有名だった

「最近の再建」ということは、古いお城に比べると、史跡的な趣きは少ないかもしれないなあと期待せずに訪城したのですが・・・。

1.荒木村重の尼崎城

尼崎城というと最初に思いつくのは、戦国時代の荒木村重。

おおっ!荒木村重と言えば、今日2020年元旦に相応しい「餅ネタ」が有名じゃん!とばかりに一人で色めき立つ私。

◆ ◇ ◆ ◇
拝謁した信長の前で「摂津国13郡は、私めに切り取りをお許しいただければ存分に切り取ってみせまする!」と粋がって見せる荒木村重。
黙って聞いていた信長は不満顔。村重の顔など見ていません。見ているのは何故か目の前にある餅。
③荒木村重の有名な餅食べ
(私のLINEスタンプ集から)
信長は粋がる奴が嫌いなことを知っている家臣たちは不安な表情で、信長の次のアクションを見守ります。

すると信長、小姓に向かい「刀を持て!」

え!ヤバい!と青ざめる家臣団。「まさか御手討ち・・・」
スラっと刀を抜き放つ信長。村重目掛けて思いっきり突きを入れた・・・と思いきや、目の前の大きな餅を刃先で突いていました。

ほっとする家臣団。しかし次の瞬間、またもや家臣団は青ざめます。

「食え!」

信長は刀の先に刺した大きな餅を村重の眼前に差し出し、このまま喰らいつけという態度。村重が喰らいついたらそのまま餅ごと刀を村重の喉に突き入れるかもしれません。信長を知る家臣たちは「やりかねない!」と青ざめるのです。

ところが荒木村重は平然と「頂きます」とばかりに餅に喰らいつき、あまりの大きさに口に入りきらないせいか、困った顔をしています。(絵③

その滑稽かつ愛嬌のある姿を見て、信長は大笑いします。

そして、村重に「摂津はそちに任せる!」と言い放つと、村重は「フガフガ(ありがたきしあわせ)」と言います(笑)。

家臣たちと違い信長の振舞いを少しも疑わない村重の胆力に、信長は感心したのだろうという、この逸話は有名です。
◆ ◇ ◆ ◇

後に村重は信長に反抗します。詳細は別途、有岡城等を調査後に書きますので、ここでは省略しますが、有岡城を脱出して、信長の前から姿を消す前に村重が入城したのが尼崎城(別名、大物(だいもつ)城)なのです。ここで村重は一族や自分の郎党が皆殺しになっても自分は生き延びるという道を選んでしまうのです。

2.戸田氏の尼崎城は荒木村重のそれとは場所が違う?

さて、この平成最後の再建城、訪問されると分かりますが、江戸時代の譜代大名 戸田氏鉄(うじかね)に江戸幕府が築城させ、大阪の西の守りとしたというところから話が始まり、色々な展示や解説がなされています。

この江戸時代期から始まる尼崎城は、以下の絵のような瀬戸内海に面し、船が横付けできる城として優美な姿を見せていたようです。別名を琴浦城といいました。(絵④

④摂津尼崎琴浦城図:荻原一青画に追記

また、再建したお城の本丸の現在の位置ですが、実はこの絵④の築城時の位置とずれています。実際の本丸があった場所には小学校が建っているためです。この小学校の南側に尼崎城址の石碑が建っています。(写真⑤
⑤明城小学校の南側に建つ尼崎城址 石碑


では、今の再建尼崎城はどこに建っているのか絵④の上に展開してみると以下のようになります。(絵⑥

⑥尼崎城址石碑の位置と再建した
現在の尼崎城本丸の位置

先程も申し上げましたように、この再建された尼崎城、パンフレット等を幾ら読んでも、あの有名な荒木村重との係わりなどの話は一切出て来ません。

Web等で色々と調べると、どうやら荒木村重の起居した尼崎城とは場所が違うとの認識が強いようです。

なるほど!なので村重色は一切無かったのかあ!

と感心していてはいけません。関西の歴史を知らない私のような人間は、「では、荒木村重が起居した尼崎城はどこ?」と、これまたWebを調べ回りました。

すると分かりました。(写真⑦
⑦荒木村重の尼崎城があった辺りに
ある大物主(おおものぬし)神社


遺構は全く残っていません。この神社の位置あたりに村重起居の尼崎城があったという情報を基に、先程の絵に反映させてみます。(絵⑧

⑧荒木村重時代の尼崎城の位置


正直、荒木村重の尼崎城、江戸時代の尼崎城、それから今再建した尼崎城の位置のずれを絵⑧で見ると、3か所はかなり近いです。この程度の距離差であれば、荒木村重の頃の尼崎城もこの再建した尼崎城辺りだと言ってしまってもいいのではないかと私は思ってしまいました。

というのは、後北条氏時代の小田原城でも今の小田原城(江戸時代の小田原城)からの位置からのずれは、尼崎城と同じようなものです。しかし、小田原城では大々的に後北条の城としてフューチャーしています。
また他にもこれくらいの城の位置ずれは沢山ありますよね。

◆ ◇ ◆ ◇
と折角再建してくださった方々にいきなりクレームみたいなことばかり書いて申し訳ないなと思った玉木は、次は再建に対する良い面を書きたいと思います(笑)。

3.ミドリ電化創業者の寄附

再建したこの尼崎城、廃藩置県で取り潰した本丸を忠実に模造している等の観点から、戸田氏以降の築城を重視し、文化遺産的なものを見せるのに良いのかも知れません。(本丸の左右が反対であるとの噂もありますが)

お城の鯱が郵便ポストの上にあるのも、近くの櫻井神社に江戸時代の店主の鬼瓦があったりするのも、当時のお城そのものを堪能するのにはもってこいですから(笑)。(写真⑨
➈左:尼崎城鬼瓦 右:何故かポストに鯱(後ろが再建本丸)


最後にもう1つ。
この尼崎城再建にあたって、創業の地に史跡としてこの尼崎城を再建するのに10億円以上の多大な寄附をした企業があります。

ミドリ電化という家電量販店です。

関東の皆さんには、あまり馴染みが無いかもしれませんが、このミドリ電化という家電量販店、ITの進化が激しい中で、私の義父・義母のような家電をどう扱ってよいか分からないお年寄りに本当に親切な会社でした。(過去形になるのは、つい数年前からエディオンに吸収合併されたため)

この再建尼崎城も以下の360°写真にもちらほら見えますが、階段という階段に手摺を設置し、また入城に関しても車椅子の方でも入りやすいような設計にしている等、来城する高齢者に対する配慮・思いやりが随所に感じられます。(360°写真⑩)
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
 ⑩再建尼崎城内

勿論、会社的には必ずしも綺麗ごとだけではすまないところはあると思います。ただ、創業の地・尼崎への貢献として、このような象徴的な城に寄附するのは、やはり大したものだと感心するのです。

私のような、平成に再建されたお城自体への興味は薄い人でも、尼崎の歴史については調べよう、荒木村重と尼崎城について調べようと思う動機を与えられたり、他にも色々と尼崎という場所に対する興味を引く動機になると思うのです。この尼崎城の再建が。

営利第一で史跡なぞ二の次と軽視されがちな今の時代にこのような史跡再建活動にも力を入れてくれる地元企業、「地元には歴史を、高齢者にはITによる利便性を」提供しようとするその姿が、何か私のこの史跡巡り活動と通ずるものを感じました。

4.おわりに

2020年の元旦にこの城に来たことが、幸先のよい史跡巡りのスタートになったような気がして、ちょっと嬉しかった次第です。

年始めからの乱文、大変失礼しました。どうぞ2020年も引き続き「マイナー・史跡巡り」「Tsure-Tsure」ブログをよろしくお願い申し上げます。


【尼崎城】〒660-0826 兵庫県尼崎市北城内27番地




つれつれ鎌倉③ ~大姫の鎮魂・岩船地蔵堂~

前回は、足利尊氏の墓所のある長寿寺をご案内しました。(こちらをクリック
そこから扇ガ谷方面へ亀ケ谷坂という切通しを歩いていきます。(写真①
①亀ヶ谷坂
今回はこの続きからです。


1.亀ケ谷坂

この坂は山之内地区と扇ガ谷(おうぎがやつ)地区を結ぶ坂なのですが、鎌倉では「坂=切通し」なのです。(360°写真②)

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 ②亀ヶ谷坂
 ※両脇に切り立つ崖

鎌倉に陸路から入るには、かならずこのような崖と崖の間にある狭隘な「切通し」を経由しなければなりません。当然崖の上から矢などで狙われてしまえば、切通しを通る人はひとたまりもありません。

この切通しを経由しないと鎌倉へ入れない仕組みが、強力な鎌倉防衛の味方なのです。

地図③を見て下さい。これは私の別ブログ「マイナー・史跡巡り」の新田義貞の鎌倉攻めの解説に使った地図です。
③新田義貞の鎌倉攻め地図
この地図からも分かるように、鎌倉は3方を山に囲まれ、南側1方が海という地形を巧みに利用しています。このような外敵から守りやすい要塞のような場所を武家の中心的都市として選んだ源頼朝はやはり凄いですよね。

この地図を少し解説させてください。新田義貞はこの鎌倉を4つの切通しから攻めました。白い⇒で示された箇所です。北側から巨福呂坂(こぶくろざか)、化粧坂、大仏坂、極楽寺坂となります。

この4つの切通し、いずれも先のような防衛性に富んだものとなっているため、当初新田義貞はこれらの4つの切通しを総計10万の大軍で攻めても落とせなかったのです。

結局、「太刀投げ」で有名な海側の稲村ケ崎を経由して鎌倉内に突入した義貞を含む遊撃隊が、極楽寺坂を守備する鎌倉幕府軍を後ろからも攻めることで、やっとこの切通しを落し、そこからなし崩し的に鎌倉を落すのです。しかしながら北側の巨福呂坂と化粧坂は最後まで落ちなかったと聞いています。(写真④
④化粧坂
⑤上杉家2つの家争い
さて、亀ヶ谷坂は、山之内と扇ガ谷を結ぶ切通しなのですが、この2つの地名を上げると思いだしてしまうのが上杉家。
図⑤

山之内上杉の本家が北鎌倉の北側という鎌倉の中心から外れた場所にあったのに対し、扇ガ谷上杉は、かなり鎌倉に近いのです。この間を結んでいるのがこの亀ヶ谷坂であることを考えると、両家の間に切通しがあること自体、やはり同じ上杉家でも対立するはずだよと思ってしまいました(笑)。

勿論、この亀ケ谷坂を両家が武力抗争に使ったことはありません。ただ、皆さん良くご存知の太田道灌、扇谷上杉の分家の方の執事として活躍します。当時山之内上杉の執事である長尾景春の乱を抑えに、新横浜付近にある小机城にも軍を出したのは有名です。(写真⑥
⑥鶴見川からみた小机城(新横浜)
※手前の橋は亀の甲橋で太田道灌がこの橋の袂
(右)にある亀の甲山に小机城攻撃陣を敷いた

2.岩船地蔵堂

さて、そんなことを色々と妄想しながら、亀ヶ谷坂を扇ガ谷方面へ降りていくと、道の分岐点となる場所に写真⑦のような瀟洒な六角堂が見えてきます。(写真⑦

この建物は岩船地蔵堂と呼ばれ、源頼朝と政子の娘・大姫を供養する地蔵堂なのです。
⑦岩船地蔵堂
大姫をご存じの方は多いと思いますが、今一度復習をしましょう。

⑧大姫 藤野もやむさんの「ひとさきの花」から
※大姫の絵は昔から沢山ありますが6歳の幼女に
見えるものは少ないです。私のイメージはこれ
大姫ー頼朝と政子の間に出来た最初の子(長女)です。(絵⑧

6歳の時、同じ源氏同士でありながら、対立していた関係の解消のため、鎌倉へ送られてきた源(木曽)義仲の11歳の長男・義高と婚約することになります。

つまり、義高は人質として頼朝のところに送られた訳です。これは後に徳川家康の孫・千姫が7歳で秀吉の息子・秀頼に嫁いだのと似ています。

義高は11歳にしては背丈が伸び、大人びたイケメンだったようです。

自分が人質として鎌倉に来たことを自覚し、その憂いを含んだ立ち居振る舞いは、周囲の大人からも「いじらしい」と感じられたのです。

一方、大姫は自分の「お婿さん」が来たというので有頂天(笑)。

「義高さま、今日はお寒いので、この服をお召しになって」

「義高さま、黒豆は体に良いのですよ。残してはなりませぬ。」

等々、まるで政子が頼朝に話しかける様子を真似します。いや、それ以上に義高に甲斐甲斐しく尽くそうとするのです。義高もこの「おままごと」のような大姫からの扱われ方に苦笑しつつも、やはりどこか自分は人質だからという諦観もあったのでしょう。苦笑の後に、ふと寂しげな表情を一瞬見せるのです。大姫はわずか6歳といいながらも、そんな義高の表情を見逃してはいなかったのです。

このように大姫に合わせて遊んでいる義高も、時々男の子らしく、馬を引っ張り出し、由比ガ浜や七里ガ浜を駆けまわったり、裏山へ登って故郷の木曽で遊んでいた時のように、木に登ったりする時もあるのでした。

ある時、木から降りる途中、誤って滑ってしまい、小枝に親指をずぶりと刺してしまいました。血をしたたらせて屋敷に帰ってきた義高を見た大姫は火のついたように泣きだします。まるで自分が怪我でもしたかのように「あーん、あーん」と幼い泣き方をするのです。むしろ戸惑ったのは義高でした。

「何でもないよ。ドクダミでもつければすぐに治る」
「だめ!ダメよ!」
大姫は泣きながらもすぐに侍女を呼びつけ、碗に水を汲んでこさせました。それからやわらかい布で義高の傷口を洗い始めるのですが、いくら拭っても、血はあとからあとから湧いてきて止まりません。するとやにわに「かぷ」と大姫が義高の親指を口にくわえたのです。「あ!」と義高は驚きました。大姫はまだ泣きじゃくっています。それはまるで獣が傷口を舐めて癒そうとするかのように。その泣きながら指をくわえ血を止めようとする大姫の姿を義高は不思議なものを見るように黙って見ていました。

この事件があってから、義高の大姫に対する態度が変わりました。

それまでは大姫のいいなりに遊び相手をしていたのですが、逆に義高から大姫を誘うようになったのです。浜遊びや山歩きに大姫を連れて歩くようになったのです。彼らが一番良く行ったのは海の見える小高い丘の上でした。
潮風にふかれながら、義高は長い間、黙って海を見つめているのです。

「何をみていらっしゃるの?」
大姫が訊くと、義高はふりむきもせずに答えます。
「海の上の空」

「え?海ではなくて?」と大姫。
「木曽の空とは青さが違う気がして・・・」
「どんなふうに違うの?」
「うーん、上手く言えないなあ」
「わたしも見たいな。木曽のお空。義高さま、今度私も連れて行って」

義高は大姫の顔を覗き込むように見ました。そのキラキラ光る大きな瞳は、苦しいと思っていた人質生活の中で唯一の宝物のように感じられたのです。彼は無言で懐から1つの黒い小さなネズコ(木曽材)でできた小さな地蔵を取り出し、大姫に渡します。

「それは僕が小さい頃、木曽の山で拾った木を削って作ったものだよ。木曽の匂いがするんだ。本当は木曽の山の誰も知らない祠に入れておいたんだけど、こちらに来るときに持ち出して、それ以来毎日、僕が木曽に帰れますようにと、このお地蔵さんに祈っていたんだ。でも決めた!今度大姫と一緒に木曽に行って、二人で祠に戻そう!」

3.義高の死

さて、義高が大姫と出会ってから1年経った1184年卯月(4月)、突然義高は屋敷から姿を消してしまうのです。大姫は泣き顔で探し続けます。

◇ ◆ ◇ ◆

この1年の間、大姫と義高が仲良くなっていったのとは対照的に、二人の父親・頼朝と義仲の仲は急速に悪化していったのです。義高を人質に出した後、義仲は怒涛の如く都に向い進撃を開始します。義仲は倶利伽羅峠(くりからとうげ)で、牛の角に松明を付けて敵陣に突進させるという奇策で、平家の大軍を打ち破ります。(写真➈
➈倶利伽羅峠の戦い
※牛の角に松明を付けています

引き続き、都目指して進撃してくる義仲軍に恐れおののいた平家は、安徳天皇を奉じて兵庫の新造の都・福原へ落ち延びるのです。この時巧みに平家から逃げ出した後白河法皇は入京してきた義仲に期待するのですが、「木曽の山猿たちが都の食糧を漁りに来た」と悪口を叩かれるくらい、京における義仲の軍律は乱れに乱れ、略奪は当たり前の状態でした。

また、戦は強くても、政治的手腕は皆無に等しい義仲は、1か月も経たないうちに京の持て余し者になっていました。早くも後白河法皇は彼を見限り、頼朝に義仲追討を命じるのです。頼朝は早速、弟の範頼・義経を大将に鎌倉から軍勢を出し、宇治川の戦いで義仲軍を破ります。粟津にいた義仲は北陸に脱出しようとするも顔面に矢を受けて敗死するのです。

父・義仲の死によって、鎌倉にいる義高の立場は急速に危うくなります。頼朝は自分が平清盛に14歳の時に命を助けてもらったことが、平家の甘いところだと強く認識しているのです。つまり、ここで義仲の遺児・義高を生かせば、あの時の自分が生かされたのと同様、きっと父・義仲の仇である自分を討ちに来るに違いないと確信しているのです。

これを最初に察知し、顔色を変えたのは妻・政子でした。彼女はこの1年間で、すっかり素直で優しい義高がお気に入りになったばかりでなく、大姫の義高への慕い方が異常なまでに激しいことを知っていたからです。

政子は侍女たちに義高を密かに女装させ、屋敷を抜け出させたのです。

◇ ◆ ◇ ◆

「ねえ、義高さまはどこにいるの?いつお帰りになるの?」

大姫は手あたり次第に侍女たちに聞きまわり、皆を困らせました。侍女も侍女で、逃がしたとは言えず、上手く説明できないのです。大姫は大声で義高を呼んだり、不機嫌になって周りに当たり散らしました。

屋敷の中の緊張感もにわかに高まりました。というのは頼朝が義高の脱出を知ったのです。御所からこの屋敷に使いが来ては、「どこに逃がした!」「知りませぬ!」との激しい応酬が繰り返されます。
物々しい取り調べの武士たちが捜査に乗り込んできていたのですが、唯一、不幸中の幸いだったのは、幼いからなのか、義高だけに心を奪われていたからなのか、大姫には周囲の喧騒は聞こえなかったようです。

ただ、大姫の駄々は日1日1日と激しくなっていきました。

⑩大船にある義高の墓
ところが、このような状態が続いた6日目の朝・4月26日、白熱した喧騒の渦もピタっと止まりました。さえずる鳥の声さえも聞こえてきません。静寂した冷たい空気が屋敷の中に流れ、人々は沈黙したのです。

義高の死の知らせが屋敷に入ったのです。政子の配慮の甲斐もなく、頼朝の命を受けた御家人の郎党により、義高は入間川の河川(埼玉県)に追い詰められ、無残な最期を遂げたのでした。(写真⑩

侍女たちが顔を蒼白にして沈黙した時、不思議と大姫はむずかることを止めました。
そして、義高の名さえ口にしなくなったのです。

それから2日後、大姫は政子の妹・阿波局(今若、阿野全成の妻)から全てを聞き出します。

「義高さまはお逃げになったのです。でもやっぱり駄目でした。入間川のほとりで掴まって、ずたずたに斬り裂かれて、転げまわって、首を刎ねられ・・・」

4.10年後の大姫

大姫はその日から一切食事を取らなくなりました。そして翌日から大熱を発し、近づこうとするものは母・政子であっても子供とは思えないような力で跳ね飛ばします。

政子は大姫に話をした妹や、義高を殺した頼朝を恨みました。そして2か月後、義高を斬った御家人を梟首(きょうしゅ)にしたのです。やっとその頃、床を離れた大姫に政子は言います。

「お父様(頼朝)のご命令を聞き間違えて、義高を殺した悪いやつらはちゃんとお仕置きしましたからね。姫、これで気が済んだでしょう?」

しかし、大姫は、うつろな目で一点を見つめているだけです。

ー6,7歳の子供のことだ。そのうちけろりと忘れてしまうだろうー

と言った頼朝の言葉を政子は思い出します。政子も周囲の大人も大体そう思ったのです。

それが誤りだったと人々が悟るのは10年も先のことなのです。その時7つでしかない大姫がまさか17、18歳の女と同じ心情にあるとは誰も想像できないのです。

この日以来10年間、大姫はついに普通の健康体には戻りませんでした。体のどこが悪いという訳ではないのですが、10年の傷心が徐々に体を蝕んでいったのです。

17歳になった大姫はそれはそれは美しいのですが、咲きながら命を失っている花の残骸を見るようで、頼朝も政子も心を痛め、自分たちがしたことの業の深さを思い知るばかりでした。

加持祈祷による健康回復祈願は勿論、頼朝の姉の息子である一条高能(いちじょう たかよし)との縁談を進めようとしたこともありました。

この時も大姫は
「母上、おやめください。私の心は義高さまが斬られた時に死んだのです。」
とぞっとするような静かな笑みを湛えながら言うのでした。

それでもあきらめきれない政子は、1195年に上洛した折、後鳥羽上皇の女御(にょうご)として入内させようとしました。女として最高の地位につくことによって、義高のことを忘れるのではないかと期待したのですが、実現する前に大姫は1197年、最後の灯が消えるように、はかなく命を終えるのです。

5.地蔵堂内のお地蔵様

この哀れな死を悼む北条、三浦、梶原氏などの多くの人々が、この地蔵堂のある扇ガ谷に野辺送りにする時、大姫の手にぎゅっと握られていたものがあることに気が付きました。

そう、黒い小さなお地蔵さんです。それは決して綺麗でも完全でも無く、唯々黒くて小さな木片に過ぎなかったのですが、その材質が木曽材であることを知った時、人々はまた泣きました。

この木片であるお地蔵さんは大姫と一緒に埋めることにしたのですが、その場所に木片を模して木造地蔵尊を供養のために安置しました。(写真⑪
⑪岩船地蔵堂にある木造地蔵
勿論、今のこの像は再建されたものですが、良く見ると口紅を付けた可愛らしい女性のお地蔵様であることが分かります。

大姫と義高との悲恋の物語は諸説あり、私の今までのお話も永井路子さんの小説の一部をアレンジして創作したものです。ただ、私は岩船地蔵堂を覗き込んで、この紅をさした綺麗なお顔のお地蔵さんを見た時、大姫とこのお地蔵さんと義高の繋がりについて、色々と妄想が始まりました(笑)。そして史実を曲げない範囲でこんな悲話を描いてみた次第です。

皆さんはどう思われますか?

今回も長くなりました。鎌倉巡りは続きますが、ここでまた、一度筆を置きます。
ご精読ありがとうございました。

《つづく》

【亀ケ谷坂】神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目10 Unnamed Road 亀ケ谷坂切通
【化粧坂】〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目14−7
【木曾塚(木曽義高の墓)〒247-0056 神奈川県鎌倉市大船5丁目15−19
【岩船地蔵堂】〒248-0011 神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目3

つれつれ鎌倉② ~足利尊氏の墓所・長寿寺~

①今回の鎌倉散歩

前回お話をしました東慶寺を後にした私は、次に長寿寺に向かいました。

このお寺も大きな道・県道21号線沿いにあります。(地図①

1.足利尊氏の屋敷跡だった長寿寺

この県道21号線というのは、北鎌倉から建長寺前の鎌倉学園前を通ってトンネルを抜け鶴岡八幡宮へ行く有名な道路です。私も子供の頃から良く使う道でした。

長寿寺の前も何度も行き来しているはずなのですが、改めてここが足利尊氏とゆかりの深いお寺であると言われると「へー、そうだったんだ!」と感じてしまいます(笑)。

鎌倉はそのような場所が多いですね。つまり、興味を持って見直すと歴史上非常に重要な史跡なのですが、興味がないとタダのお寺にしか見えません(笑)。

奥が深いです。鎌倉は。

さて、その長寿寺、21号線の道から向かって右手の石段を登ったところに山門があります。(写真②
②石段を上ると山門があり、奥に境内が広がっている

境内はかなり広いです。(写真③
③境内(奥が先程の山門)
長寿寺の解説が書かれた看板には、足利尊氏の邸宅跡にこのお寺を造ったとあります。

あれ?ここは鎌倉ので、足利家代々の屋敷って鎌倉からにあるのでは?と、先日仲間と一緒に行った時の写真を探します。(写真④
④鎌倉の東にある足利公方邸の石碑
写真④の石碑には「頼朝公が幕府を開いてから二百数十年ここに足利氏の屋敷があった」と書かれております。1192年あたりから建武の新政1333年は141年間ですから、鎌倉時代~室町時代ずっとここ写真④の場所に足利邸はあったはずです。ちなみに石碑には尊氏やその子義詮(よしあきら)、基氏(もとうじ)もここに棲んだとの記載があります(笑)。

これはどういうことでしょうか?Webを色々調べましたが、なかなか明確な答えが見つからないので想像するしかないのですが、どうやらヒントは地図①に書いていました。

地図①の上の方に赤字で「山ノ内」、下の方に、この後向かった「扇ガ谷(おうぎがやつ)」と書いてあります。この2つの地名を見て思い出す方も多いと思います。

「山ノ内上杉」と「扇ガ谷上杉」。

この長寿寺の辺りを挟んで、両上杉家の鎌倉屋敷があったのです。

尊氏の母、清子は京都の上杉家から足利家へ嫁いできた関係もあり、足利尊氏の室町幕府創建に貢献度の高かった上杉家をそれ以降足利家は、関東における非常に重要な地位・関東管領にするのです。

そして、その上杉家、鎌倉では本家が「山ノ内」、分家が「扇ガ谷」と地図のような近距離に大きな勢力を占め、ずっと後、戦国時代初期に扇ガ谷上杉の執事である有名な太田道灌をも巻き込み、この2家の争いは絶えませんでした。そこに伊勢新九郎こと北条早雲を始めとする後北条氏が付け入り、最後は上杉謙信にその家名を譲るところまでいってしまうのです。

駆け足で室町時代の上杉家の話をしちゃいましたが、その室町時代初期の上杉家、足利尊氏が幕府に反旗を翻した時にも大活躍する上杉憲顕(うえすぎ のりあき)は山ノ内上杉の始祖です。

このように母親の実家であり、強力な後援者である上杉氏の近くに足利尊氏の屋敷が、もう1つあってもおかしくはないのかなと思うのですが、如何でしょうか?

2.足利尊氏のお墓

本堂には通称「二つ両引」と呼ばれる足利氏の家紋付きのお賽銭箱があります。(写真⑤
⑤長寿寺本堂
写真⑤右側の像が足利尊氏像ですね。

ちなみに足利尊氏の法名は良く「等持院(とうじいん)殿」と呼ばれることが多いのは有名です。これは足利氏の京都の菩提寺が等持院であり、ここに尊氏のお墓があるからです。(写真⑥
⑥京都・等持院
(足利氏の菩提寺・尊氏のお墓がある)
逆に鎌倉では尊氏の法名を長寿寺殿と呼ぶと、看板には書いてありましたが、等持院殿ほどは知られていないような・・・。

長寿寺を開いたのは足利尊氏ですが、後、嫡子・足利義詮が尊氏の後継者として京都へ行ってしまった後を任された弟・基氏が、父・尊氏を偲んで、このお寺を大きくしたのだそうです。

等持院、長寿寺、両寺とも法名がありますから、勿論尊氏のお墓もあります。
写真⑦はこの長寿寺にある尊氏のお墓です。(写真⑦
⑦長寿寺にある足利尊氏のお墓
鎌倉らしく、大きなやぐらにあります
⑧柵の中に入れませんので望遠で撮影
かなり不安定な石積みですね
ちょうど先程の山門にいらしたお坊さんに尊氏のお墓について質問しました。



「足利尊氏殿のお墓は京都にもありますが、分骨されたのでしょうか?」
「いえ、こちらのお墓は、尊氏殿の遺髪だけです。」

京都・等持院はお骨、鎌倉・長寿寺は遺髪ということですね。

ちなみに、京都・等持院の足利尊氏のお墓も、この一週間後に行ってきましたので以下に写真を掲載します。(写真➈
➈京都・等持院にある足利尊氏のお墓
京都のお墓は生垣に囲まれ、小奇麗な感じです。後に足利義満が「花の御所」を設立したのと関係があるのでしょうか?

鎌倉は鎌倉らしく男性的なやぐら、京都は生垣、とその土地その土地にあった特徴がありますが、両お墓とも気になったことが1つあります。

それは
「一時代を築き上げた初代将軍のお墓としては、非常に地味ではないか」
ということです。

少なくとも後世多少手が入ったにせよ、鎌倉時代を築いた初代将軍・源頼朝のお墓や、江戸時代を築いた初代将軍・徳川家康のお墓はもっと立派です。廻りから奉られたという印象を強く受けます。(写真⑩
⑩左:源頼朝のお墓 右:久能山東照宮にある徳川家康のお墓
この辺り、後世の人々から足利尊氏があまり良い印象を受けていないということの現れだったりしないでしょうか?

南朝・北朝の話もありますが、尊氏は恩がある北条一族を裏切ったこと、特に北条得宗家である高時には恨みもあるのでしょうが、尊氏の正室・登子のお兄さん・赤橋守時(北条守時)は、義兄ですし恩義もあります。世の趨勢とは言え、裏切るという行為自体がやはり武士道として如何なものか?と評されたのではないかと妄想します。

また尊氏の弟・直義の暗殺、息子・直冬との確執など、やはり忠義や仁といった後世の朱子学的な価値観からは、積極的に理解してあげようという雰囲気は醸成されなかったのではないでしょうか?

現代であれば足利尊氏は、幕府再建という観点で戦略的な動きをした、大局観があると高く評価されそうな人物なのです。吉川英治氏の作品「私本太平記」あたりから尊氏について見直されるようになりました。しかし、江戸時代までの武士道はビジネスとはちょっと違う観点なのでしょう。

その点、同時代を生きながら尊氏のように組織は築けませんでしたが、それでも戦術と忠義という観点でピカ一だった武将・楠木正成については、非常に評価が高いです。ちなみに楠木正成の墓については、神戸にある湊川神社のお墓を写真⑪に掲載します。
⑪屋根付きの楠木正成のお墓(神戸・湊川神社)
「嗚呼忠臣楠子墓」(ああ天皇家に対するすばらしい忠臣だ!楠木正成公は!)

と墓石に揮毫したのは、水戸黄門こと水戸光圀です。彼が編纂した「大日本史」は以降の皇国史観の基(もとい)、また現代の日本史の基礎となったことは有名ですが、その光圀からも絶賛された楠木正成でした。(現在拙著「マイナー・史跡巡り」の方で楠木正成について書き連ねておりますので、そちらもご笑覧いただければ嬉しいです。)

楠木正成のお墓、源頼朝や徳川家康に比肩するほど立派に見えませんか?

3.亀ケ谷坂

さて、長寿寺の通用門から出て、扇ガ谷に向かいます。(地図①参照

「山ノ内」と「扇ガ谷」を結ぶこの道。大きな坂となっています。亀ケ谷坂と呼びます。(写真⑫
⑫亀ケ谷坂
鎌倉特有の切通しで、車は侵入できないようになっているこの坂、先程お話した山ノ内上杉と扇ガ谷上杉が行き来した頃の雰囲気を残しているのだろうなあと思いながら歩きました。

すみません。紙面が無くなりました。続きはまた次回描きます。

長文ご精読ありがとうございました。

《長寿寺の公開時期について》
鎌倉に住むFacebook友達から指摘がありましたが、長寿寺は常に公開している訳ではありません。春と秋に期間限定で公開しており、それ以外は山門すら閉まっているとのことです。ご訪問の際にはWeb等で公開しているかどうかご確認の上、お出かけください。

【長寿寺】〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内1520


つれつれ鎌倉① ~のぼうの寺・東慶寺~

最近、楠木正成を「マイナー・史跡巡り」で特集していることもあり、太平記の時代を基軸に、鎌倉の由緒ある場所に行くことが数回ありました。

ご存知のように鎌倉は、折り重なるように様々な時代の史跡が密集しております。目的の鎌倉時代末期から建武の新政、室町幕府設立までの頃をターゲットに現地へ行っても、それ以外の時代の史跡にも多々出くわします。

①東慶寺は横須賀線北鎌倉駅から3分
横須賀線は円覚寺の境内を横断している?
それらを私の備忘も含め、連々(「れんれん」ではなく、あえて「つれつれ」と読みます)と紀行文のように記していきたいと考え、このシリーズを立ち上げます。

お付き合いいただければ幸いです。

1.円覚寺の参道

最初に取り上げるのは、東慶寺です。円覚寺ではないです(笑)。

横須賀線の北鎌倉駅を降り、歩いてわずか3分程で、このお寺に着きます。(地図①

高校の頃は、このあたり比較的学校から近かったこともあり、毎週のように学校の後、自転車等で、東慶寺の前を通っていました。

その頃は、東慶寺についても「ああ、駆け込み寺ね。女の人がストーカーに狙われたら逃げ込むお寺でしょ?」くらいの認識しかありませんでした。

むしろ、北鎌倉と言えば、円覚寺!というくらい、ここの庭園等を散策するのが好きで、何度も境内に足を運んだものです。ところが、今回東慶寺に行く途中、円覚寺について初めて認識したことがあります。(写真②
②円覚寺石柱の向こう側をJR線が走る
つまり円覚寺参道をJRが横切っている?
何度もこの石柱の前の県道21号線を行き来しましたが、全然気が付きませんでした。確かに地図①でも円覚寺の白鷺池の北東側をJRが横切っています。

どうやら、これは現在の横須賀線が日清戦争前に急ピッチで造られたことと関係があるようです。

そこで思い出した話があります。文明開化で鉄道が敷かれ始めたころ、その敷設に1つのルールがあったようです。

「海沿いの路線は、敵の艦砲射撃の的になりやすいので極力避けるようにする」

特に横須賀などは軍事基地がある場所。そこへの補給線となる横須賀線には敷設に軍事的な気遣いをかなりしたことが想像できます。

それが即、円覚寺の参道横切り敷設に結び付いたかどうかは、もう少し調査する必要がありますが、円覚寺境内を横切るだけでなく、鎌倉駅付近では、沿岸を避けるため、鶴岡八幡宮若宮大路の段葛(だんかずら)を寸断して線路が敷設されたようです。

横須賀線が開通してから5年後に日清戦争は勃発しました。(1894年)

と想像にかられながら県道21号沿いに歩くこと3分。東慶寺に到着しました。(写真③
③東慶寺山門

2.東慶寺

境内は、鴬等の鳴き声も麗しく、また写真④のような菖蒲畑や、寒雲亭の門(写真⑤)等も美しいだけでなく、落ち着いた雰囲気の日本庭園となっています。
④東慶寺で有名な菖蒲畑の菖蒲


⑤寒雲亭
穏やかな雰囲気に包まれ、奥の墓苑に到着します。

夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることが出来なかった時代に駆け込めば離縁できる女人救済の寺として知られるこの東慶寺。

元寇に対処した名執権・北条時宗(ときむね)の奥さんが建立しました。(1285年)

その後、後醍醐天皇の皇女・用堂尼(ようどうに)が兄・護良親王の供養のために入寺され、「松岡御所」と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せるようになったのです。(写真⑥

護良親王の鎌倉での暗殺は、拙著マイナー・史跡巡り:「首洗井戸③ ~雛鶴姫 その1~」にご紹介しておりますので、ご笑覧ください。

当時、鎌倉を支配・管理していた足利尊氏の弟・直義(なおよし)が、部下に命じて護良親王の暗殺を実行しました。

ただ、その計画には後醍醐天皇ご自身が、阿野廉子の讒言により決めた- いや直義が独断で- いやいや尊氏が決めた-等等 護良親王暗殺に関しては噂や議論が百出するのです。
⑥左:用堂尼のお墓は高い場所に
 右:やぐらの中でちんまりしていらっしゃいます


用堂尼が純粋に兄のことを想い、ここで静かに尼として過ごされたことは、やはり後醍醐天皇を含め、天皇家側で護良親王をどうこうしようと画策したのではなく、足利一族内で、室家に相談無く暗殺を決めたのではないかと、私は用堂尼のお墓に参詣して思いました。(写真⑥

用堂尼のお墓は、皇女のお墓ということで、宮内庁管轄になっております。そのため、他のお墓群とは囲いによって分けられています。(360度写真⑦参照:白いTシャツを着た方が立っているやぐらが用堂尼のお墓、隣のやぐらは東慶寺を建立した時宗の妻の墓)

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 ⑦東慶寺の高徳な方々のお墓群

3.甲斐姫のお墓

さて、このお墓群の中で、最近ネットで話題に挙げられているのが、映画「のぼうの城」で有名になった甲斐姫のお墓です。

⑧映画「のぼうの城」の甲斐姫
この映画では、榮倉奈々さんが甲斐姫の役を演じております。(写真⑧

拙著:マイナー・史跡巡りでも「のぼうの三成 ~忍城水攻めに見る石田三成~」で概要は取り上げておりますので、そちらもご笑覧いただけると嬉しいです。

豊臣軍の小田原攻めで、現在の埼玉県は行田市にある忍城を石田三成が2万の兵で攻めます。守る「のぼう」こと成田長親や、この甲斐姫ら忍城側の兵力は500。この寡兵を持って大軍を迎え撃つのに、のぼうや甲斐姫らが奇策でもって立ち向かうという痛快劇であると同時に、真のリーダーとは何かを考えさせられる作品となっているものです。(写真➈

この映画の中で、石田三成に当初降伏する予定だった「のぼう」が突如「戦いまする!」と翻意したことの一因が、「甲斐姫を秀吉の側室として召し出す」という三成側の条件を「のぼう」が飲めないと判断したんだと甲斐姫は思い込み、「のぼう」を信頼して意気揚々と戦います。
⑨映画「のぼうの城」
Wikiによると、この甲斐姫、「東国無双の美人」と評される一方で、非常に勇猛果敢な女武者振りから「男子であれば、成田家を中興させて天下に名を成す人物になっていた」との評価もあったと伝えられますので、映画の役柄も伊達では無いのかも知れません。

ところがところが、忍城は落ちずに小田原征伐の終戦を迎えると、「のぼう」は甲斐姫を秀吉の側室に出してしまいます。榮倉奈々もガッカリです(笑)。実はこれには「のぼう」の大きな甲斐姫に対する愛があったのですが、甲斐姫は理解できたかどうか・・・。

さて、失意だったかどうか定かではありませんが、豊臣家に入った甲斐姫、一説には淀殿の信任を得て豊臣秀頼の養育係を務め、武勇を生かして隠密的な役割を果たしたと言う事です。

そして、秀頼と側室との間に生まれた娘(後の天秀尼)の養育係を務めたとの説があるのです。大阪夏の陣の時に、この秀頼の娘は、甲斐姫の大きな支援のお蔭で、男性であっても困難な大阪城という戦場からの脱出行をし、かつ甲斐姫が、家康の孫娘・千姫に対して助命嘆願の支援をしたことで、命を取り留めるのです。

そして甲斐姫は、この秀頼の娘と共に、ここ東慶寺に入るのです。
その後、死の間際まで、天秀尼となった彼女を甲斐姫は守り続けたのだろうといわれています。(写真⑩
⑩天秀尼の墓(右写真の右の丸い墓石)の横には
従者のものと見られる宝篋印塔(写真左)がある
これが甲斐姫のお墓との説が有力になってきている
上記、360度写真⑦で、私はこの甲斐姫の宝篋印塔の目の前に立って撮影しています(笑)。
⑪東慶寺御朱印

ただ、残念ながら、このお墓が甲斐姫のお墓であるとの史料は東慶寺には何も残っていないのだそうです。

4.おわりに

様々な状況証拠を鑑みると、やはり甲斐姫がこの東慶寺で天秀尼と共に暮らしていたのは事実のようです。

こんな平和なお寺でどんな余生を暮らしていたのでしょう?

高校生の時にいつもこのお寺の前を通るたび、「縁切寺、駆け込み寺、つまりここに逃げて来る人は弱い立場で可哀想な女性ではないか」とステレオタイプ的に想像していましたが、甲斐姫のような強くて戦国時代の戦場を駆け抜けて来た女武者もいたことを想うと、流石800年の長きにわたる東慶寺の奥深さを、この雰囲気の良い日本庭園の中で、感じることができました。(写真⑪

《つづく》

ご精読ありがとうございました。次は足利尊氏のお墓のある長寿寺から、大姫に関係の深い岩船地蔵堂を特集します。

【東慶寺】〒247-0062 神奈川県鎌倉市山ノ内1367